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第四章 金田宗房と金田祐勝その1 ❷ ❸ ❹ ❺ ❻
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寛政重修諸家譜や金田系図では、金田正房を父として宗房・正祐・祐勝を兄弟として記されている。
第三章で検証したが金田正房・正祐は兄弟で、ともに主君松平広忠の代に忠死を遂げている。主君広忠も二人を追うように若くして亡くなった。
金田諸家に伝わる系図が意図的に事実と違った系図にするために、金田正房・宗房親子の年齢を不詳とされ、更に天文15年に忠死した金田正祐の没年を永禄6年とし後に墓まで建て替えたという念の入れようなのである。
いずれも徳川家康の代に主君のために黒子として活躍した金田祐勝・正勝親子を、歴史上抹殺しようとした幕府の意向が影響した結果と考えられる。
第四章では祐勝・正勝親子の隠された真実を解明することに全力を注ぎ、三方ヶ原の戦いで忠死した金田宗房と関連づけながらすすめていきたい。。 |
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金田正興 |
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金田正頼 |
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金田正房 |
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金田宗房 |
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金田良房 |
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└ |
金田正祐 |
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金田祐勝 |
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金田正勝(正藤) |
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└ |
金田屋常安 |
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(1)金田祐勝の実像(子供時代)
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金田祐勝は慶長7年(1602年)11月5日63歳で没したとだけ寛政重修諸家譜に記されているだけなのである。
寛永諸家系図伝には金田正祐の子と記されていたが、後に幕府の意向に沿って金田諸家譜では系図上正祐の弟と書き換えられてしまった。金田諸家譜では「相知不申候」が目立ち、上記のような寛政重修諸家譜ほ記載となってしまった。
しかし旗本金田氏の謎解きの為に家史研究をしてきた結果、その実像は次第に明らかになってきた。祐勝の少年期は下記の通り。
生まれた年は天文9年(1540年)、母は服部半蔵保長の娘。
服部系図では有名な服部半蔵正成は母の弟になっているが、年齢を勘案すると母の甥に相当すると思われる。つまり、金田祐勝と服部半蔵正成は従兄弟という関係なのである。
天文15年(1546年)9月6日父金田正祐が三河国上野役で戦死すると、主君松平広忠はその死を悲しみ額田郡能見村の金田正祐の屋敷があった場所に照光山金田寺安養院を創建する。
- 父が22歳で死んだ時に金田祐勝は7歳。
- 天文16年(1547年)に竹千代(後の徳川家康)を今川氏の人質として送り届ける一行を率いた伯父の金田正房が、戸田弾正康光の裏切りで竹千代を織田信秀に奪われてしまった。熱田からの竹千代脱出を図った正房は捕らえられ殺害された。
- 金田正房の嫡子宗房は年齢不詳だが、祐勝と年齢は近いと思われる。金田祐勝と金田宗房はともに幼くして父を失ったが、金田寺の初代住職義覚利玄上人から教養を賜り重臣阿部大蔵定国などの支援もあり順調に三河武士として成長できたと考えられる。
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上記地図について説明する。寛政重修諸家譜等に記されている額田郡能見村にあった金田正祐宅跡について地図で説明する。
- 能見村は地図中央岡崎市元能見町及びその周辺だったと考えられる。
- 北側に伊賀八幡宮と伊賀町があることから、金田正祐が伊賀忍者を率いて岡崎城北方の警護に当たったことが地図で読み取る事が出来る。
- 能見村の金田正祐宅跡に建立された金田寺安養院は、慶安元年(1648年)能見村から大林寺の塔頭として移転した。現在大林寺と金田寺安養院はともに魚町にあるが離れている。しかし当時大林寺の寺領は金田寺安養院を含む広大なものであったと推測される、
- 将軍家光は伊賀八幡宮に対し、家康の建てた本殿に幣殿・拝殿・透塀・御供所・随身門などを造改築し日光東照宮のような豪華な建物にした。今日では重要文化財に指定されている。
- 金田寺安養院も将軍家光の指示で移転が行われており、広忠時代の粗末な建物から堅牢な建物に建て替えられたはずだが惜しくも戦災で失われたのは無念なことである。将軍家光から寺領10石の御朱印を賜っており、この移転には将軍家光の特別な思いがこもっていた。慶安4年(1651年)将軍家光は遺命を残し金田正祐の系譜を継ぐ金田正辰の栄進を老中たちに託すのであった。
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(2)金田祐勝が育った環境を地図から検証
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天文15年に松平広忠が金田正祐の忠死を嘆き能見村の金田正祐屋敷跡に、照光山金田寺安養院を建立したと寛政重修諸家譜に記されていることについて、上記地図で検証することにする。
- 伊賀八幡宮は松平親忠が勧請し代々松平氏の氏神として代々の崇敬を受けてきたとされているが、岡崎城は西郷氏が築城し、西郷氏の系譜を引く大草松平氏の居城だったことと合致しない。
- 岡崎城を大草松平氏から奪った松平清康の代から崇敬を受けたのではないか。
- 松平清康が服部半蔵保長を家臣としたことや、第二章・第三章で述べたが岡崎城を松平信定に奪われた松平広忠に伊賀忍者が仕えたことを述べてきたが、清康・広忠の代に伊賀八幡宮への崇敬が高まったと考えるのが妥当なのである。
- 伊賀八幡宮周辺が伊賀町となっていることから、松平広忠の代に仕えた伊賀忍者たちが住んでいたと推測される。服部半蔵保長とその一族が伊賀町に居住し、後の服部半蔵正成もこの町で成長したと考えられる。
- 能見村に屋敷を構えた金田正祐は、義父服部半蔵保長に率いられた伊賀忍者とともに、岡崎城の北側の警備を任されるほど主君広忠の厚い信頼を得ていたと考えられる。
◎金田寺安養院
天文15年に金田寺安養院は額田郡能見村にあった金田正祐屋敷跡に建立されたが、慶安元年に大林寺の山内(岡崎市魚町)に移転し現在に到っている。開山は儀覚利玄。
天文18年3月6日刺客によって暗殺された松平広忠の葬儀が大林寺で執り行われた時に、儀覚利玄は末寺住職として協力したことが大林寺の記録に残っている。
金田寺安養院にとって重要なことは、慶安元年(1648年)徳川家光によって寺領10石の御朱印を賜り、現在地に移転させたことであります。移転により寺容の一新が図られたと想像される。
戦災で建物や貴重な資料を全て失ってしまい、昔の面影を知ることができないのは残念なことです。
徳川家光は伊賀八幡宮の本殿・神橋・随神門など整備し、重要文化財として今日も華麗な社殿が残っています。
第四章では金田祐勝が配下の忍者とともに、堺で商人となって諜報活動をし家康の天下取りに貢献したことを検証する。
広忠の代に祐勝・正勝親子の活躍は歴史の闇に消し去られ、旗本金田氏の本家は改易となってしまい傍流が僅かに残るに過ぎない状態となってしまった。
家光はそのことを知りながら生きているうちに何も出来なったわだかまりから、金田寺安養院の移転や伊賀八幡宮の造営(修復・増築)が行われたのであった。
◎参考に家光の遺命で金田正辰が栄進したことを簡単に述べる。
将軍家光の存命中は金田正祐の系譜を継いだ金田正辰は700石の旗本にしか過ぎなかったが、没後将軍家綱の代になると急に出世が始まる。
- 明暦2年(1656年)金田正辰は加増され1000石となりご先手頭(鉄砲)の役職を得る。
- 寛文元年(1661年)舘林藩主徳川綱吉25万石の城代家老に任じられ、金田正辰は3000石となる。今までの家禄1000石は長男金田正親が継承する。
いずれも、前将軍徳川家光の遺命を受けた老中松平信綱・阿部忠秋によって執行されたと考えられる。家光は病気で死を意識したので、金田正祐の系譜を継ぐ金田正辰を先祖の功に相応しい禄高に戻すことを命じたのである。
老中松平信綱・阿部忠秋は将軍家光からの遺命として、慎重に準備し上記のようになった。
家光の亡くなる前年、金田正祐の系譜を継ぐ堺の豪商金田屋伝右衛門が江戸に参上している。将軍家光が病身であることから、この参上には特別な意味があったと考えられる。
将軍家光にとって老中に遺命を残すのに、堺の豪商金田屋伝右衛門の証言が重要な意味を持っていたからである。
老中松平信綱・阿部忠秋は祐勝・正勝親子の諜報活動を正確に把握し、将軍家光の遺命を執行したのであった。。
しかし、正辰が栄進しても歴史の闇に消し去られた金田氏歴代の広忠・家康への忠義を尽くした働きが再評価されることはなかった。
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現在の照光山金田寺安養院(岡崎市魚町1-21) |
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(3)金田祐勝の実像(天文15年~永禄6年に松平家に起きた出来事)
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金田正祐が天文15年(1546年)に戦死したにも係わらず、金田家譜では永禄6年(1563年)のこととされたことは、金田氏家史研究では大きな謎であった。
天文15年から永禄6年までに松平氏に起きた出来事を表にし、時代的背景を探ってみると真相が明らかになってくるのであった。
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天文15年(1546年) |
前年より松平広忠が三河上野城の松平清定・家次を攻撃し勝利する。 |
天文16年(1547年) |
竹千代今川氏の駿府に送られる途中、織田信秀に人質として奪われる。 |
天文18年(1549年) |
織田信長の庶兄織田信広が城主である安祥城を今川勢が攻め、城主信広を捕虜にし竹千代と交換。 |
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竹千代はそのまま今川家の駿府へ人質として送られるが(2月)、3月に松平広忠没す。 |
天文24年(1555年) |
竹千代元服し松平元信(後に元康)と名乗る。 |
永禄元年(1558年) |
松平元康初陣。 |
永禄3年(1560年) |
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討ち取られる。 |
永禄5年(1562年) |
松平元康が家康に改名。織田信長と松平家康が清洲同盟を結ぶ。 |
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金田祐勝は父親と同様に松平元康の近習になるべく順調な人生を歩んでいた可能性が高い、しかし、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると逆境の立場になってしまうのであった。広忠の近習だった金田正房・正祐兄弟は親今川・反織田のイメージが強く、織田信長と同盟を結んだ松平家康にとって金田祐勝・宗房を直臣とするのは都合が悪く、永禄6年(1563年)二人を指名解雇したのであった。
松平家康は後に清洲同盟に支障がある場合は断固とした態度で接しており、岡崎信康・築山殿はそれによる犠牲者だと考えられる。
第二章で松平清康は織田信秀配下の刺客によって暗殺されたと述べたが、表向きは病死となっているが松平広忠も織田信秀配下の刺客に暗殺された可能性が高い。
しかし、父や祖父を織田信秀に殺されたことを公言したら清洲同盟にひびが入るので、徳川家康は「二人は家来に殺されたか病死した」ということに事実認定し情報統制を徹底したのであった。
松平広忠の重臣として貢献した阿部大蔵定吉は、第二章で述べたが当時15歳前後だった息子正豊が主君清康殺しの冤罪を着せられた。むしろ主君清康と供に刺客に殺された可能性の方が高いのである。
阿部大蔵定吉の系譜は井上清秀によって引き継がれ、譜代大名として存続したのであるが、阿部大蔵定国との関係を曖昧にしている。
阿部氏の一族阿部正勝が出世しその子孫は有力譜代大名になるが、阿部大蔵定吉とどのような親族なのかは不明なのである。
広忠時代の重臣阿部大蔵定吉が清洲同盟に障害になることを一人で背負い込んだ状況になってしまった結果と言える。
阿部定吉の弟である阿部定次が、このような状況を作った張本人であることは間違いない。
阿部定次は永く徳川家康に仕え、広忠時代の生き証人として「阿部家夢物語」「松平記」を著わすことができた。
阿部定次は清洲同盟を絶対視する徳川家康の意向に沿って「阿部家夢物語」「松平記」を著わしたので、その後の歴史書に多大な影響を与えたのであった。
大久保彦左衛門忠教の「三河物語」も家康の意向に沿ったものであることは明白である。大久保彦左衛門忠教は永禄3年(1560年)生まれなので、清洲同盟を絶対視する徳川家康の意向が定着した徳川家中で人生を送った人物なのである。
阿部氏と大久保氏には縁戚関係があり、阿部定次は大久保氏の一族から婿養子阿部忠政として後継者に迎えている。
阿部定次から大久保彦左衛門忠教が昔のことを聴いていたはずなのである。
徳川家康が織田信長との絶対的信頼関係を築くための清洲同盟の重要性が、私たちが知っている歴史を歪めてしまったことを主張したい。
指名解雇された祐勝・宗房のその後は、第四章の重要なテーマなので金田祐勝と金田宗房その2で詳しく述べたい。
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