金田宗家18代当主故金田近二氏の研究を基礎とする旗本金田氏家史研究会によって金田正信以前の上総金田氏、江戸時代の旗本金田氏については多くのことが解明されました。しかし、金田正興が三河国で松平氏に仕えてから大坂夏の陣に至るまでの三河金田氏については謎が多いのです。
このサイトは三河金田氏の謎を解明することを目的に開設されました。
東京湾アクアラインの木更津金田IC付近は木更津市金田地区にある。この周辺は平安時代末期に金田保と呼ばれる行政区画があった。この場所こそ上総金田氏の祖金田頼次が父平常澄から継承した所領であった。関東での勢力拡大を図る源義朝の意向に沿って、金田頼次は対岸の三浦義明の娘婿となった。兄上総介広常、義兄三浦義澄は平治の乱で源義朝とともに戦い、更に源頼朝挙兵の成功に決定的な役割をした。金田頼次は冤罪で無念の死を遂げますが、嫡子康常以降その子孫は千葉宗家とともに歩むことになります。
→上総金田氏歴代記
永正14年(1517年)小弓公方足利義明を擁する真里谷武田氏・里見氏の軍に敗れ上総金田氏は終焉を迎え、三河金田氏の祖となる金田正興は三河国一色村に追放された。大永年中(1521年〜1527年)に金田正興は松平清康に仕えることになり、三河金田氏は岡崎城の松平氏に代々仕えることになる。金田正房・正祐・宗房と忠死を遂げた者が多いのに、三河金田氏については何故か謎が多い。「金田一族の歴史」は三河金田氏の真実を究明する為に開設された。
上の写真は岡崎市にある照光山金田寺安養院。
三河金田氏の謎解きは三河金田氏の実像をクリック
寛永11年(1634年)金田正末刑死事件・正保4年(1647年)小諸藩5万石が改易され家老金田房能が浪人となることで三河金田氏の時代は終わる。
寛文元(1661年)新たに館林藩主となった徳川綱吉の城代家老に金田正辰は栄進し、綱吉が五代将軍となると金田氏は飛躍するのである。
金田正辰以降は三河金田氏と区別する為に、旗本金田氏もしくは江戸金田氏と呼ぶべきなのである。旗本金田氏発展は三河金田氏の功績があったからこそなのである。三河金田氏の真実を究明しなければならないと痛感する。
上の写真は館林城土橋門跡
詳しくは→旗本金田氏家史研究をクリック
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上総金田氏の研究に専念してきた。その結果、三河金田氏の真実を究明しなければと痛感したので、本サイト開設となった。
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