竹千代誘拐事件(潮見坂と裁断橋)
 



 
 


 
 
○金田与三左衛門正房と松平広忠

天文16年(1547年)織田信秀の三河への圧力が強まり今川義元の援助を引き出す為に、松平広忠は嫡子竹千代を人質として駿河へ送ることになった。
竹千代の護送には金田与三左衛門正房が20数名の武士を率いる責任者の立場で参加した。
一行は西の浦(蒲郡市)を船で出発し、渥美半島の田原付近にに上陸。遠江国潮見坂まで進むが竹千代の継母(田原御前)の父田原城主戸田康光の策略にはまり竹千代を織田信秀のもとに送られてしまう。
このことは、山岡荘八著「徳川家康」で名文をもって竹千代誘拐事件として書き綴られています。

小説では最後まで竹千代に従っていた金田与三左衛門正房が戸田方の策略を阻止できないと観念すると、戸田方の目の前で責任をとって見事な切腹をして果てたと書かれています。
小説では金田与三左衛門正房は40代の頑固な三河武士として描かれていますが、実際の年齢は25歳ぐらいで広忠の近習として最も信頼されていた人物でした。
 
 ここでは小説に書かれている人物とは違っていることを周知するために、金田与三左衛門正房の人物像を述べることにする。
祖父金田弥三郎正興は上総国勝見城主金田左衛門大夫正信の弟であったが、上総国の争乱で兄・城・所領をすべて失い、勝利した小弓公方足利義明・真里谷城主真里谷信勝によって永正14年(1517年)頃に縁もゆかりもない三河国へ追放されたのであった。詳しくは
上総金田氏歴代記第七章上総金田氏の終焉その4書かれていますので参考にしてください。

三河国に追放された金田弥三郎正興・孫三郎正頼父子は三河国幡豆郡一色村で何とか生活できるようになり、大永3年(1523年)に松平清康が家督を継承し人材を求めるようになったので松平家に仕官することが出来た。その後、正興は没したと思われるが正頼は松平清康の近習として仕えたのであった。

天文4年(1535年)守山崩れで松平清康が非業の死を遂げた。嫡子広忠が10歳(三河物語では13歳)だったので、清康に対して謀反の意思をはっきりしていた松平信定(清康の叔父)が岡崎城を乗っ取り実権を奪ってしまった。
同年阿部大蔵定吉が東条城主吉良持広と協力し広忠を伊勢国にある吉良氏の所領へ逃避することにしたのです。
この時に松平家の家臣たちは所領を守る為に松平信定に従ったのですが、近習だった金田孫三郎正頼は広忠と行動をともにするしか生き残る道は無かったのであった。
三河物語では阿部大蔵定吉が僅かな人数で広忠のお供をして伊勢国に渡ったと書かれており、その中に金田正頼とその子である正房・正祐兄弟も含まれていたのであった。正頼は広忠と年齢が近い正房・正祐兄弟に広忠のお世話や警固に当たらせたと考えられる。広忠にとって最も危機的な状況の時に近辺で支えた二人との絆を深めたと思われる。

天文5年(1536年)伊勢国を離れた広忠一行は遠江国に渡り掛塚で阿部定吉の弟阿部定次と合流した。
遠江国に移ったのは今川氏の支援を受けることが目的だったと思われるが、当時今川氏は支援の出来る状態では無かった。
同年駿河守護今川氏輝が没し今川義元が家督を継承したが、それに反対した福島氏がおこした花倉の乱を北条氏康の支援を受けて
鎮めることができたという状態であった。
天文6年(1537年)2月今川義元は武田信虎の娘を正室にむかえ同盟を結ぶ。これに怒った北条氏康は駿河国に侵入し富士川以東の地(河東)を奪われてしまう。
同年春、松平広忠が駿河国に行って今川義元に支援を要請した。
同年9月10日松平広忠は今川氏の支援を受け茂呂城(豊橋市)へ移った。松平信定が茂呂城を攻めたとの記述が三河物語にある。
天文7年(1538年)12月に松平信定死去。
天文8年(1539年)春に松平広忠は岡崎城へ帰還することが出来た。

Wikipediaに書かれている広忠が伊勢出国から岡崎帰還までの年代が資料によってバラバラで判断に困った。広忠が岡崎城へ戻ったのは天文6年としたのが多かったが、今川義元が北条氏康と争っていた頃で、今川氏が全力で松平広忠を支援できたか疑問に感じる。そこで三河物語に書かれている広忠の年齢で上記出来事を書かれた記述を引用した。すると、松平広忠が岡崎城へ戻れたのは今川氏による軍事的支援だけでなく松平信定が亡くなったことも大きな要因であったことが判明した。もしかすると、三河物語の記述が正しいのかもしれない。

このようにして、4年に及ぶ松平広忠の逃避生活で、松平広忠と金田正房・正祐兄弟のは深まったのであった。二人の父金田正頼は岡崎帰還後、間もなく亡くなったのではないだろうか。
生前、阿部定吉などが駿河国へ行き今川氏による軍事的支援を要請した時に金田正頼は随行し、その時に今川氏の家臣との人脈を築けたと考えられる。金田正房は父の人脈を継承し松平広忠が今川義元へ使者を派遣する時に、使者の役を務める最もふさわしい人物だったのである。このことが竹千代を駿河国今川氏に護送する責任者に25歳の金田与三左衛門正房が選ばれた理由である。




○金田与三左衛門正房の最後

 戸田康光の策略にはまり竹千代を奪われ織田信秀のもとに送られたことは上記の通りである。山岡荘八の小説では金田与三左衛門正房は自害するとなっているが、これはあくまで小説の中の出来事。実際は下記の2説に分かれ伝わっている。

  第一説(改正三河後風土記など)
金田与三左衛門正房率いる岡崎の武士と戸田方の武士が潮見坂で壮絶な斬り合いとなり、金田与三左衛門正房は戸田方に斬り殺された。


  第二説(武徳大成記など)
戸田方の策略にはまり竹千代を奪われてしまう。まさか、竹千代の継母(田原御前)の父田原城主戸田康光に裏切られるとは思わなかったのだろう。戸田康光は後に今川義元の怒りを買い攻め滅ぼされたことからも、戸田康光の行為が極めて危険な賭けだったことは明瞭なのである。
金田与三左衛門正房は戸田方に欺かれたことを知ってから、陸路織田領に入り現在の名古屋市熱田区に向かった。
熱田神宮近くにある加藤図書助邸に幽閉されている竹千代を救おうと秘かに機会を狙っていたが、不幸にも織田方に捕まって処刑されてしまった。織田方は見せしめに加藤図書助邸近くの三田橋(精進川の東海道筋に架かっていた裁断橋)付近にさらし首にしたとのことです。


金田諸家に伝わる家譜では基本は第二説なのですが細部は異なっています・
 戸田方の策略にはまり竹千代を織田方に奪われてしまった金田与三左衛門正房は、竹千代に随行して加藤図書助邸に幽閉されていた。しばらくして小鳥狩りを口実に竹千代を幽閉場所から外に脱出をしようとしたことが露見し、敵兵に囲まれ討ち取られた。
織田信秀は怒り正房の首を加藤図書助邸近くの三田橋(精進川の東海道筋に架かっていた裁断橋)付近に晒したのであった。



 ○上記2説の検証

 ⑴潮見坂
現在、道の駅 潮見坂(静岡県湖西市白須賀1896−2)存在しているので、場所は容易に特定できる。
一行は今川氏の出迎えが来ているはずの遠江国に入りほっとしているところに、戸田康光が軍事行動もしくは罠をかけたことが推定できる。
金田与三左衛門正房は、於大の方離縁後に松平広忠の後妻に戸田康光の娘が嫁いだことから、戸田康光自身がわざわざ出向いてきて挨拶をするのを粗雑には扱えなかったのだろう。
戸田康光が竹千代に近づいた一瞬のすきに、戸田康光が用意した伏兵たちが飛び出し竹千代のお供たちを取り囲んで武装解除させてしまった。竹千代が織田氏が用意した船で尾張国熱田まで連れて行かれてしまった。
第一説の潮見坂での斬り合いは竹千代が巻き込まれる危険性から、双方が避けたいはずなことから可能性は低い。



⑵裁断橋
第一説の可能性が低いなら、第二説が有力ということになる。
竹千代が幽閉された加藤図書助の屋敷近くに潜伏して捕らえられたか、竹千代脱出を試みて失敗して捕らえられたか不明だが、織田信秀に討ち取られたことは間違いない。
そして首を加藤図書助邸近くの三田橋(精進川の東海道筋に架かっていた裁断橋)付近に晒されたのであった。
熱田神宮近くの東海道宮宿にある裁断橋近くに立っていると、金田与三左衛門正房の無念な気持ちが伝わってくる気がします。


金田氏当主だった故金田近二氏は資料や古文書を調べた結果、第2説を支持しています。


 


 
 
竹千代が幽閉されていた加藤図書助邸跡(名古屋市熱田区伝馬2丁目13番)
 
 


 金田与三左衛門が織田方に処刑されさらし首となった場所付近にあった裁断橋。当時は精進川の東海道筋に架かっていたが、大正15年に精進川は埋め立てられてしまった。現在ある裁断橋跡は平成5年に再建された姥堂の池にかかる橋として再建されたが、あまりに縮小されてしまった。(名古屋市熱田区伝馬2丁目5番)
かって精進側は姥堂の東側を流れていたとのことだが全く面影はない。