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★この事件を寛政重修諸家譜の文章だけでは、事件の本質を見抜くことはできない。 |
(2)三河金田氏の実像の要点を整理することで事件の本質に迫る
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◇第三章関連
- 金田正頼が服部半蔵保長とともに伊勢国に逃避した松平広忠を支えるために伊賀忍者を配下にした。その後、松平広忠は今川義元の支援を得て岡崎城帰還を果たした。
- 金田正頼が不慮の死を遂げた後、生前の約束に基き服部半蔵保長は娘正頼の次男(金田正祐)に嫁がせる。
服部半蔵保長の系図で娘金田庄之助室と書かれている。この金田庄之助こそ正祐を指すのである。
- 金田正祐は松平広忠の近臣として信頼を得て、配下の忍者とともに活躍する。しかし、天正15年三河上野の役で先鋒をつとめ中根甚太郎とともに戦死。22歳であった。
徳川家光の代に側衆として仕えた中根正盛は公儀隠密の元締めだったと言われてることから、中根甚太郎の代から中根氏は伊賀忍者と関りを持っていたと考えられる
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◇第四章関連 前編
- 松平広忠は金田正祐の死を悲しみ、正祐宅跡(三河国額田郡能見村)に金田寺安養院を建立。幼くして父を失った金田祐勝は金田寺開山の儀覚利玄から武士としての教養を学び、母や祖父の服部半蔵保長から忍者としての素養も身に着けることができた。
- 駿府の竹千代のもとに出入りしていた金田祐勝は、祖母華陽院の使いに伴って母於大の方のもとに出入りすることができたので、竹千代に直接於大の方の言葉を伝えた可能性が高い。於大の方は過去の経緯から金田正祐の子である金田祐勝に特別の信頼を寄せていた。このこと後々重要なことになる。
- 今川氏から自立し織田徳川同盟を結んだ徳川家康は、上方の情報収集を目的に金田祐勝を派遣した。金田祐勝は徳川家の家臣から離れ、河内国金田(かなた)村を拠点に商人として堺方面で諜報活動を開始した。配下の忍者は使用人になったり、山伏・物売りなどに変装し諜報活動に専念するのであった。
諜報活動の頭を家康の生母於大の方が任され、家康の弟松平康元・松平定勝を率いて活動に専念した可能性が高い。
徳川家康は親族による強力なサポートを受け、政治軍事に専念することができたのであった。
金田祐勝にとって於大の方との強い信頼関係が、諜報活動や人脈形成に重要な役割を果たした
- 諜報活動組織の一員である服部半蔵正成は家康の側近として仕え活動のサポートをする役割をし、茶屋四郎次郎は京都を中心に諜報活動を果たした。
元亀年中に金田屋(かなたや)が堺に店を構え、堺の商人仲間に加わったことで、金田祐勝は千利休など堺の有力者との人脈が次第に出来上がった。
- 本能寺の変関連は第四章(11)金田祐勝と本能寺の変にて詳しく述べているので省略する。
天海=明智光秀説に準拠し独自の推理で、天海が本能寺の変での果たしたかもしれない重要な役割について述べてみたい。この場合だと天海が明智と徳川の接点となり、徳川は明智の隠謀に加担したことになる。
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ここでは天海と明智光秀の同一人物説について検証したい。
天海は謎の人物とされ前半生が不明なのである。明智光秀は美濃国土岐氏の支族明智氏出身なのに不明なことが多いのである。
更に明智光秀の重臣斎藤利三 の娘が春日局であり、春日局と天海とが旧知の仲だったと推測されている。
これは天海が明智光秀本人か光秀の血縁者である可能性が高いことにより、本能寺の変では天海が家康に利する働きをしたのではないかという憶測をすることができる。、
本能寺の変では天海が明智側として、家康に正確な情報を提供し、何らかの方法で味方してくれることを求めたと考えられる。
このことで本能寺の変を察知できた徳川家康は、堺の金田祐勝に危機対応を命じた。伊賀忍者を配下に持つ金田祐勝は護衛兵や安全な退避ルートを準備した。諜報活動組織の一員である服部半蔵正成や茶屋四郎次郎も連携して動いたのは当然のことである。
徳川家康は安全に伊賀越えをして三河国に戻り、明智光秀に味方するため尾張国に出陣するが明智敗北の報が伝わった。
その後甲斐国・信濃国方面に全力投入をして領地拡大を図った。(天正壬午の乱)
天海は豊臣秀吉存命中は家康の保護下で堅守された。
しかし、豊臣秀吉没後は徳川家康の良きアドバイザーとして能力を発揮し、家康は後のことを天海に託したのであった。
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◇金田庄之助実は金田正祐
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- 金田庄之助は正祐を指す暗号名である。幕府の圧力により金田諸家の系図が金田正祐を祐勝の兄とする書き換えが起きた。金田正祐を祖として祐勝・正勝(正藤)と代々続く系図が正しいことを伝えるために庄之助という暗号名を利用した。
- 服部家の系図で金田正祐を金田庄之助に書き換えたことを知った金田遠江守正勝は、子孫に真実を伝える思いからこの暗号名を金田正孝家の過去帳に記した。中興の祖金田庄之助正辰と書かれている過去帳には、金田正祐の系譜を代々継承してきた三河金田氏から分離し、金田正辰が中興の祖となった歴史的事実を子孫に伝えたい意図が隠されていた。。
- 伊賀忍者といえば服部半蔵正成が有名だが、通説では忍者ではなく旗本として家康の側近といて仕えた武将となっている。上記系図の知賀地保元・中根正重なども含め服部保長と年代が開いており、系図上は子や孫までもが服部保長の子として記された可能性が高い。服部半蔵正成は系図では保長の子と記載されているが、実際は孫だったのである。
- 服部半蔵正成と金田祐勝は同年代で、子ども時代から祖父服部半蔵保長に兄弟のように育てられ、二人は駿府の竹千代に近侍として仕えた。
- 子供時代から気心が知れていたことから、家康のために金田祐勝は一番難しい任務を任せられた。 堺の金田屋治右衛門(金田祐勝)・京都の茶屋四郎次郎そして家康近侍の服部半蔵正成を結ぶ諜報活動のネットワークを築き、家康の天下取りのため貢献したのであった。
- 本能寺の変を察知した徳川家康が、側近の服部半蔵正成を堺の金田治右衛門(金田祐勝)と協力させ伊賀忍者による護衛兵や安全な退避ルートを準備させた。
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◇第四章関連 後編
- 豊臣秀吉の五大老となって徳川家康が大坂・伏見に屋敷を構えると、金田祐勝の諜報活動も次第に変化していったと考えられるが、すべて機密事項なので推測すら困難である。
- 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は再建した伏見城に母伝通院を迎えます。70代の伝通院が江戸から伏見に居を移すということは重大な使命を果たす目的があったからです。
加藤清正・福島正則・黒田長政など豊臣恩顧の大名たちが徳川家康に味方したのは、北政所の存在があったからこそなのであります。伝通院は徳川家と豊臣家の強い信頼関係を築くことが上京の目的で、北政所から慕われる存在になったのです。
金田祐勝は家康から伏見城に呼ばれ、商人から武士に戻り伝通院に直接仕えるように命じられました。伝通院にとっても特別な絆で結ばれた金田祐勝が伏見城で仕えてくれることは心強かったはずです。
慶長7年(1602年)8月伝通院が伏見城で75歳で亡くなりますが、同年11月金田祐勝が63歳で亡くなります。
殉死によるものと推測され、遺書には「あの世に行っても伝通院様にお仕えいたします」と書かれていたはずです。
- 金田祐勝の嫡男金田正勝(正藤)は、父と共に伏見城で徳川家康に使えました。
大坂の陣では伏見城にて城番という要職につき、金田備前守正勝と称し五千石の禄高でした。
長年にわたり堺に潜伏して諜報活動に専念してきた金田祐勝・正勝親子の功に報いる為に、徳川家康はそれなりの処遇を与えたと思われます。
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◎服部正就改易と金田正末改易の共通点
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服部正就改易 |
金田正末改易 |
慶長10年(1605年)12月※1 |
元和2年(1616年)~元和9年(1623年)※2 |
原因 秀忠の勘気に触れる |
原因 秀忠の勘気に触れる |
背景 慶長10年(1605年)徳川家康将軍職を秀忠に譲る。 |
背景 元和2年(1616年)徳川家康没 |
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- 服部正就と金田正末改易の理由はいずれも将軍秀忠お勘気に触れたとされるが、実際は家康から秀忠に権力が移る際の直接的犠牲者だったと考えられる。
- 徳川秀忠が将軍就任後、酒井忠世・土井利勝・安藤重信などが宿老となり、統治機構として幕府組織を整備していったことが服部正就改易の起因となったのである。
- 服部正就は8000石の旗本として伊賀衆・甲賀衆を率いていたが、幕府組織を仕上るには邪魔な存在として宿老たちの謀略により改易とされたのである。正就は松平定勝に預けられ蟄居となり、伊賀衆・甲賀衆は若年寄 配下として幕府組織に組み込まれたのであった。
- 同じような事件として慶長11年(1606年)1月関東総奉行※3青山忠成と内藤清成が免職・蟄居を命じられ、関東総奉行は解体されその職務は老中配下に設置された江戸町奉行など各奉行に引き継がれた。
- 徳川家康の天下取りに親の代から貢献した服部正就・金田正勝(正藤)は1615年大坂の陣で豊臣氏が滅ぶ出来事に前後して不自然な死に方をするのである。※4
- 改易となった服部正就は復帰することなく無念の最後を遂げる。金田正勝(正藤)から家督を継承した金田正末は後ろ盾になったはずの徳川家康が1616年に亡くなることで、徳川秀忠とその重臣たちの謀略により改易とされてしまったのでる。
- 服部正就の改易と金田正末の改易は時期は違っても、「徳川家康という後ろ盾を失った時期」 に徳川秀忠の宿老たちの謀略により改易となったという点で共通しているのである。
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※1 慶長9年説もあるが将軍世嗣として秀忠が江戸で実権を握っており、秀忠が改易に関与したことは間違いない。。 |
※2 改易となった時期は不明なので上記7年間が該当する時期となる。しかし正末が家督継承後まもなく改易となった印象が強い。 |
※3 家康の関東移封後に設置された役職で、関東領国内の在地支配など諸務全般を統括し江戸市中の支配も担当した。 |
※4 1615年は慶長20年が元和元年に改元された年なので西暦のみで表示する。服部正就と金田正勝はともに大坂の陣を最後まで元気に職務を全うした。しかし服部正就は大坂落城の日に部下と共に行方不明になってしまうのである。7か月後金田正勝も没するが、その後の金田氏改易を考慮すれば暗殺されたとみられる。 |
服部正就と金田正勝(正藤)は下記のように豊臣氏滅亡にともない相次いで亡くなったことから、幕府から送られた刺客によるものとの疑いが強い。
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服部正就の死 |
5月7日天王口の戦いで行方不明となる。家臣ともども遺体が見つからず。 |
大坂城落城 |
5月8日豊臣秀頼切腹により豊臣氏滅ぶ。 |
金田正勝(正藤)の死 |
12月14日死去。 |
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