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かくて北の方(於大の方)涙ながら岡崎を出給う。刈屋におもむき給う。金田惣八郎正祐・阿部四郎兵衛定次、其他さむらい五十人ばかりお供せり。
北の方を輿
(昔の乗り物の一つ。屋形の中に人を乗せ、その下に取り付けた二本の長柄【ながえ】をかついで運ぶもの
)に載せて岡崎と刈屋の境に至った時のことである。
北の方がお供の人々を集めて、
「みなさん全員私をこの場所に置いて岡崎に戻ってください。」と驚きの発言をした。
金田・阿部がともに、
「どうしてそのようなことをおっしゃるのですか。広忠様から北の方様をよく警固して刈谷城まで無事お届けするよう命じられています。何卒このままお供をさせてください。」と哀願したのであった。
北の方にはお供の者たちの気持ちが十分通じていた。
「いや、そうではないのです。私が無事刈谷城まで無事到着することよりも、あなたたちが刈谷城に無事帰れないことを心配しているのです。兄水野信元は大変短慮な人で恐らく皆さんを生かして岡崎城まで戻すようなことはしないでしょう。
私は離縁されて実家に戻ることになってしまいましたが、竹千代を岡崎城に残しているので岡崎城の方々をこれからも身内と思い続けます。もし、あなたたちが兄水野信元に殺害されたことを成長した竹千代が知ったら、将来竹千代は兄水野信元を恨み、伯父と甥の対立関係となってしまうかもしれません。そのようなことにならないよう、このまま皆さんに岡崎城へ戻って欲しいのです。」
北の方は涙を浮かべお供の者たちを説得するのであった。
金田惣八郎正祐と阿部四郎兵衛定次は相談し、北の方の意思が固いことと深い配慮を勘案し申し出を受けることにした。
近くの小川領の農民15人程を呼んできて、北の方を載せた輿を刈谷城まで運ぶよう手はずを整えた。
涙ながらお供の人たちは北の方を載せた輿が刈谷城に向かうのを見送るのであった。
遠く離れて行く輿を見送るために、お供の人たちは山林の中で身を隠しながら遠方まで見通せる場所に移った。
間もなく刈谷城から高木善治郎清秀・水野太郎作清久を始め30人が迎えにやってきた。
輿を運んでいるのが岡崎城から来た者でなく、小川領の農民であるのに驚いた様子であった。
果たして水野信元は高木・水野らに岡崎の者たちを一人残らず打ち殺すように命じていたので、羽織を脱げば甲冑の支度できたのであった。 |
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