寛政6年(1465年) |
三河国額田郡で額田郡一揆発生。地侍・小領主の一部が古河公方足利成氏の命と称して主要な道路を封鎖し京都への租税官物等を奪い狼藉を働いた。幕府から鎮圧を命じられた三河守護細川成之が三河国に発効したが成果は上がらなかった。
そこで三河守護細川成之が幕府執事伊勢貞親(北条早雲こと伊勢盛時の親族)に働きかけ、伊勢氏の被官だった松平信光・戸田宗光に一揆討伐を発令させた。その結果松平氏・戸田氏の討伐軍による激しい攻撃で一揆は鎮圧した。松平氏・戸田氏ともに褒美として幕府から所領を与えられ、その後の発展の礎となった。 |
応仁元年(1467年) |
応仁の乱勃発。三河守護細川成之は東軍に属し、前守護で足利義教に誅された一色義貫の遺児一色義直は西軍に属していた。一色義直は当時丹後国・伊勢半国の守護であったが、将軍足利義政によって守護を解かれてしまった。
一色氏は丹後国では新守護武田信賢と北伊勢では新守護土岐政康と激戦となった。
三河国でも一色氏の残党を中心に勢力が三河守護細川成之に属する勢力が激しく戦った。松平信光は三河守護細川成之に属して一色氏と戦った。 |
文明8年(1476年) |
守護代東条国氏が一色氏の軍に攻められ自害。三河守護細川成之は幕府への出仕を停止する。 |
文明10年(1478年) |
幕府の調停で細川成之の守護を解くことと一色義直が三河を放棄することが実現。細川氏・一色氏の抗争は終了し、細川成之は幕府に再出仕するようになった。以後三河国に守護が補任されることはなくなった。 |
長享2年(1488年)頃 |
松平親忠(信光の三男)安祥城城主となる。(安祥松平家として岩津松平家から自立) |
明応5年(1496年) |
松平親忠隠居し松平長親が安祥城主となる。松平長親は後に駿河守護今川氏の侵攻を退け実績を残したので、安祥松平家が岩津松平家に代わって松平氏の惣領家の地位を確保した。 |
文亀3年(1503年) |
松平長親隠居し松平信忠が安祥城主となる。 |
永正3年(1506年) |
永正5年にかけて駿河守護今川氏親と松平氏が現在の豊橋市にある今橋城をめぐる攻防戦となる。松平軍を率いたのは隠居した松平長親であり当主松平信忠は存在感が無かったことになっている。 |
大永3年(1523年) |
一門等が協議し、松平信忠の隠居と嫡子松平清康が家督を継承することを決め、松平長親・松平信忠に意を告げると了承され、松平信忠は幡豆郡大浜郷称名寺にて出家し隠居した。 |