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旗本金田一族の歴史

三河金田氏は桓武平氏千葉氏の庶流である上総国勝見城主金田正信の弟金田正興を祖とする一族であります

金田宗家18代当主故金田近二氏の研究を基礎とする旗本金田氏家史研究会によって金田正信以前の上総金田氏、江戸時代の旗本金田氏については多くのことが解明されました。しかし、金田正興が三河松平氏に仕えてから大坂夏の陣に至るまでの三河金田氏については謎が多いのです。
このサイトは謎を解明するために開設されました。

目次

金田正祐と金田寺  GO 寛政重修諸家譜では天文15年没と記載されているのに、金田諸家の家譜では永禄6年没と記載されていることに、幕府によって隠蔽された三河金田氏の悲しい歴史があった。
金田与三左衛門
(潮見坂と裁断橋)
 GO 徳川家康が竹千代と名乗った幼少期、今川氏へ人質を送り届ける大事な役目を請け負ったのに、戸田弾正の裏切りで織田方に奪われ非業の死を遂げた金田与三左衛門について検証する。
「金田一族」を検証
(日本家系協会)
 GO 「金田一族」は日本家系協会が昭和49年に限定350部で発行された。絶版となって久しいが寛政重修諸家譜に基づいた読みやすい内容なので、間違いなどを指摘しながら検証した。


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旗本金田氏の由緒
 
旗本金田氏の家系は「寛政重修諸家譜」の巻第五三五乃至五三七の三巻で明らかにされている。
その出自は良文流の平氏とされ、上総国の豪族上総氏の一支流に源を発している。

治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国で再挙を図ると、上総介広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。(吾妻鏡)      
この上総介広常の弟で、上総国長柄郡金田郷(現在の千葉県長生郡長生村金田)に住み、金田姓を名乗るに至った金田頼次を以て金田氏の祖とする。金田頼次は同じ良文流の平氏の一族、三浦大介義明の娘婿でもあった。
源頼朝の時代に金田頼次が現在の東京湾を船で行き来していた名残として、今日木更津市の金田地区・三浦半島の金田湾に名前が残っているものと推測される。
しかし、兄の上総介広常が謀叛の疑いで暗殺されると、金田頼次も連座して千葉介常胤に預けられることになった。後に上総介広常の疑いが晴れてその一族は赦免されたが、頼次が蟄居中に病死したのでその子康常が御家人として復帰した。
しかし上総氏の広大な所領は千葉常胤や和田義盛などに分配された後だったので、上総氏の所領の多くは返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。


その後、金田頼次の後裔
は千葉氏の一族として活動し、戦国時代初期に当たる金田信吉の代には上総国勝見城主に復帰し、その子金田正信まで勝見城主だった記録が残っている。(寛政重修諸家譜)             
勝見城は現在の千葉県長生郡睦沢町寺崎にあり上記上総国長柄郡金田郷とも近く金田氏初期の居城であったが、宝治合戦に巻き込まれた金田成常(康常の子)の代に所領とともに失われた。

金田成常の子胤泰は叔父鏑木胤定の養子となり、鏑木胤泰と称し鏑木城(千葉県旭市鏑木)の城主となった。鏑木氏は千葉宗家の重臣として豊臣秀吉による小田原の役まで続くことになる。鏑木胤泰はその子常泰を蕪木城(千葉県山武市松尾町蕪木)の城主として分家させ蕪木氏に将来の金田氏復帰を託した。
寛政重修諸家譜には蕪木姓のことを曖昧にしており、金田常信の代に岩井城主となったことと里見・安西と戦ったことしか記載されていない。
千葉大系図には文明年中(1469年〜1487年)
 常信が千葉宗家の命で安房国の安西・里見氏と戦った功により旧領に戻り金田姓 に復することを千葉宗家から許されたと記されている。
 
大永年中(1521年〜1527年)金田信吉の次男金田正興は上総国を去り、三河国幡豆郡一色村に移って松平氏の家臣となる。
千葉大系図では、金田正興は母方の従兄弟粟飯原孫平常次とともに相模国に行ったことになっている。原因は孫平が父粟飯原但馬守胤次との不和が原因であった。
当時相模国は北条氏綱が支配しており、小田原北条氏はこれから武蔵国へ進出しようとする時期で、千葉氏の有力氏族出身の二人は利用価値の高い人物だったはずである。
しかし、孫平は下総国に戻り父に詫びを入れ許された。孫平と別れた金田正興は更に三河国へと移っていった。

上記の話は古河公方派に属している千葉宗家が、新たに小弓公方足利義明を擁した真里谷氏・里見氏の軍に劣勢になった時期と一致している。何らかの理由で戦いに破れた金田正興が三河国に追放されたことを隠す必要から、(上記の話が)捏造されたと考えられる。

徳川氏(松平氏)草創期に当たり、三河に移った金田氏は松平信忠・清康・広忠・家康の4代に仕え歴史の転換期に活躍の場を与えられることになる。 その後、江戸時代になると旗本金田氏として3000石の家が二家(美濃国各務郡・賀茂郡内3000石及び武蔵国比企郡・入間郡内3000石)、その他数家が旗本して幕末まで存続することができた。

家紋 鬼蔦
(女紋)
三輪違い
(男紋)

 

金田一族の年表お知らせー上総金田氏終焉までー

1160年(永禄元年)
平治の乱で敗れた源義朝が尾張国で殺害される。金田頼次の兄上総広常・義兄三浦義澄は平治の乱を戦い関東に逃げ帰る。
1180年(治承4年)
源頼朝挙兵。金田頼次三浦義澄の軍に参陣した記録有り。吾妻鏡
1183年(寿永2年)
上総広常が梶原景時に謀殺され、幽閉された金田頼次も非業の死を遂げる。翌年無実が判明し金田康常は勝見城主として千葉氏の一族としての道を歩むことになる。
1247年(宝治元年)
宝治合戦で有力御家人三浦氏滅ぶ。北条時頼から千葉氏を守る為、金田成常の義父白井胤時は、千葉氏の手で三浦氏と縁戚関係の上総介秀胤を攻め滅ぼした。それにより秀胤の妻子を救うことができ、千葉氏に災いが及ぶのを防いだ。事件の責任をとって白井胤時と金田成常は所領を返上し隠居した。
宝治合戦で金田氏は歴史から消えるが、金田成常の子胤泰が鏑木氏の家督を継承し鏑木胤泰となる。鏑木氏は千葉宗家の重臣として小田原の役まで続く。その系統から南北朝時代千葉宗家を支えた円城寺貞政が輩出し享徳の乱の頃に金田姓に復帰する蕪木氏が別家として存在した。
1469年〜1487年     (文明年中)
蕪木常信が蕪木城から岩井城に移り、金田姓に復すことを千葉宗家から許される。千葉大系図では千葉宗家と里見氏の戦いの功績によると書かれているが、里見氏が上総国に進出するのは50年後のことで、実際は下記の通りであると考えられる。
1456年(康生2年)
享徳の乱で古河公方足利成氏の家臣だった武田信長が上総国に入部。その後、庁南武田氏・真里谷武田氏に分かれて上総国の支配権を確立する。上総氏の系譜を引く蕪木常信が金田姓に復し、金田常信として庁南武田氏が上総国の正当な支配者であることを権威づけるのに役だったと考えられる。
金田氏は庁南武田氏では親藩的な立場で、庁南武田氏と千葉宗家の同盟に貢献したと考えられる。。
1521年〜1527年     (大永年中)
金田正興三河国に移り、松平信忠・清康に仕える。
古河公方足利高基と弟の小弓公方足利義明の争いが、上総金田氏終焉の原因と考えられる。永正14年(1517年)小弓公方足利義明を擁する真里谷武田氏・里見氏の軍が、古河公方派の庁南城(庁南武田氏)・小弓城(千葉宗家)を攻め落とし勝利した。この戦いで、金田正興は兄金田正信と勝見城を失い、上総国を追われ三河国に移ったと考えるのが順当なのだ。金田正興は三河金田氏の祖となる。
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金田一族の歴史

新しい区分

旗本金田氏家史研究会で金田一族の歴史を研究していくと、従来の上総金田氏と三河金田氏に分ける考え方よりも、上総金田氏・三河金田氏・江戸金田氏に分類する方が適切と考えるようになった。


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