「金田一族」を検証
米沢上杉氏からの娘婿
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 金田正矩(米沢新田藩1万石の継承者が旗本500石の婿養子に)
 
旗本金田氏家史研究で興味深い人物がいる。その人物は米沢上杉15万石の支藩米沢新田藩1万石から旗本500石の金田正峯家に婿養子として迎えられた金田正矩のことである。
旗本金田氏の宗家である金田正勝家の当主金田正澄は享保元年(1716年)12月病死し、長男金田正甫に3000石を相続させ次男金田正峯に500石を分地し新たな分家を起させた。享保16年(1731年)西丸御書院番となった記録からも平凡な旗本と言える。

それに対し養子となった金田正矩は米沢新田藩1万石上杉勝周の次男として生まれ、家督を継承した兄上杉勝承に子がなかったことから本来なら藩主を継承すべき人物なのである。それには上杉鷹山が関係しているらしい。

寛文4年(1664年)米沢30万石上杉綱勝は嗣子がないまま急死した為、米沢藩は改易の危険性が高かったが保科正之の尽力で改易を免れ、綱勝の甥にあたる綱憲(吉良上野介の長男)が藩主となった。このことで米沢藩は15万石に減封され米沢藩は慢性的な財政逼迫となるのであった。
上杉勝周は綱憲の四男として生まれ享保4年(1719年)兄上杉吉憲から1万石を分与され米沢新田藩を立藩した。
享保7年(1722年)上杉吉憲が亡くなると、幼い藩主宗憲を上杉勝周が補佐した。
宗憲・宗房と若き藩主が次々と亡くなり米沢藩の財政は悪化していった。
延享3年(1746年)宗憲・宗房の弟上杉重定が藩主になると、大凶作・打ち壊しなど米沢藩は危機的状態になっていった。
延享4年(1747年)米沢新田藩主上杉勝周が亡くなり上杉勝承が藩を継承した。
宝暦10年(1760年)上杉重定は実子がいるにもかかわらず、高鍋藩主秋月種美の次男を養子として迎えた。後の上杉鷹山である。
宝暦13年(1763年)米沢藩では混乱が続き上杉勝承は上杉重定の引退を促す活動をしている。
明和4年(1767年)上杉重定は隠居し上杉治憲(鷹山)が新たな藩主となった。
安永9年(1780年)旗本金田正峯の婿養子となっていた上杉勝承の弟勝職は義父の隠居に伴い家督を継承し金田正矩となった。
天明5年(1785年)米沢新田藩主上杉勝承が亡くなり(享年51歳)、上杉重定の三男上杉勝定が新たな米沢新田藩主となった。

米沢新田藩主上杉勝承が亡くなった時に51歳だったことを考えると、弟の勝職(金田正矩)がいたにもかかわらず、早くから上杉重定の三男上杉勝定が藩主になることが決まっていたと考えられる。
上杉鷹山が隠居し上杉重定の次男上杉治広に藩主を譲ったことからも、改革を成功させるためにも前藩主上杉重定の協力が必要だったのである。
金田正矩が金田正峯の婿養子になったのは、上杉鷹山の改革を成功に導くための行動だったのである。