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序章 五代将軍綱吉と三河金田氏の謎
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鎌倉時代・南北朝時代・戦国時代・江戸時代と桓武平氏千葉氏の支流である金田氏の歴史を研究してきた。金田氏が歩んできた歴史は決して平坦なものでなく苦難の連続であったと言える。
江戸時代になると金田正辰が館林藩主徳川綱吉に城代家老として仕え、次男金田正勝は神田館で奏者番として仕えたのであった。
その後金田正勝は城代家老に任じられ15年に渡って職務を全うし、更に徳川綱吉が五代将軍になると江戸城にて側衆に任じられ5000石の旗本になったのであった。
五代将軍綱吉は犬公方と呼ばれ誤解されてきたが、近年になり硬直化してきた江戸幕府を改革し後の「享保の改革」につながる基盤固めをした将軍として再評価をされるようになってきた。徳川綱吉と金田正勝については第六章で詳しく述べることにするが、二人は強い絆で主従関係が結ばれていたと考えるように至った。
五代将軍綱吉こそ清康・広忠・家康に忠義を尽くしてきた三河金田氏について、「秀忠の代に何故改易となったのか」「正末刑死事件が起きた真相」を正確に把握していた人物だと確信できる。
三河金田氏の実像を探る前に五代将軍綱吉が残してくれた三河金田氏の謎を解明するためのヒントについて述ることにする |
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(1) 舘林藩主時代の徳川綱吉との主従関係その1
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生没その他 |
徳川綱吉 |
1646年―1709年 1661年舘林藩主25万石 1680年将軍宣下 |
金田正辰 |
1597年―1663年 1661年主君綱吉が舘林藩主となると初代城代家老として赴任 |
金田正勝 |
1623年―1698年 1665年2代目城代家老大久保忠辰が追放され正勝が3代目として赴任 |
参考 |
柳沢吉保(1658年―1714年)・牧野成貞(1635年―1712年)※ |
※牧野成貞の家老就任は1670年で知行は金田正勝と同じ3000石
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1661年徳川綱吉が館林藩主となった時に綱吉16歳、城代家老となった金田正辰は65歳、奏者番として仕えた金田正勝は39歳 であった。
後に綱吉の側用人となった柳沢吉保は館林藩士の子供で4歳、牧野成貞は27歳で金田正勝とともに奏者番として仕えていた。
綱吉が館林藩主だった時期は、金田正勝と牧野成貞が家老として忠勤に励んだと考えられる。そして柳沢吉保が成長するにつけ次第に頭角を現してきた時期なのあった。 |
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(2) 舘林藩主時代の徳川綱吉との主従関係その2
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徳川綱吉の家臣といえば側用人だった牧野成貞・柳沢吉保が有名である。それに比べ金田正辰・正勝親子は影が薄い。
しかし、上記のように綱吉が館林藩主だった時に、二人は江戸定住だった藩主の名代として25万石の領地領民と館林城を無難に治めたのであった。
- 1663年5月10日藩主綱吉は日光社参(将軍家綱に随行)の帰路、館林城に立ち寄った。城代家老金田正辰の労に報いるため備前兼光の脇差が下賜された事が正辰の人生における至福の喜びであった。同年8月3日67歳で正辰が病没したことから、綱吉にとっても思い出深い出来事であったのである。
- 大久保忠辰が次の城代家老として赴任するが、1665年自分の意見を上書したことが藩主綱吉の逆鱗に触れた為に、罷免された上高松藩に預けられたのであった。そして三代目城代家老として金田正勝が館林城に赴任し、その後15年間に渡ってその重鎮を勤め上げたのであった。
- 徳川綱吉が館林藩主として過ごした20年間の大半を城代家老として仕えた金田正辰・正勝親子は、藩主綱吉から絶大な信頼を得ていたことは間違いない事実であった。
- 犬公方綱吉とか忠臣蔵などのドラマでのイメージが強いが、実際の将軍綱吉は次第に硬直化してきた幕府の支配体制を改革した有能な将軍であったのであります。当然館林藩主としても優れた資質を有する人物だったはずです。
- 一説には館林藩士500人のうち200人は浪人から有能な人材を採用したといわれています。藩の財政・人事・統治は藩主綱吉の意向に沿って行われ藩士に対する十分な目配りが必要だったはずで、城代家老金田正勝は藩主綱吉の期待に応えることができたと断言できます。
綱吉の将軍就任後は舘林藩士たちは旗本となり、綱吉の幕政改革を推進することに貢献していくのでした。
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(3) 五代将軍徳川綱吉との主従関係
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1680年徳川綱吉が征夷大将軍に任じられた時に、綱吉35歳、金田正勝58歳、牧野成貞46歳、柳沢吉保23歳である。
江戸家老牧野成貞は側衆に任じられ江戸城に出仕いたします。城代家老金田正勝は翌年側衆にに任じられ、1686年まで5年間勤めることになります。
柳沢吉保は幕臣となったが当初は小納戸役であった。その後側用人として頭角を現してくるのは1688年31歳の時であります。
歴史上に名高い柳沢吉保は別格として、同じ家老であった牧野成貞が関宿藩主7万3千石の大名となったのに対し、金田正勝は5千石の旗本で終わってしまったのは何故でしょうか。
半世紀近く前に起きた「金田正末刑死事件※」が影響しているのではと思われてきました。
しかし、出世した牧野成貞・柳沢吉保の親族が不祥事件を起こしていることを考慮すると、半世紀近く前の事件だけでは説明できないのです。
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※金田正末は金田正藤の長子(正辰の兄)で、二代将軍秀忠の代に勘気を被り改易となっていた。
寛永11年(1634年)4月29日三代将軍家光が鷹狩りの時に、「ある重臣の不公平な計らいにより何も弁明もできずに罪を受け流浪の身となってしまいました。」と金田正末が将軍家光に直訴しました。
金田正末は捕らえられ僅か数日の取り調べで、5月3日打ち首となってしまいました。
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(4) 金田正勝と伊賀忍者
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将軍綱吉は文治政治によって大名から庶民にまで道徳観を浸透させようとしていた。更に幕府直轄領や長崎貿易の改革を進めることにも着手したのであった。他にも特筆することが多くあるが、第六章に譲ることにする。
先代までは老中による集団合議制だった幕府の政治は、綱吉が将軍就任後に絶対的権力者となることができた源泉は何だったのだろうか。
幕府」直轄領の代官粛清、大名旗本に対する改易・減封などが挙げられる。しかし、そのためにはターゲットとなる相手の状況を正確に把握する必要があるのです。
将軍綱吉は既に舘林藩主の時に、情報収集活動をするための人材を確保していたと考えられる。一般には隠密や忍者と呼ばれる者たちである。館林藩に新に仕官した藩士の中にいたかもしれないし、城下の町人や山伏などを装っていたかもしれない。
このような諜報活動できる人材をどのように確保したかを探求すると、三河金田氏と伊賀忍者の深い繋がりに起因していると考えるようになった。
金田正末刑死事件後から長く不遇な立場だった金田正辰が、1000石に加増され鉄砲頭となったのが家老となる5年前。
現在の新宿区百人町は鉄砲百人組の同心が住んでいたことに因み、同心たちが伊賀忍者の子孫であったことは有名である。
金田正辰が鉄砲頭となったことからも、忍者たちと何らかの関係があったことが推測される。
大坂の陣では、金田正辰の父金田正藤は伏見城の城番を務めた。当時の城代松平定勝(家康の弟)を補佐する重要な仕事である。
そのような立場だったのに禄高・軍功など金田正藤の記録は家譜などに残っていない。
そして、大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると間もなく病没するのである。
伊賀忍者として有名な服部半蔵の子である服部正就も伏見城で松平定勝に仕えていたが、大坂の陣に参陣して家臣とともに行方不明になってしまったのである。
大坂の陣で徳川の天下が定まったことと、金田正藤の病没・金田正末の改易更に服部正就の奇妙な死との間に何か繋がりがあるように思えるのである。
大坂の陣で豊臣氏が滅びたのが1615年。それから間もなく金田正末が改易になり、配下にいた伊賀忍者たちはそれぞれの人生を歩むようになった。しかし、金田正辰が舘林藩城代家老となりその子金田正勝も城代家老になったことで、昔の縁故を求めてかって配下にいた伊賀忍者の末裔たちが館林藩に集まってきた可能性が大なのである。
金田正勝が城代家老を務めていた15年間、藩主徳川綱吉から求められた情報収集を伊賀忍者たちが担っていたと考えられる。
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(5) 金田正勝が大名になれなかった理由
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- 徳川家と伊賀忍者の繋がりは、神君家康の伊賀越えに始まるとされているが、実際は松平広忠の代から伊賀忍者は活躍していたのである。
本能寺の変の時に家康一行が堺にいたのは、明智光秀に組していたかはともかく、事件が起きることを知っていたはずなのである。事前に堺にて警備する兵員や安全に三河に戻れるルートを確保するための準備はできていたからこそ戻れたのである。
このことは第四章金田宗房と金田祐勝で詳しく検証したいと思う。
徳川家康の代に活躍したはずの金田祐勝・金田正藤親子は、多分幕府の圧力によるものと思われるが没年などわずかな事項以外不明なことが多いのである。
更に金田正辰が出世する段階で、亡き父である金田正藤の本当の名前正勝を正藤に改名させ、次男に正勝という名を与えるという手の込んだことをしているのである。
このことは、第六章で詳しく述べることにして、幕府にとって伊賀忍者を配下にして家康のために活躍した金田祐勝・正藤親子のことは隠蔽する必要があったので、金田正勝を大名にすることは不都合だった。
- 金田正勝も城代家老として伊賀忍者を配下において綱吉から求められた情報収集を行い、多分将軍綱吉の側衆となった5年間は情報収集が主な仕事だったと考えられる。5年間に舘林藩士たちが旗本として主要なポストに就き、将軍綱吉の意に沿った働きができるようになったことで職を辞したのであった。多くの代官たちが免職され、更に大名旗本が改易減封されたことから、なるたけ綱吉の側近としては目立たないのが安全と考えたに違いない。
- 将軍綱吉にとって金田正勝が大名になって脚光を浴びることが、幕府にとっても本人にとっても都合が悪いのなら、5000石の旗本にしておくのが一番良いと考えたのであろう。
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(6)将軍綱吉による配慮
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金田正勝が舘林藩城代家老在任中に舘林藩に集まった伊賀忍者たちを、藩主徳川綱吉が目指す政治のために情報収集活動に活用したことで、将軍に就任した時に幕政改革の必要性を痛感していたのではないだろうか。
徳川綱吉が将軍就任後に伊賀忍者たちは側用人となった牧野成貞や柳沢吉保の配下として活動したことで、将軍や側用人の権力基盤を高めることに貢献した。将軍家宣や家継の代になっても柳沢吉保が間部詮房に代わっただけで重要性に変わりはなかった。
八代将軍徳川吉宗は側用人の制度を改革したけれども、将軍が直接情報を収集できる組織の重要性を認識していたので、御庭番という制度に発展させた。更に民の声を聞くために目安箱を作るなど情報収集の重要性は増していったのである。 |
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三河金田氏歴代は上総国から追放され三河国で松平清康に仕えることになり、守山崩れ(1535年)から綱吉の将軍就任(1680年)の頃まで、150年間に渡って徳川家のために黒子となって貢献してきたのである。
桓武平氏千葉氏支流の三河金田氏が伊賀忍者と繋がりが出来るのには壮大な歴史的背景によるもので、とてもここで書ききれるものではない。最後に綱吉の幕政改革の役立ったのであれば、これは天命だったのではないだろうか。
将軍綱吉が三河金田氏歴代の徳川家への貢献と家臣金田正勝の働きを高く評価していたことは間違いない。
それにしては金田正勝は1686年側衆を退任し1697年隠居し剃髪し梅山と号した時に、将軍綱吉が何か冷淡な印象がしなくもない。
正勝は所領5000石を長男正通に4000石・次男正則に700石・五男正朝に300石を継承させ、自分の隠居領としては500石としたのであった。
しかしこの時までに次男正則は500石(父の隠居に譲る)、三男正明は3000石を拝領していたのである。
正通4000石・正則700石・正明3000石・正朝300石それに隠居領500石を合計すると8500石になる。更に正勝の兄金田正勝1500石を加えればぴったり1万石になるのである。
三男正明は将軍綱吉の小姓として優遇されたことは確かだが、21歳で3000石に栄進したのは綱吉に何か意図があったからに違いない。本人の力量だけだったらその後も加増が繰り替えさえたはずである。
将軍綱吉は金田正勝が隠居するまでに金田正勝の親族を含めて合計1万石にすることで、本当は大名にしたかったという意思を残したと考えられる。決して冷淡ではなかったのである。
大名にはなれなかったが、黒子として激動の150年間を徳川家に献身してきた三河金田氏が、江戸時代残り180年間を穏やかな日々で過ごすことができたのは五大将軍綱吉の配慮によるものなのである。
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