金田宗家18代当主故金田近二氏の研究を基礎とする旗本金田氏家史研究会によって金田正信以前の上総金田氏、江戸時代の旗本金田氏については多くのことが解明されました。しかし、金田正興が三河松平氏に仕えてから大坂夏の陣に至るまでの三河金田氏については謎が多いのです。
このサイトは謎を解明するために開設されました。
目次
旗本金田氏の由緒
旗本金田氏の家系は「寛政重修諸家譜」の巻第五三五乃至五三七の三巻で明らかにされている。
その出自は良文流の平氏とされ、上総国の豪族上総氏の一支流に源を発している。
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国で再挙を図ると、上総介広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。(吾妻鏡)
この上総介広常の弟で、上総国長柄郡金田郷(現在の千葉県長生郡長生村金田)に住み、金田姓を名乗るに至った金田頼次を以て金田氏の祖とする。金田頼次は同じ良文流の平氏の一族、三浦大介義明の娘婿でもあった。
源頼朝の時代に金田頼次が現在の東京湾を船で行き来していた名残として、今日木更津市の金田地区・三浦半島の金田湾に名前が残っているものと推測される。
しかし、兄の上総介広常が謀叛の疑いで暗殺されると、金田頼次も連座して千葉介常胤に預けられることになった。後に上総介広常の疑いが晴れてその一族は赦免されたが、頼次が蟄居中に病死したのでその子康常が御家人として復帰した。
しかし上総氏の広大な所領は千葉常胤や和田義盛などに分配された後だったので、上総氏の所領の多くは返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。
その後、金田頼次の後裔
勝見城は現在の千葉県長生郡睦沢町寺崎にあり上記上総国長柄郡金田郷とも近く金田氏初期の居城であったが、宝治合戦に巻き込まれた金田成常(康常の子)の代に所領とともに失われた。
金田成常の子胤泰は叔父鏑木胤定の養子となり、鏑木胤泰と称し鏑木城(千葉県旭市鏑木)の城主となった。鏑木氏は千葉宗家の重臣として豊臣秀吉による小田原の役まで続くことになる。鏑木胤泰はその子常泰を蕪木城(千葉県山武市松尾町蕪木)の城主として分家させ蕪木氏に将来の金田氏復帰を託した。
寛政重修諸家譜には蕪木姓のことを曖昧にしており、金田常信の代に岩井城主となったことと里見・安西と戦ったことしか記載されていない。
千葉大系図には文明年中(1469年〜1487年) 常信が千葉宗家の命で安房国の安西・里見氏と戦った功により旧領に戻り金田姓 に復することを千葉宗家から許されたと記されている。
大永年中(1521年〜1527年)金田信吉の次男金田正興は上総国を去り、三河国幡豆郡一色村に移って松平氏の家臣となる。
千葉大系図では、金田正興は母方の従兄弟粟飯原孫平常次とともに相模国に行ったことになっている。原因は孫平が父粟飯原但馬守胤次との不和が原因であった。
当時相模国は北条氏綱が支配しており、小田原北条氏はこれから武蔵国へ進出しようとする時期で、千葉氏の有力氏族出身の二人は利用価値の高い人物だったはずである。
しかし、孫平は下総国に戻り父に詫びを入れ許された。孫平と別れた金田正興は更に三河国へと移っていった。
上記の話は古河公方派に属している千葉宗家が、新たに小弓公方足利義明を擁した真里谷氏・里見氏の軍に劣勢になった時期と一致している。何らかの理由で戦いに破れた金田正興が三河国に追放されたことを隠す必要から、(上記の話が)捏造されたと考えられる。
徳川氏(松平氏)草創期に当たり、三河に移った金田氏は松平信忠・清康・広忠・家康の4代に仕え歴史の転換期に活躍の場を与えられることになる。 その後、江戸時代になると旗本金田氏として3000石の家が二家(美濃国各務郡・賀茂郡内3000石及び武蔵国比企郡・入間郡内3000石)、その他数家が旗本して幕末まで存続することができた。
家紋 | 鬼蔦 (女紋) |
三輪違い (男紋) |
旗本金田氏家史研究会で金田一族の歴史を研究していくと、従来の上総金田氏と三河金田氏に分ける考え方よりも、上総金田氏・三河金田氏・江戸金田氏に分類する方が適切と考えるようになった。