「金田一族」を検証
上総金田氏発祥の地
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上総金田氏発祥の地 


上総国埴生郡金田荘(桓武平氏流金田氏本貫地)の説明
「日本家計協会 金田一族」の編集者が書いたものであるが、内容的には正確性に欠ける。
  • ここの埴生郡は千葉県に明治11年に指定された上埴生郡を指すものと考えられ、現在の茂原市・睦沢町・長南町にまたがる地域である。上総国に金田荘なるものは存在していない。(但し滋賀県近江八幡市には金田荘が存在した。)
  • 寛成重修諸家譜では始祖金田頼次について、上総国長柄郡金田郷勝見城に住しと書かれている。これは千葉大系図に同様のことが書かれていることから定着したもの。勝見城は現在の睦沢町寺崎に城址があり、金田郷は現在の長生村金田に地名として残っている。 金田頼次の嫡子金田康常が父頼次が没し千葉常胤に属すると、新たに長柄郡金田郷を所領とし勝見城を築城し居城としたもの。宝治合戦で金田成常の代に所領と勝見城は失われるが、成常の子鏑木胤泰以降千葉宗家の重臣として鏑木氏が代々続いた。鏑木氏の分家である蕪木城主だった蕪木氏が、戦国時代初期上総武田氏に千葉宗家が協力するために金田姓を復活することになる。更に金田信吉の代には勝見城主として復活するのである。宝治合戦で勝見城を失ってから約250年後の出来事である。
  • 「金田郷と勝見城」にて写真地図を加えて詳しく紹介している。
  • 上総金田氏歴代記の第一章で金田頼次について詳しく述べているが、金田頼次について検証した結果、上総国金田保(保は平安時代の行政単位)を所領とし、三浦義明の娘婿として現在の東京湾を往き来していたのが真相なのである。金田保は現在の木更津市の小櫃川流域にあたり望陀郡と呼ばれる地域である。
  • 正確な上総金田氏発祥の地は上総国望沱郡金田保となるが、一般的には千葉大系図・寛成重修諸家譜などで発祥の地とされているのが上総国長柄郡金田郷なのである。前者は木更津市金田地域として地名に名前が残っているだけである。それに対して後者は、上総金田氏が勝見城主として最も輝いていた時期があったことから、子孫にとって先祖を勝見城にて感じることができる場所なのである。
  • 木更津市 金田地区は現在東京湾アクアラインの千葉県側の玄関口になっているが、上総国で育ち上総氏・千葉氏を従えた源義朝が、房総の兵を船で対岸の相模国に渡るための重要な拠点だったのである。
  • 源義朝は三浦氏など相模国の豪族も従え鎌倉を拠点として関東に勢力を築いていった。そのためにも兵員を運ぶ十分な船を確保するのが金田頼次の大事な役割であり、対岸の三浦氏の娘婿となることで協力関係を築けたと考えられる。