三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
第一章 松平氏に仕えた金田正興 


第二章 第三章
 
 上総国勝見城主金田信吉の次男として生まれた金田弥三郎正興は,永正14年(1517年)頃※に里見義道率いる小弓公方軍によって庁南城が落城したことで三河国へ追放されることになってしまった。
庁南武田氏(上総国)と千葉宗家(下総国)の同盟に大きな役割を果たしてきた勝見城主金田正信(正興の兄)は自害させられ、勝見城を敵に明け渡し降伏した金田正興・正頼父子はは縁もゆかりもない三河国へ追放という処分に従わざるを得なかった。上総氏の血脈と伝統を受け継いできた上総金田氏に対する敵方真里谷信勝(小弓公方を支える有力武将)の憎しみは強く、庁南武田氏が上総介を称し真里谷氏が三河守を称していることを勘案し、「関東から遠い三河国に追放することで関東には戻させない」という強い思いで三河国を選んだのであった。
三河国幡豆郡一色村に居を構えることになった金田正興・正興親子にとって当初は厳しい生活であったが、松平氏に仕えることになったことがその後の一族の運命を大きく左右する出来事となった。この松平氏こそが後の徳川将軍家となるのである。

※寛政重修諸家譜では大永年中(1521年~1528年)となっているが、上総国の争乱を勘案すると永正14年頃の出来事と判断した。


金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
 
(1)金田正興・正頼父子が移ってくるまでの三河国の情勢

ここでは金田正興父子が三河国へ移ってくるまでの三河国の情勢を知るために大永3年松平清康が家督を継承するまでを年表とした。
 寛政6年(1465年)  三河国額田郡で額田郡一揆発生。地侍・小領主の一部が古河公方足利成氏の命と称して主要な道路を封鎖し京都への租税官物等を奪い狼藉を働いた。幕府から鎮圧を命じられた三河守護細川成之が三河国に発効したが成果は上がらなかった。
そこで三河守護細川成之が幕府執事伊勢貞親(北条早雲こと伊勢盛時の親族)に働きかけ、伊勢氏の被官だった松平信光・戸田宗光に一揆討伐を発令させた。その結果松平氏・戸田氏の討伐軍による激しい攻撃で一揆は鎮圧した。松平氏・戸田氏ともに褒美として幕府から所領を与えられ、その後の発展の礎となった。
 応仁元年(1467年)  応仁の乱勃発。三河守護細川成之は東軍に属し、前守護で足利義教に誅された一色義貫の遺児一色義直は西軍に属していた。一色義直は当時丹後国・伊勢半国の守護であったが、将軍足利義政によって守護を解かれてしまった。
一色氏は丹後国では新守護武田信賢と北伊勢では新守護土岐政康と激戦となった。
三河国でも一色氏の残党を中心に勢力が三河守護細川成之に属する勢力が激しく戦った。松平信光は三河守護細川成之に属して一色氏と戦った。
 文明8年(1476年)  守護代東条国氏が一色氏の軍に攻められ自害。三河守護細川成之は幕府への出仕を停止する。
 文明10年(1478年)  幕府の調停で細川成之の守護を解くことと一色義直が三河を放棄することが実現。細川氏・一色氏の抗争は終了し、細川成之は幕府に再出仕するようになった。以後三河国に守護が補任されることはなくなった。
 長享2年(1488年)頃  松平親忠(信光の三男)安祥城城主となる。(安祥松平家として岩津松平家から自立)
 明応5年(1496年)  松平親忠隠居し松平長親が安祥城主となる。松平長親は後に駿河守護今川氏の侵攻を退け実績を残したので、安祥松平家が岩津松平家に代わって松平氏の惣領家の地位を確保した。
 文亀3年(1503年)  松平長親隠居し松平信忠が安祥城主となる。
 永正3年(1506年)  永正5年にかけて駿河守護今川氏親と松平氏が現在の豊橋市にある今橋城をめぐる攻防戦となる。松平軍を率いたのは隠居した松平長親であり当主松平信忠は存在感が無かったことになっている。
 大永3年(1523年)  一門等が協議し、松平信忠の隠居と嫡子松平清康が家督を継承することを決め、松平長親・松平信忠に意を告げると了承され、松平信忠は幡豆郡大浜郷称名寺にて出家し隠居した。

次に松平氏歴代についても
生誕 死没  享年  
松平長親 文明5年(1473年) 天文13年(1544年) 72歳   
    ◎家督継承時の年齢 24歳    
         
松平信忠 延徳2年(1490年) 享禄4年(1531年) 42歳   
◎家督継承時の年齢 14歳    
         
松平清康 永正8年(1511年) 天文4年(1535年)  25歳  
◎家督継承時の年齢 13歳    
         
  松平広忠  大永6年(1526年) 天文18年(1549年)  24歳  
    ◎家督継承時の年齢 10歳    
         
  松平元康(後の徳川家康)  天文11年(1542年)  元和2年(1616年)  75歳  
    ◎広忠死亡時の年齢 8歳だったが人質生活が長く続く    

 

 この時期の松平氏の特徴を述べると、松平長親が長寿であったのに対し、信忠・清康・広忠が若くして家督を継承したことが挙げられる。
  • 長親が信忠に家督を譲った時の年齢が31歳でその後72歳で卒するまで松平氏で影響力を行使した。隠居とは名ばかりで永正3年から5年にかけて駿河守護今川氏の三河侵攻時に軍の指揮を執ったのは松平長親であった。
  • 更に凡庸な当主信忠よりもその弟桜井城主松平信定を長親が溺愛したことが、信忠隠居の理由の一つに考えられている。
  • 松平清康が13歳で家督を継承し12年間で三河国統一を果たせることが出来たのも、長親が一門衆・家臣衆を後見人として結束させ、松平清康の能力を存分に発揮させることができたことが理由に挙げられる。当初は清康により松平氏が飛躍していくことを喜んだ長親であったが 、三河国統一を果たし隣国尾張の織田氏を攻めるようになる頃には妬みの気持ちがあったのだろうか。
  • 天文4年(1535年)守山崩れで清康が殺害され広忠が家督を継承したが、上記桜井城主松平信定が岡崎城を占拠し広忠を伊勢に追放してしまった。その後、今川義元の支援を受けた広忠が岡崎城に戻れたのは天文6年(1537年)のことであった。松平信定は広忠に降参し翌年に没したのであった。このような松平信定の暴挙に対して長親は抑止する行動はしなかったのである。長親の信定に対する溺愛が松平氏を危機的状況にしてしまったと言われている。しかし、松平信定が織田氏との姻戚関係等を理由に清康殺害に関与していたとも疑われており、もし長親がそのことを知っていたとしたらもっと罪深いことになってしまう。

Wikipediaには松平信定に対する父松平長親に対する偏った愛情が、松平信定の暴挙につながったとされている。しかし、松平信定の暴挙を隠居である松平長親公認であったかは疑いが残る。
三河金田氏の実像では、松平氏の当主になる野望を抱いた松平信定が婚姻関係のある織田信秀に唆されたことが暴挙の原因と確信し、松平長忠は松平氏存続のために認めざるを得なかったと考えている。
「松平信定は織田信秀の支援を得て岡崎城を乗っ取り、三河国を追い出された松平広忠は今川義元の支援を得て岡崎城を回復した」のが真相なのであるが、後に徳川家康の代になって織田信長と軍事同盟を結んだことが多大な影響を及ぼしたと考えられる。松平信定の暴挙を長親の溺愛が原因とするなど歴史を書き換えられた疑いが多く存在するのである。
 

永正14年頃金田正興父子が三河に移り住んだ一色村は松平氏の居城である安祥城とかなり離れている
 
 (2)金田正興・正頼父子が松平清康に臣従するまでの経緯


永正14年(1517年)頃に金田正興・正頼父子が三河国に移り一色村に居住したと思われる。当時金田正興は40代前半、金田正頼は20歳前後だったと推測される。寛政6年(1465年)に起きた額田郡一揆が発生した頃から西尾城の西条吉良氏・東条城の東条吉良氏の地元武士団や小領主に対する支配力は弱体化してしまった。新興の松平氏の支配力は一色村にまで及んでいない。
弱体化したとはいえ吉良氏は足利将軍家とつながる格式の高い家である。金田正興・正頼父子が東条吉良氏から何らかの助けを受けていた可能性は高い。更に金田正頼が一色村に居住していた間に後の正房・正祐兄弟が生まれていることから、一色村周辺で所帯を構えたと考えられる。

大永3年(1523年)松平清康が家督を継承し松平信忠が隠居しにて出家したことは、金田正興・正頼父子の運命を大きく変える出来事になるのであった。
東条吉良氏の持清・持広から松平清康・広忠は偏諱を与えられたとことから、吉良氏と松平氏は結びついていたと考えられている。後に松平清康が清和源氏の流れを汲む世良田次郎三郎と称したのも、足利氏では将軍家に次ぐ家柄を誇る吉良氏出身の吉良持清から源氏として認証されたことによるものである。

松平信忠はすべてが思うようにいかなかった松平氏当主を離れ、称名寺で隠居生活に入ることで人間的にも円満な人柄を回復していた穏やかな人生を歩めるようになった。
そんな松平信忠が東条城に吉良持清を訪ねてきた時に、吉良持清から金田正興・正頼父子を紹介されたのであった。
松平信忠と金田正興はお互いに人生の挫折を味わった者として共感を感じるのであった。
大永4年(1524年)以降のこととして考えられ、金田正興は40代後半、金田正頼は20代後半、松平信忠は35歳前後のことであった。
松平信忠は「金田正興・正頼父子が松平氏当主になった松平清康にとって有益な人物になる」と考え、二人を松平清康がいる安祥城もしくは岡崎城へ向かわせたのであった。

松平清康は父信忠の紹介状を持って訪れた金田正興・正頼父子を誠意を持って向かえた。
14、5歳の松平清康はより見識を深めるために、関東で起きた争乱など多くのことについて金田正興から興味を持って聴取した。
そして、金田正頼には直接清康に仕えることと、金田正興には称名寺で隠居生活をしている信忠に仕えるように松平清康は命じた。
ここに三河金田氏は松平氏(後の徳川氏)の旗本として歩む道が開かれたのであった。

 (3)松平清康に三河金田氏が臣従した歴史的意義

金田正興・正頼父子が松平清康に臣従するまでの経緯について述べてきた。
上総国を追放されて三河国に移った金田正興・正頼父子にとって、英明な君主である松平清康の存在無くして松平家に仕えることはなかったのである。
松平清康にとっても金田正興から関東の争乱について聞くことで当時の社会情勢を正確に把握することができ、その後の行動に大きく影響したのであった。今日では世の中の動きをテレビや新聞で瞬時に知ることが出来るが、当時三河国にいる松平清康にとって京都や関東で起きてることを正確に知ることは容易なことではなかったはずである。金田正興は金田氏が源頼朝挙兵に参加し、名門千葉氏に属して今日にいたったことを述べたと思われるが、特筆すべきは次のような事柄である。京都の幕府・鎌倉公方を継承した古河公方がともに権威を失墜してしまった現実を金田正興から聞くことで松平清康は正確に世の中の情勢を把握したのであった。
  • 永享の乱で鎌倉公方足利持氏を討伐した将軍足利義教は赤松満祐に暗殺され、幕府の弱体化を招いてしまった。
  • 持氏の遺児足利成氏は享徳の乱で古河公方として幕府・関東管領と30年近く争ったが屈することはなかった。途中幕府のある京都で応仁の乱が起き戦乱が全国に拡がった。享徳の乱・応仁の乱は終了してもその後も各地で争乱が続き、幕府・古河公方ともに衰退していくのであった。
  • 応仁の乱・享徳の乱で幕府と争った大名は守護職に補任されなかったが、実力で領国経営を行うことで権力基盤を築いていった。これにより守護大名が有名無実化してしまい戦国大名の時代となった。
今日では室町時代の歴史として書かれていることであるが、実際に千葉氏に属して何代にも渡って戦い抜いた金田氏の継承者である金田正興が語る言葉にはそれなりの重みがあったと考えられる。