三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第五章 将軍家光と三河金田氏終焉その1  ❶   


第一章 第二章 第三章
 
 三河金田氏の研究は第五章将軍家光と三河金田氏終焉に原点がある。
金田正末刑死事件はなぜ起きたのか。譜代大名でも不祥事件は続発していたが、この事件は特異な事件であることを強調したい。
事件の解明こそが三河金田氏謎解きの原点なのであります。

寛政重修諸家譜で金田正末が将軍秀忠の勘気に触れ改易となり浪人となったと記されている。
  • それは秀忠の治政の何時起きたことか。処罰の理由は何か(具体的な説明がない)。正末の収公された時の所領は。
  • 浪人となって10年以上の日々が過ぎてしまったのに、金田正末が鷹狩の将軍家光に突然直訴を行ったのは何故だろう。
  • 鷹狩が事件現場なら江戸郊外なので、小伝馬町牢屋に入れられ取り調べが始まるのは事件の翌日4月30日からとなる。
  • 関係者への聴取や過去の資料調査などに日数は要するはずで、5月3日斬首ということは充分な捜査など行われなかったと断定できる。
 「金田正末刑死事件」の真相を探るために三河金田氏歴代を研究した結果、下記の結論を導き出すことができた。
 
三河金田氏歴代は徳川家康の天下取りのために黒子として諜報活動などに従事してきた。
大坂の陣の頃には徳川家康は金田正勝(正藤)を伏見城番の要職につけその功に報いたのであった。
豊臣氏が滅び幕藩体制を固めようとしていた将軍秀忠と重臣たちは、江戸幕府の官僚機構の組織化に邪魔な存在であった黒子の存在を名実ともに抹殺する動きに出たのである。
  • 金田正勝(正藤)は暗殺された可能性が高いのである。
  • 家督を継いだ金田正末は謀略により所領没収となってしまった。
  • 家康に黒子として忠勤に励んだ祐勝・正勝は歴史の闇に消し去られ、家譜では履歴等が消し去られ、更に正勝は正藤と家譜上で改名までさせられた。

10年以上に及ぶ雌伏の日々を過ごした金田正末は意を決し鷹狩の将軍家光に思いを言上したのであった。黒子の存在を蒸し返されることを恐れた実力者土井利勝は独断で金田正末の処刑を執行させた。

寛政重修諸家譜では旗本金田氏序文として「最初に惣三郎正末の代の時、罪を被り家が絶えたと書かれ、今ある庶流から提出された系譜によれば・・・・」と始まり、初代金田頼次以降の内容へとつながっていく。

序文の内容を吟味すれば、金田正末刑死事件で金田氏本流は絶家となり、庶流である正末の弟たちを始祖とする新たな金田諸家が始まり江戸時代の旗本として続いたことを強調している。

江戸時代、多くの譜代大名などで不祥事はたくさん起きているが、寛政重修諸家譜の序文で正末刑死事件をここまで強調しているのは、幕府によって特別な扱いになっていたからである。
金田正末刑死事件の背景には、江戸幕府が歴史の闇に消し去った三河金田氏の悲劇があったのである。

 
 
 (1)金田正末刑死事件を寛政重修諸家譜から検証する

 
 金田正末 初名 正行 惣三郎

正末は将軍秀忠に仕えたが何の証拠もない事を訴えたために将軍秀忠の勘気に触れて(改易された)
正末はその後流浪の身となったが、寛永11年(1634年)4月29日に将軍家光が鷹狩りの時に、正末は将軍に直接下記のように訴えた。
「将軍秀忠様の代の重臣による不公平な裁定により、(将軍秀忠の勘気に触れた理由が不明で)申し開きをすることができず※に改易となり流浪の身となってしまいました。このように直訴したのは改易になったことについて再度真実を明かすためお調べください。」と将軍秀忠の代の重臣たちの対応を批判した。
しかし直訴した内容は偽りだと判断され、偽りを再度繰り返したのは罪が重いと正末は5月3日処刑された。
※奉公人等が編頗(へんぱ・不公平なこと)な計ひによりて理非明白に言上に及ばず・・・・そのままでは現代語訳が難しかったので工夫して上記のようになった


 上記記述について検証
  • 金田正末は元和元年(1615年)父金田正勝(正藤)が死去したので、家督を継承し将軍秀忠に仕えた。
  • 家督を継承した元和元年(1615年)から秀忠が将軍に在職していた元和9年(1623年)までに、金田正末は将軍秀忠の勘気に触れて改易となり浪人となった。
  • 秀忠の勘気に触れたとする内容は不明で、改易時における金田正末の役職禄高は不明。
  • 改易されてから10年以上も経ってから、寛永11年(1634年)4月29日に将軍家光が鷹狩りの時に、正末は将軍に直訴したことになる。
  • 正末の訴えた内容は前回・今回ともに虚偽であったとされ正末は処刑されたが、事件が起きた4月29日から処刑された5月3日まで5日間しかない。※
 ※鷹狩が事件現場なら江戸郊外となり、そこから小伝馬町牢屋に護送され、取り調べが始まるのは事件の翌日4月30日。
金田正末が直訴した内容を調査する為、10年以上前に起きた前将軍秀忠の勘気に触れた事件の詳細を調査する必要がある。
5月3日に処刑というのはあまりにも拙速に過ぎると考えられる。
 
 
   ★この事件を寛政重修諸家譜の文章だけでは、事件の本質を見抜くことはできない。
 (2)三河金田氏の実像の要点を整理することで事件の本質に迫る
 ◇第三章関連
  1. 金田正頼が服部半蔵保長とともに伊勢国に逃避した松平広忠を支えるために伊賀忍者を配下にした。その後、松平広忠は今川義元の支援を得て岡崎城帰還を果たした。
  2. 金田正頼が不慮の死を遂げた後、生前の約束に基き服部半蔵保長は娘正頼の次男(金田正祐)に嫁がせる。
    服部半蔵保長の系図で娘金田庄之助室と書かれている。この金田庄之助こそ正祐を指すのである。
  3. 金田正祐は松平広忠の近臣として信頼を得て、配下の忍者とともに活躍する。しかし、天正15年三河上野の役で先鋒をつとめ中根甚太郎とともに戦死。22歳であった。
    徳川家光の代に側衆として仕えた中根正盛は公儀隠密の元締めだったと言われてることから、中根甚太郎の代から中根氏は伊賀忍者と関りを持っていたと考えられる
 
 
 ◇第四章関連 前編
  1. 松平広忠は金田正祐の死を悲しみ、正祐宅跡(三河国額田郡能見村)に金田寺安養院を建立。幼くして父を失った金田祐勝は金田寺開山の儀覚利玄から武士としての教養を学び、母や祖父の服部半蔵保長から忍者としての素養も身に着けることができた。
  2. 駿府の竹千代のもとに出入りしていた金田祐勝は、祖母華陽院の使いに伴って母於大の方のもとに出入りすることができたので、竹千代に直接於大の方の言葉を伝えた可能性が高い。於大の方は過去の経緯から金田正祐の子である金田祐勝に特別の信頼を寄せていた。このこと後々重要なことになる。
  3. 今川氏から自立し織田徳川同盟を結んだ徳川家康は、上方の情報収集を目的に金田祐勝を派遣した。金田祐勝は徳川家の家臣から離れ、河内国金田(かなた)村を拠点に商人として堺方面で諜報活動を開始した。配下の忍者は使用人になったり、山伏・物売りなどに変装し諜報活動に専念するのであった。
    諜報活動の頭を家康の生母於大の方が任され、家康の弟松平康元・松平定勝を率いて活動に専念した可能性が高い。
    徳川家康は親族による強力なサポートを受け、政治軍事に専念することができたのであった。
    金田祐勝にとって於大の方との強い信頼関係が、諜報活動や人脈形成に重要な役割を果たした
  4. 諜報活動組織の一員である服部半蔵正成は家康の側近として仕え活動のサポートをする役割をし、茶屋四郎次郎は京都を中心に諜報活動を果たした。
    元亀年中に金田屋(かなたや)が堺に店を構え、堺の商人仲間に加わったことで、金田祐勝は千利休など堺の有力者との人脈が次第に出来上がった。
  5. 本能寺の変関連は第四章(11)金田祐勝と本能寺の変にて詳しく述べているので省略する。
    天海=明智光秀説に準拠し独自の推理で、天海が本能寺の変での果たしたかもしれない重要な役割について述べてみたい。この場合だと天海が明智と徳川の接点となり、徳川は明智の隠謀に加担したことになる。
 
  ここでは天海と明智光秀の同一人物説について検証したい。
天海は謎の人物とされ前半生が不明なのである。明智光秀は美濃国土岐氏の支族明智氏出身なのに不明なことが多いのである。
更に明智光秀の重臣斎藤利三 の娘が春日局であり、春日局と天海とが旧知の仲だったと推測されている。
これは天海が明智光秀本人か光秀の血縁者である可能性が高いことにより、本能寺の変では天海が家康に利する働きをしたのではないかという憶測をすることができる。、
本能寺の変では天海が明智側として、家康に正確な情報を提供し、何らかの方法で味方してくれることを求めたと考えられる。

このことで本能寺の変を察知できた徳川家康は、堺の金田祐勝に危機対応を命じた。伊賀忍者を配下に持つ金田祐勝は護衛兵や安全な退避ルートを準備した。諜報活動組織の一員である服部半蔵正成や茶屋四郎次郎も連携して動いたのは当然のことである。
徳川家康は安全に伊賀越えをして三河国に戻り、明智光秀に味方するため尾張国に出陣するが明智敗北の報が伝わった。
その後甲斐国・信濃国方面に全力投入をして領地拡大を図った。(天正壬午の乱)
天海は豊臣秀吉存命中は家康の保護下で堅守された。
しかし、豊臣秀吉没後は徳川家康の良きアドバイザーとして能力を発揮し、家康は後のことを天海に託したのであった。

◇金田庄之助実は金田正祐
 
 

 
 
  • 金田庄之助は正祐を指す暗号名である。幕府の圧力により金田諸家の系図が金田正祐を祐勝の兄とする書き換えが起きた。金田正祐を祖として祐勝・正勝(正藤)と代々続く系図が正しいことを伝えるために庄之助という暗号名を利用した。
  • 服部家の系図で金田正祐を金田庄之助に書き換えたことを知った金田遠江守正勝は、子孫に真実を伝える思いからこの暗号名を金田正孝家の過去帳に記した。中興の祖金田庄之助正辰と書かれている過去帳には、金田正祐の系譜を代々継承してきた三河金田氏から分離し、金田正辰が中興の祖となった歴史的事実を子孫に伝えたい意図が隠されていた。。
  • 伊賀忍者といえば服部半蔵正成が有名だが、通説では忍者ではなく旗本として家康の側近といて仕えた武将となっている。上記系図の知賀地保元・中根正重なども含め服部保長と年代が開いており、系図上は子や孫までもが服部保長の子として記された可能性が高い。服部半蔵正成は系図では保長の子と記載されているが、実際は孫だったのである。
  • 服部半蔵正成と金田祐勝は同年代で、子ども時代から祖父服部半蔵保長に兄弟のように育てられ、二人は駿府の竹千代に近侍として仕えた。
  • 子供時代から気心が知れていたことから、家康のために金田祐勝は一番難しい任務を任せられた。 堺の金田屋治右衛門(金田祐勝)・京都の茶屋四郎次郎そして家康近侍の服部半蔵正成を結ぶ諜報活動のネットワークを築き、家康の天下取りのため貢献したのであった。
  • 本能寺の変を察知した徳川家康が、側近の服部半蔵正成を堺の金田治右衛門(金田祐勝)と協力させ伊賀忍者による護衛兵や安全な退避ルートを準備させた。 

 ◇第四章関連 後編
  1. 豊臣秀吉の五大老となって徳川家康が大坂・伏見に屋敷を構えると、金田祐勝の諜報活動も次第に変化していったと考えられるが、すべて機密事項なので推測すら困難である。
  2. 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は再建した伏見城に母伝通院を迎えます。70代の伝通院が江戸から伏見に居を移すということは重大な使命を果たす目的があったからです。
    加藤清正・福島正則・黒田長政など豊臣恩顧の大名たちが徳川家康に味方したのは、北政所の存在があったからこそなのであります。伝通院は徳川家と豊臣家の強い信頼関係を築くことが上京の目的で、北政所から慕われる存在になったのです。
    金田祐勝は家康から伏見城に呼ばれ、商人から武士に戻り伝通院に直接仕えるように命じられました。伝通院にとっても特別な絆で結ばれた金田祐勝が伏見城で仕えてくれることは心強かったはずです。
    慶長7年(1602年)8月伝通院が伏見城で75歳で亡くなりますが、同年11月金田祐勝が63歳で亡くなります。
    殉死によるものと推測され、遺書には「あの世に行っても伝通院様にお仕えいたします」と書かれていたはずです。
  3. 金田祐勝の嫡男金田正勝(正藤)は、父と共に伏見城で徳川家康に使えました。
    大坂の陣では伏見城にて城番という要職につき、金田備前守正勝と称し五千石の禄高でした。
    長年にわたり堺に潜伏して諜報活動に専念してきた金田祐勝・正勝親子の功に報いる為に、徳川家康はそれなりの処遇を与えたと思われます。

 
 ◎服部正就改易と金田正末改易の共通点
 
 服部正就改易  金田正末改易
 慶長10年(1605年)12月※1   元和2年(1616年)~元和9年(1623年)※2
 原因 秀忠の勘気に触れる   原因 秀忠の勘気に触れる
 背景 慶長10年(1605年)徳川家康将軍職を秀忠に譲る。   背景 元和2年(1616年)徳川家康没
   
  • 服部正就と金田正末改易の理由はいずれも将軍秀忠お勘気に触れたとされるが、実際は家康から秀忠に権力が移る際の直接的犠牲者だったと考えられる。
  • 徳川秀忠が将軍就任後、酒井忠世・土井利勝・安藤重信などが宿老となり、統治機構として幕府組織を整備していったことが服部正就改易の起因となったのである。
  •  服部正就は8000石の旗本として伊賀衆・甲賀衆を率いていたが、幕府組織を仕上るには邪魔な存在として宿老たちの謀略により改易とされたのである。正就は松平定勝に預けられ蟄居となり、伊賀衆・甲賀衆は若年寄 配下として幕府組織に組み込まれたのであった。
  • 同じような事件として慶長11年(1606年)1月関東総奉行※3青山忠成と内藤清成が免職・蟄居を命じられ、関東総奉行は解体されその職務は老中配下に設置された江戸町奉行など各奉行に引き継がれた。
  • 徳川家康の天下取りに親の代から貢献した服部正就・金田正勝(正藤)は1615年大坂の陣で豊臣氏が滅ぶ出来事に前後して不自然な死に方をするのである。※4
  • 改易となった服部正就は復帰することなく無念の最後を遂げる。金田正勝(正藤)から家督を継承した金田正末は後ろ盾になったはずの徳川家康が1616年に亡くなることで、徳川秀忠とその重臣たちの謀略により改易とされてしまったのでる。
  • 服部正就の改易と金田正末の改易は時期は違っても、「徳川家康という後ろ盾を失った時期」 に徳川秀忠の宿老たちの謀略により改易となったという点で共通しているのである。

 
 ※1 慶長9年説もあるが将軍世嗣として秀忠が江戸で実権を握っており、秀忠が改易に関与したことは間違いない。。
 ※2 改易となった時期は不明なので上記7年間が該当する時期となる。しかし正末が家督継承後まもなく改易となった印象が強い。
 ※3 家康の関東移封後に設置された役職で、関東領国内の在地支配など諸務全般を統括し江戸市中の支配も担当した。
 ※4 1615年は慶長20年が元和元年に改元された年なので西暦のみで表示する。服部正就と金田正勝はともに大坂の陣を最後まで元気に職務を全うした。しかし服部正就は大坂落城の日に部下と共に行方不明になってしまうのである。7か月後金田正勝も没するが、その後の金田氏改易を考慮すれば暗殺されたとみられる。
 服部正就と金田正勝(正藤)は下記のように豊臣氏滅亡にともない相次いで亡くなったことから、幕府から送られた刺客によるものとの疑いが強い。
 
 服部正就の死  5月7日天王口の戦いで行方不明となる。家臣ともども遺体が見つからず。
大坂城落城   5月8日豊臣秀頼切腹により豊臣氏滅ぶ。
 金田正勝(正藤)の死  12月14日死去。
 

 
 ◎金田正末改易と松平定勝
 金田正末が改易になった時期は不明だが、徳川家康が亡くなった元和2年(1616年)頃と考えられる。
服部正就は1605年改易後、義父である松平定勝のもとで蟄居となっていたが、復帰を目指して大坂の陣では徳川方として戦った。。
1615年服部正就が不慮の死を遂げると、嫡男服部正辰は幼少であったため松平定勝の孫として大事に育てられ、藩主の親族として扱われるのである。江戸時代松平定勝の系譜を継承する松山藩・桑名藩等で服部家は家老職に任じられた。
徳川家康は大坂の陣に備えて、異父弟松平定勝を新たに伏見城城代として赴任し5万石を加増された。定勝は今までの掛川藩主3万石を嫡男定行に譲った。
大坂の陣では軍功のあった関宿藩主松平忠良が4万石から5万石に加増され大垣藩主になった。
それに対し伏見城城代松平定勝は5万石から11万石に加増され桑名藩主になった。いかに伏見城城代の働きが高く評価されていることがわかる。
ところが松平定勝の配下で城番として支えた金田備前守正勝は大阪落城後に謎の死を遂げ、伏見城に馳せ参じた服部正就は大阪城が落城する寸前に家来とともに行方不明になってしまった。
松平定勝が11万石に加増になったのが家康が死んだ翌年であり、この頃には金田正末も改易になってたはずである。
どうも松平定勝は将軍秀忠と重臣たちから高い評価を得ていたことが11万石に栄進した要因なのである。
そして金田氏・服部氏を歴史の闇に消し去るのにも、一役買っていたのではないかという疑いが残るのである。
徳川家康の異父弟松平康元・松平定勝の系譜を比較すると疑念は更に高まるのである。

☆徳川家康の異父弟松平康元・定勝について検証
 
 松平康元 松平定勝 
 (父)久松俊勝・(母)於大の方  (父)久松俊勝・(母)於大の方
 1552年―1603年  1560年―1624年
 1615年関宿藩主4万石を嫡子忠良が継承していた  1615年伏見城城代として5万石(子の定行は掛川藩主3万石として自立していた)
 1616年大坂の陣の功績で大垣藩5万石に加増  1617年大坂の陣の功績で桑名藩11万石に加増
 特記事項
  • 於大の方の意向で家老として金田宗房が家老となる
  • 金田宗房三方ヶ原の戦いで主君の身代わりとして戦死
  • 宗房の遺児金田良房、松平康元に育てられる。
  • 1603年松平康元死去
  • 金田良房家老となり藩主松平忠良に仕える。1500石
  • 1624年松平忠憲幼少で家督を継いだので小諸藩に国替え
  • 1647年松平忠憲病死で無嗣改易
 特記事項
  • 服部正就は松平定勝の娘婿
  • 松平定勝の次男である掛川藩主松平定行によって服部正辰は大切に育てられる
  • 松平定勝の子孫はその後大きく飛躍し服部氏も各藩の重役になる
  • 1624年松平定勝死去
  • 定行系松平氏(松山藩15万石)定綱系松平氏(桑名藩11万石)定房系松平氏(今治藩4万石)
 説明 
  • 1604年松平康元死去(享年52歳)の時は関宿藩4万石に対し松平定勝は3万石だった。しかし松平定勝が44歳の壮年に対し、康元から藩主を継承した忠良が22歳の若年だったのが、その後の両家の明暗が分かれることに。
  • 1607年松平定勝は伏見城城代に就任。城代として5万石が与えられ、定勝は嫡男定行に掛川藩主3万石を譲る。
  • 1616年松平忠良は大坂の陣の項で大垣藩主5万石に加増。松平忠良34歳。参考に松平定勝は56歳。
  • 1617年松平定勝は桑名藩主11万石に加増移封。伏見城城代としての功績が認められる。松平定行は桑名藩の継嗣となり、弟の松平定綱が掛川藩主3万石となる。
  • 1624年大垣藩主松平忠良が43歳で死去。長男忠利は20歳だったが5000石の旗本として分地。継嗣となった次男忠憲が5歳だったので小諸藩主4万石5千石に移封。
  • 同年桑名藩主松平定勝が65歳で死去。継嗣定行が桑名藩主11万石を継承。
     
  -その後-
1635年松平定行は伊予松山藩主15万石に加増移封。そして弟の松平定綱が掛川藩主→淀藩主→大垣藩主と順調に出世していて、桑名藩主11万3千石に加増移封。伊予松山藩と桑名藩を併せると26万3千石となり有力な親藩大名になったのである。

1647年小諸藩主松平忠憲が28歳で病死し無嗣改易となった。松平忠憲には庶兄松平忠利が旗本として分家になっていたことから、幕府の非情さが目立つ。
 - 総括-
  1. 松平康元が生きている時は松平定勝との禄高に差は無かったが、その後65歳で亡くなるまでの21年間に大きな差が生まれる。
  2. 康元が亡くなって3年後松平康元が伏見城城代に赴任し禄高5万石を新たに拝領し、大坂の陣での功績で桑名藩主11万石に加増移封となる。
  3. 松平定勝は享年65歳、桑名藩主を継ぎその後松山藩主(15万石)となった松平定行は享年82歳、定行の弟で出世街道を邁進し桑名藩主(11万3千石)となった松平定綱は60歳と当時としては長寿だ。
  4. それに対し松平康元(享年52歳)はともかく、22歳で家督を継ぎ大垣藩主(5万石)となった松平忠良は享年43歳、5歳で家督を継承し小諸藩主(5万石)となった松平忠憲は享年28歳。松平忠憲は継嗣がいないので無嗣改易となった。
  5. 松平忠良が亡くなった時に、長男忠利20歳(側室の子)がいたのに、次男忠憲5歳(正室の子)に家督を継承させたのが無嗣改易の遠因なのである。
  6. 正室の子が優先的に家督を継承できるのは理解できるが、側室の子が継承できないことではない。将軍秀忠は側室の子だし、金沢藩主前田利常は側室の子なのである。他にも側室の子が大名を継承した例は多かったはずである。後のことだが徳川将軍家では家綱以降全部側室の子なのである
  7. 康元系松平氏では松平忠利の家督継承で無嗣改易を避けることが出来なかったのは残念なことである。
 【松平康元の系譜】
  • 二代将軍秀忠とその重臣たちに冷遇されていた。
  • 松平忠良からの家督相続では正室の子ではないが、便宜的に20歳の忠利が相続する方法があったのではないか。
  • 正室の子忠憲が5歳で家督を継承したので、万一の場合に備え忠利が継承できる準備をしていたら、無嗣改易は防げた。
  • 二代将軍秀忠とその重臣たちによって、他藩に比べ不公平な扱いを受けたことが無嗣改易の原因である。
 【松平定勝の系譜】
  • 二代将軍秀忠とその重臣たちに優遇されていた。
  • 秀忠の重臣で家光の代になっても、権力を握っていた土井利勝が栄進の立役者だったと思われる
  • 掛川藩主となっていた松平定行が桑名藩主定勝の継嗣になるなど柔軟に対応されているが、康元系では継嗣に関して厳格に対応され改易となったのは、幕府の対応に依怙贔屓を感じることができる。
  • 寛永12年(1635年)松山藩15万石・桑名藩11万3千石に加増移封された頃は、幕府の支配体制を確立し土井利勝の権力基盤が強く、土井利勝の後ろ盾によるもの。

 
 ◎金田正末改易の真相
 徳川家康の異父弟松平康元の系譜と松平定勝の系譜を比較することで、秀忠とその重臣たちの対応に依怙贔屓を感じることを述べた。
それが大名家の存亡に及んでいたのである。
大坂の陣では関宿藩主松平忠良に宗房系金田氏の金田靭負良房が家老として仕え、伏見城城代松平定勝には正祐系金田氏の金田備前守正勝が城番として仕えていたのである。
関宿藩主松平忠良は軍功で大垣藩主(5万石)に加増移封となった。
伏見城城代松平定勝は2年後に桑名藩主(11万石)に加増移封となったが、単純に大坂の陣での功績ではなさそうである。
本来なら大坂の陣での功績で城番金田備前守正勝にも栄進の道が開かれていたはずだが、伏見城周辺で元和元年12月14日暗殺されてしまったのである。翌年家康が亡くなると金田正末が改易となり、将軍秀忠と重臣たちの望み通り邪魔者は消されたのであった

金田備前守正勝暗殺を実行した人物は土井利勝。利勝は刺客に暗殺を命令し実行した。
伏見城城代松平定勝は、豊臣方の残党によるものと事件の幕引きを図り、故人の名誉のため病死と駿府の家康には報告した。
嫡男金田正行(浪人後は角左衛門正末と改名)は謀略により改易となった。時期は家康が亡くなって間もなくであろう。

10年後正末が将軍家光に直訴した時に、「奉公人等が編頗な計ひによりて理非明白に言上に及ばず」と言っており、
  • 奉公人等は土井利勝及び他の重臣を指し、
  • あまりに不公平な扱いを受けたので(正末が)抗議しても
  • (土井利勝及び他の重臣から)納得のいく説明のないまま
  • 上様(将軍秀忠)の御勘気に触れたと告げられ
  • 改易を通知されて浪人となったのである。
  • 金田正末は父の屋敷(伏見)にいて、家督継承後伏見に留まるのか、それとも江戸に出て将軍秀忠に直接仕えるのか、下知を受けるまで待機していたのである。簡単には将軍秀忠に会って勘気に触れるような立場になかったのである。
  • 康元系松平氏の小諸藩が家督相続で不公平な扱いを受けたのと同様に、金田正末も不公平な扱いを受け改易になったと考えられる。

本来なら円滑な家督相続が行われたはずが、伏見城城代松平定勝が将軍秀忠の重臣たち(とりわけ土井利勝)と裏で結びついており、正末の人物像は良い印象では将軍秀忠に伝わっていなかったはずである。
土井利勝を中心に行われた邪魔者を消す陰謀によって、金田備前守正勝は暗殺され、嫡男金田正行は改易で禄高を没収され、金田角左衛門正末と改名し浪人として流浪の人生に陥ってしまうのであった。
 
     
     
      ❶