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第六章 将軍綱吉と金田正勝 序文 ❶ ❷ ❸ ❹ ❺ ❻
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◎鎌倉幕府・江戸幕府創業期の金田氏歴代の無念な思い
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桓武平氏良文流上総介広常の弟金田頼次を祖とする旗本金田氏について、上総金田氏歴代記・三河金田氏の研究を通じて隠蔽された真実に迫ったことで歴史的真相を明らかにしてきました。
- 初代金田頼次は源義朝・頼朝二代に仕え、兄上総介広常や義兄三浦介義澄とともに源頼朝の板東平定に大きな貢献をしたのであった。しかし鎌倉殿として実権を握った源頼朝は実力者である兄上総介広常を無実の罪で謀殺し、金田頼次も所領を没収され不慮の死を遂げた。
- 金田頼次の子孫が千葉介歴代に仕え、千葉氏重臣四天王に数えられる鏑木氏として残ることができたのは、死に際に金田頼次が千葉介常胤に子孫のことを託したことと、孫の金田成常の代に義父白井胤時(常胤の孫)の深慮遠謀のお陰だったのです。
- 室町時代になると鏑木氏の支流蕪木氏出身の金田信吉が先祖所縁の上総国勝見城主となり、上総国の戦国大名上総武田氏に属することで、千葉氏(下総国)武田氏(上総国)の同盟に貢献しました。
- その後上総武田氏は庁南武田氏と真里谷武田氏に分かれ、勝見城主金田正信は千葉介昌胤の義父として庁南武田氏の実力者になったのが禍し、真里谷武田氏・里見氏などに攻められ降伏し不慮の死を遂げたのです。
- 勝見城主金田正信の弟金田正興は勝見城を失った後、三河国に追放されたことが縁で安祥城主を隠居した松平信忠と親交を重ねることができ、嫡男金田正頼とともに安祥城主を継承した松平清康に仕えることになったのです。
- 「三河金田氏の実像」 では松平信忠・清康・広忠・(徳川)家康の四代に仕えた三河金田氏歴代が忠勤に励み、徳川家康の密命を受けた金田祐勝が堺にて金田屋治右衛門に扮して諜報活動をすることで家康の天下取りに貢献したことまで解明してきました。
- 関ヶ原の戦いで徳川家康が天下を取ると、金田祐勝は長男金田正勝とともに武士に戻り伏見城で家康に仕え、堺の金田屋は次男常安が継承しました。
- 大坂の陣で徳川家康は徳川方の重要拠点伏見城を弟の松平定勝を城代に任じ、金田正勝を城番として大坂城の豊臣氏に対する諜報活動に専念させた。金田正勝は備前守に任じられ5000石を賜ったと推定される。
- 大坂の陣で豊臣氏が滅ぶと金田備前守正勝は表向きは病没となってるが実は暗殺されたのであった。更に徳川家康が没すると徳川秀忠は無実の罪で家督を継承した金田正行を改易にしたことから、秀忠もしくはその側近の指示によって暗殺された可能性が高い。牢人となった金田正行(正末と改名)は後に正末刑死事件で非業の死を遂げ、残された金田正辰とその一族にとって不遇な境遇が長く続くことになった。
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「歴史は繰り返す」といわれていますが、鎌倉幕府を開いた源頼朝に兄上総介広常に従って貢献した金田頼次は兄広常が頼朝に暗殺されたことで没落し(但し千葉常胤に救われる)、江戸幕府を開いた徳川家康の天下取りに黒子として貢献した金田祐勝・金田正勝(正藤)親子は二代将軍徳川秀忠によって歴史の闇に消し去られました。
正末刑死事件後不遇だった旗本金田氏ですが、金田正勝の三男金田正辰は三代将軍家光の遺命により、舘林藩主徳川綱吉の城代家老を拝命し金田氏は再興することができました。更に舘林藩主徳川綱吉が五代将軍綱吉になったことで、城代家老金田遠江守正勝は幕府の御側衆に任じられます。
しかし、『歴史の闇に消し去られた徳川家康の天下取りに黒子として貢献した金田祐勝・金田正勝親子』については、公式文書はもちろん金田家譜からも事績について完璧なまでに消し去られてしまいました。
下記系図をみれば明白だが、金田正房から宗房・良房と続く系譜が金田氏本流で正祐から続く系譜は傍流となってしまった。
松平広忠の近臣として若くして忠死した金田正祐は、金田宗房の弟として家譜に記録され家康の代に忠死した人物とする虚偽の内容が家譜に記録されていたからである。
堺の特権商人金田屋については金田家譜から完全に排除された。堺奉行が嘉永6年(1853年)に惣年寄だった金田屋十四代目金田駒之輔が提出した由緒書が堺市史に残されていなかったら、旗本金田氏と堺の金田屋の関係や金田祐勝の人物像は永遠の謎のままだったに違いない。
第六章では消し去られたり書き換えられた家譜や系図を修正して、館林藩主・五代将軍徳川綱吉に仕えた金田惣八郎正辰と金田遠江守正勝の真の姿に迫りたい。 |
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◎金田氏系図正誤表 |
金田家譜では「金田正房から宗房・良房と続く系譜が金田氏本流で正祐から続く系譜は傍流」となっているが、下記のような事柄で事実と異なっていることを上記金田氏系図正誤表はあらわしている。
- 金田正房から宗房・良房と続く系譜と正房の弟金田正祐から祐勝・正勝と続く系譜が併存していた。宗房・祐勝の代に別々の道を歩むことになるのである。
- 父松平広忠に近臣として仕えた金田氏は親今川色が強く、織田信長との同盟を重視する徳川家康にとって邪魔な存在であった。母於大の方の願いを受けて金田宗房は、徳川家康の弟松平康元の家老となったが陪臣という身分に格下げとなった。
- 金田宗房が徳川家康の弟松平康元の家老となり代々続くが、金田良房の子金田房能の代に小諸藩五万石が無嗣改易となり苦難の道を歩む。
- 金田祐勝が家康の命で堺の商人金田屋を起して諜報活動に専念する。母方の親族服部一族の支援を得たので伊賀忍者を配下にして家康の為に情報収集に威力を発揮し、後の千利休・東本願寺法主教如との人間関係を築く足掛かりとなったのだが、立場上は徳川氏と無関係の一商人であった。
- その後の事は上記の通りだが、左遷と言う言葉は系図上でも当てはまり、正祐・祐勝を宗房の左側に連ねることで存在感を弱める働きをする。金田家譜では正勝を正藤と無理に改名させたのも存在感を弱める目的である。
- 金田家譜では金田屋のことは削除され系図にも記されなかった。
旗本金田氏歴代が虚偽の記載をした系図や家譜を残したのは幕府の意向に沿ったもので、当時の状況ではどうにもならなかったのである。 |
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◎金田遠江守正勝人物関係図
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金田遠江守正勝は館林藩主徳川綱吉に城代家老として寛文5年(1665年)から16年間仕え、天和元年(1681年)から五代将軍となった徳川綱吉に御側衆に登用され5年間仕えた。
館林藩の家老の中で御側衆に登用されたのは、側用人となった牧野成貞と金田正辰だけであることを勘案すると、徳川綱吉から金田遠江守正勝に対する信任の厚さを物語っていると思います。
ここでは金田遠江守正勝が五代将軍徳川綱吉の容認の上で正孝系金田氏を別家として起したことが、三河金田氏歴代の家譜・系図について隠されたり歪曲された事柄について、その子孫に真実を密かに伝えさせることを目的だったと根拠を述べていきたい。
正孝系金田氏の過去帳に記載されている①初代庄助正辰②二代善太夫正孝③三代善兵衛経廣については複雑な事情があり説明が難しいが、実質的な初代に当たる金田善太夫正孝から述べようと思う。 |
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(1)金田善太夫正孝の人物像
- 生誕 慶長2年(1597年) 死没 貞享4年(1687年) 享年91歳 下谷高岩寺に葬られる
- 参考 金田惣八郎正辰 生誕慶長2年(1597年) 死没 寛文3年(1663年)享年67歳 駒込吉祥寺に葬られる
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金田善太夫正孝は正孝系金田氏の過去帳(以後過去帳と記す)によれば、兄金田正辰と生まれた年が同じなので双子の弟と考えられる。
惣領である長兄金田正行が改易になり牢人となり金田角左衛門正末と改名し、後に将軍家光に直訴をおこし処刑されるなど一族は苦難の道を歩んだ。
双子の兄である金田正辰は大坂の陣の戦功で500石の旗本として自立していたが、長兄金田正行(改名後は正末)が改易後は窓際族のような状態になっており、金田正孝は江戸の旗本金田氏から離れて独自の行動をしていたと思われる。
あくまで推測に過ぎないが、堺の金田屋の支援を得て京都伏見や堺などを拠点に父祖の人脈を生かす活動をしていた可能性が高いのである。
そこにはかって金田祐勝・正勝の代に徳川家のために諜報活動をしたネットワークが存在していたが、金田氏改易後に配下だった伊賀忍者たちの中には仕事を失い苦難の道を歩んでいた者いたはずである。
他家に仕官した者や金田屋の手代になった者も多数いたはずだが、金田氏の再興に夢を託しながら雌伏の時を過ごす者もいたはずである。
金田屋の支援を得ている金田正孝は、兄金田正辰の代理として金田氏再興に夢を託す者たちを支援し人脈を築いていたのではないだろうか。
三代将軍家光の遺命で、老中より後の館林藩城中家老の内示を金田正辰が受けると状況は一変する。
公式には旗本内藤氏出身の母親を持ち武蔵国を生国とする立場になった金田正辰は、江戸に金田正孝を呼び戻し裏方として多くのことを補佐させました。
実の母親である堺の商家から嫁いだ孝立院を最後まで面倒を見たのも金田正孝であります。兄正辰が菩提寺とした駒込吉祥寺とは別に下谷高岩寺を母と共に菩提寺にしたのも金田正孝なのであります。
これが縁でとげぬき地蔵として有名な巣鴨の高岩寺となった今日でも、高岩寺最古の檀家として金田家が続くことになります。
金田正孝が一生をかけて維持してきた伊賀忍者を中心とする祐勝・正勝時代の旧臣たちとの人脈は、金田遠江守正勝が館林藩城代家老になると重要な意味を持ってくるのになります。
江戸時代の平均寿命が40代前半を考慮すると91歳は極めて長寿なことから、金田正孝は70代になっても壮健だったと考えられる。金田遠江守正勝が城代家老になった時に、金田正孝は70代であったが大変重要な仕事を果たしたのであった。
金田遠江守正勝は寛文5年(1665年)より城代家老に任じられると、金田善太夫正孝は舘林城の北西のはずれ(現在の朝日町・本町付近)に5千坪の敷地を有する城代下屋敷にて、上記伊賀忍者を中心とする祐勝・正勝時代の旧臣もしくはその縁者たちを率いて重要な任務に就く。
城代家老金田遠江守正勝に対して領内の隅々にわたる諜報活動で得た情報を提供し、的確な統治を可能としたのであった。。
館林城には正規社員である藩士が22名しかおらず、かっての旧臣たちはアルバイトもしくは派遣社員のような弱い立場だが、父祖以来の強い絆で結ばれており、金田遠江守正勝による統治は万全を期して行われたのであった。
金田遠江守正勝が側衆を隠居後、叔父金田正孝の永年の恩に報いるため500石を分与したと考えられる。
ここに正孝系金田氏の系譜が始まるのだが、金田正孝が91歳で没した時に継承者金田経廣は10歳だったのである。
直系の子孫がいれば子や孫でも壮年以上になっているはずなので経廣は正孝の直系の子孫ではない。理由は次項で。
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(2)金田惣兵衛勝延と金田善兵衛経廣は同一人物だった
- 金田善兵衛経廣 生誕延宝2年(1678年) 死没正徳3年(1713年)36歳→過去帳からの推計で生誕(1674年)の可能性もある
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過去帳によれば二代目正孝は91歳という長寿だったのに家督を継承した三代目経廣が10歳ということから、正勝の子が正孝の後継者になったと考えるのが自然である。もしも正孝に子や孫がいたのなら、70歳を過ぎたら隠居し家督を譲っているはずで、正孝には直系の家督継承者はいなかったと推測される。
金田正勝は長男正通・次男正則・三男金田正明・四男勝延・五男正朝を儲けました。
三男正明は館林在任中に側室に産ませた子ですが、その他は正室長谷川氏が産んだことになっています。
しかし、長男正通と三男正明の年齢の開きが20年もあることから、当時の医療技術を考えると正室が四男・五男を産んだとすれば高齢出産になり、医学的に無理があると考えられます。
正室と側室の間に何らかの葛藤があったのかもしれませんが、四男・五男を産んだ母親探しはパスして、ここで大事なのは四男勝延についてです。
金田勝延 惣兵衛 元禄4年(1691年)の出来事しか金田家譜・寛政重修諸家譜には記載がありません。下記のように微妙に内容は異なります。
◎3月20日将軍綱吉に御小姓として召され切米300俵・御役料300俵を賜う。10月12日病死。(金田家譜)
◎2月22日将軍綱吉に御小姓として仕え廩米(りんまい・蔵米のこと)300俵を賜う。10月12日死す。享年18歳。小日向の金剛寺に葬る。(寛政重修諸家譜)
金剛寺は曹洞宗の寺院で現在の文京区春日に位置していた。戦後地下鉄丸ノ内線工事にともない中野区上高田に移転し現存しています。勝延以外金田一族で誰も葬られて無く、金剛寺の名前を借りて葬ったことにしたと考えられる。つまり勝延は家譜では死んだことに
されたが、実際は別名で生きていたはずである。下記のように検証すると不自然な事が多いのである。
- 三男正明は年少の頃より才気優れ8歳で将軍家綱に初謁、18歳で将軍綱吉に小姓として召され俸米300俵・役料300俵を賜い以後栄進している。
- 四男勝延は将軍綱吉に小姓として召され禄を賜ったのは兄正明と同じだが、金田家譜と寛政重修諸家譜では微妙な違いはあるものの、ともに簡略な内容となっている。
- 金田善兵衛経廣と惣兵衛勝延はともに資料が乏しいことから、金田惣兵衛勝延が元禄4年(1691年)以降金田善兵衛経廣として人生を送ったとすれば辻褄が合うのです。
金田家譜と寛政重修諸家譜の微妙な違いは、二人が同一人物なのではと疑われないように、微妙な手加減を加えた結果によるものであります。
- 元禄4年(1691年)金田家譜では年齢不詳、寛政重修諸家譜では18歳となっている金田惣兵衛勝延に対し、金田善兵衛経廣は過去帳の享年から推定し14歳となっていますが、上記と同じ理由で微妙な手加減が加えられたものです。
- 正孝系金田氏の江戸時代最後の当主だった金田真二郎正喜は水道橋(現在の東洋高校敷地の一部・千代田区三崎町)に屋敷を構え禄高500石だったと家伝に伝わっており、勝延が将軍綱吉から賜った切米300俵・御役料300俵を源泉として、代々受け継いだと考えられる。禄高も上記と同じ理由で微妙な手加減が加わっています。
以上のことを勘案すると、
『金田遠江守正勝は家譜など微妙な手加減をして四男惣兵衛勝延に対して金田善兵衛経廣として生きることを命じた』という結論に達しました。
- 金田遠江守正勝は将軍綱吉の意向に沿って、四男金田惣兵衛勝延を家譜では死んだことにして、正孝系金田氏の三代目金田善兵衛経廣として将軍の御小姓としてとして仕えさせたのであった。
- 貞享4年(1687年)金田善太夫正孝が没すると分与した500石は正勝に戻ったが、幕府によって歴史の闇に消し去られた金田祐勝・金田正勝(正藤)親子の代のことを子孫に伝えさせるため、金田遠江守正勝は四男勝延を正孝の後継者経廣として継承させた。
- 将軍綱吉は正孝系金田氏設立には賛意を示し、勝延に切米300俵・御役料300俵を与えたのであった。何らかの指示書を正孝系金田氏を与えたので、寛政重修諸家譜の編者は正孝系金田氏に先祖書などの提出を免除したのであった。
- 桑名藩家老だった服部氏の家譜に金田正祐のことを庄之助と書いてあったのを調べ、中興初代金田庄之助正辰と正孝系金田氏の過去帳に記録させたのは将軍綱吉の威を借りなければできなかったはずです。
- 更に金田屋に極めて深い河内国金田(かなた)村を館林藩領として特別な扱いがされたのは、将軍綱吉の意向によるものと推理されます。
次に中興初代金田庄助正辰と正辰母堂である孝立院について述べます。
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(3)中興の祖金田庄助正辰と正辰母堂孝立院
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館林藩城代家老金田惣八郎正辰の墓所は駒込吉祥寺にあり、正辰系金田氏は駒込吉祥寺を菩提寺にして今日に至っている。
金田家譜でも正辰について「寛文3年(1663年)8月3日没 享年67歳 金田惣八郎正辰」 と記されており、寛政重修諸家譜も踏襲している。
しかし、正孝系金田氏では金田惣八郎正辰を「中興の祖金田庄助正辰」と過去帳に記されて今日に至っている。
下記戒名は現在とげぬき地蔵で有名な巣鴨の高岩寺において最古の戒名なのである。(下谷高岩寺は明治24年上野駅拡張のため巣鴨に移転)
- 霊光院殿常無道叶居士 寛文9年(1669年)3月21日 中興の祖 初代庄助正辰
- 孝立院殿松室珪樹大姉 承応元年(1652年)12月14日 正辰母堂
上記庄助正辰の命日は惣八郎正辰の命日と明らかに相違しており、何故下谷高岩寺から庄助正辰として戒名を授かることができたのだろうか。旗本金田氏家史研究に心血を注いだ故金田近二氏さえも謎を解くことはできなかったのである。 |
◎謎を解く鍵は正辰母堂とされる「孝立院殿松室珪樹大姉」にある
- 金田家譜で正辰の母は内藤正守の娘とされているが事実と相違している。
- 内藤正守は慶安4年(1651年)81歳で亡くなっていることから正辰が生まれた慶長2年(1597年)27歳だったのである。天正19年(1592年)初めて徳川家康に拝謁し、伏見城駿府城で家康に仕えることになる。
- 父内藤正盛は松平広忠の命で竹千代の生誕から人質時代まで直接竹千代に仕え、その一族は江戸時代に信濃高遠藩主・日向延岡藩主など譜代大名として隆盛したのに、父兄ともに桶狭間以後消息不明なのである。内藤正守の家康拝謁が22歳の時だが、豊臣家の五大老になるまでの内藤正守について記録はない。
- 慶長2年(1597年)正辰が生まれた頃は、正辰の祖父祐勝・父正勝は堺にいたはずで、実際の母親は内藤正守と同年齢もしくは若干若かったかもしれませんが、両家にはその頃から交流があったと思われます。
- 金田正辰は堺に生まれ、関ヶ原の戦い以後家康に伏見城で仕えた父正勝とともに伏見に移り、慶長15年(1610年)将軍秀忠に拝謁し江戸にて仕える。大坂の陣の戦功で500石の知行を得て旗本として自立する。
- 幕府が祖父祐勝・父正勝の代の出来事を歴史の闇に消し去った為、幕府の意向に沿い金田正辰は生国を家譜で武蔵国と し、親の代から親密な関係だった旗本内藤正守に頼み、その娘を正辰の母親にするため両家の家譜を書き換えた。
- おそらく金田正辰の本当の母親は堺の商家出身で、正辰の栄進の邪魔をせぬよう自分の素性を隠し、正辰から離れた場所で控えめに暮らしたのであった。金田正孝が母親の面倒を見て菩提寺を高岩寺にしたと考えられる。この母親こそ「孝立院殿松室珪樹大姉」で享年は80歳ぐらいだった。
- 後述するが金田遠江守正勝が五代将軍徳川綱吉から信任を得られる学識や教養を得ることができたのは、祖母の支援があったからこそなのである。金田正辰の次男で部屋住みの立場だった時に、その賢さを愛した祖母は孫のために学識や教養を得るためにあらゆる手段を講じた。堺の実家や義弟金田屋常安から充分な資金を提供させることは可能だったからである。
- 貞享3年(1686年)将軍綱吉の御側衆を退任した翌年、叔父金田正孝が91歳で亡くなり下谷高岩寺に葬られると、金田遠江守正勝は祖母孝立院と叔父金田正孝の恩に報いることを決意した。自分とその一族の菩提寺を下谷高岩寺とし、二人の墓を守る為に四男金田惣兵衛勝延を正孝の継承者金田善兵衛経廣として生きることを命じたのであった。
◎中興の祖 初代庄助正辰の意味するもの
- 金田遠江守正勝は下谷高岩寺で寛文9年(1669年)3月21日に下谷高岩寺で限られた近親者のみで、父金田惣八郎正辰の七回忌法要を行った。
- 高岩寺から故人に対し「霊光院殿常無道叶居士」という戒名を授かり、戒名が記された位牌は叔父金田正孝によって母親孝立院の位牌とともに正孝邸の仏壇で祀られ、その後金田善兵衛経廣とその子孫によって代々守られたのでした。
- 明治維新・明治24年の下谷高岩寺の巣鴨移転・東京大空襲などを経て墓や位牌は失われ、唯一過去帳のみが過去の出来事を知ることができる手がかりになっています。
- 庄助は庄之助の略称で金田正祐の変名である。 初代は金田正祐と金田正辰の両方を指しているのである。
- 正孝系金田氏の過去帳に金田惣八郎正辰を、「中興の祖金田庄助正辰」と記されているのにはそれなりの意味があるのです。金田家譜を改ざんされことにより生前の功績を記することができない金田正祐・祐勝・正勝(正藤)に対する慰霊の意味を込めて、惣八郎正辰を庄助正辰とした可能性が高い。
庄助正辰には金田正祐を初代とし祐勝・正勝と歴代が忠勤を励み正末の代に衰えた正祐系金田氏だったが、金田正辰を中興の祖として正祐系金田氏は再興したという意味が含まれているのである |
◎庄助(庄之助)には他にも重要な意味が隠されている
- 第三章で金田正祐について詳しく述べているが、服部半蔵保長の娘が金田庄之助室と服部家の家譜に書かれており、金田庄之助こそ金田正祐の変名であった。このことを金田遠江守正勝は知っていて、正孝系金田氏の初代を金田庄之助正辰とすることにしたのであった。庄之助は金田氏が服部半蔵家と縁戚関係があったことを過去帳に記したものであった。
- 過去帳には庄助正辰の父を金田備前守正治と官位まで記されている。金田惣八郎正勝は大坂の陣で伏見城城番という重要な役職に就いており、備前守と称していても不思議でない。上記人物関係図のように金田備前守正勝と称していた可能性が高いと判断した。
- 金田家譜では幕府の意向を尊重し正勝に対し「正藤」という変名を用いており、過去帳においても「正治」という変名を使用したと考えられる。 変名を用いる必要があるほど、金田備前守正勝の輝かしい履歴は幕府にとって都合が悪かった。
- 服部半蔵保長の娘婿には中根正重の名前があり、徳川家光・家綱に御側・大目付として仕えた中根正盛とも金田氏は遠い縁戚関係の可能性が高く、第六章で検証する金田遠江守正勝の人生に大きな影響を与えるのであった。
「中興の祖金田庄助正辰」として過去帳に残すことができたのは、五代将軍徳川綱吉の意向が働いた可能性が高い。
- 上記金田惣兵衛勝延と金田善兵衛経廣が同一人物だったのは、五代将軍綱吉の許可なしではできない。
- 服部半蔵家の金田庄之助と過去帳の中興の祖金田庄助正辰を一致できたのも、五代将軍綱吉の威を借りて調査した結果であると思われる。
- 五代将軍綱吉は河内国金田村(カナタムラ)を館林藩領としたのである。現在の大阪府堺市の中に群馬県の飛び地があるという状態が明治維新まで続いたのであった。
- 寛政重修諸家譜は相模国愛甲郡金田郷(現在の神奈川県厚木市金田)を上総国から三河国に移った金田正興の事項として記されている。この場所は金田氏と無縁の場所だったが、お墨付きを得ると家史研究で無視できなくなる。五代将軍綱吉は金田祐勝が堺で金田屋(カナタヤ)治右衛門として諜報活動をする前の拠点とした河内国金田村(カナタムラ)を館林藩領としたのは、将来の家史研究の為にお墨付きを与えた可能性が高い。
五代将軍徳川綱吉は館林藩城代家老・将軍の側衆を歴任し隠居した金田遠江守正勝の功に報いるため、正孝系金田氏を残し過去帳などに正祐系金田氏歴代の隠された真実に繋がる手がかりを残すことに全面的に協力してくれたのであった。
五代将軍綱吉の意向は指示書などの形で残され、寛政重修諸家譜の編者も無視することができなかったので、正孝系金田氏の存在を覆い隠す必要に迫られたのである。 |
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