三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第五章 将軍家光と三河金田氏終焉その1  ❶   


第一章 第二章 第三章 第四章
 
 三河金田氏の研究は第五章将軍家光と三河金田氏終焉に原点がある。
金田正末刑死事件はなぜ起きたのか。譜代大名でも不祥事件は続発していたが、この事件は特異な事件であることを強調したい。
事件の解明こそが三河金田氏謎解きの原点なのであります。

寛政重修諸家譜で金田正末が将軍秀忠の勘気に触れ改易となり浪人となったと記されている。それは何年のことか。処罰の理由は何か。正末の収公された所領は。
浪人となって10年以上の日々が過ぎてしまったのに、金田正末が鷹狩の将軍家光に突然直訴を行ったのは何故だろう。
鷹狩が事件現場なら江戸郊外、小伝馬町牢屋に入れられ取り調べが始まるのは事件の翌日4月30日。
関係者の聴取や過去の資料調査などに日数は要するはずで、5月3日斬首ということは充分な捜査など行われなかったと断定できる。
「金田正末刑死事件」の真相を探るために三河金田氏歴代を研究した結果、下記の結論を導き出すことができた。
 
三河金田氏歴代は徳川家康の天下取りのために黒子として諜報活動などに従事してきた。大坂の陣の頃には徳川家康は金田正勝(正藤)を伏見城番の要職につけその功に報いたのであった。豊臣氏が滅び幕藩体制を固めようとしていた将軍秀忠と側近たちは、正当な権力者であることを権威づける為に邪魔な存在である黒子の存在を名実ともに抹殺する動きに出たのである。
  • 金田正勝(正藤)は病没となっているが、実は暗殺された可能性が高いのである。
  • 家督を継いだ金田正末は謀略により所領没収となってしまった。

10年以上に及ぶ雌伏の日々を過ごした金田正末は意を決し鷹狩の将軍家光に思いを言上したのであった。黒子の存在を蒸し返されることを恐れた実力者土井利勝は独断で金田正末の処刑を執行させた。

寛政重修諸家譜では旗本金田氏序文として「最初に惣三郎正末の代の時、罪を被り家が絶えたと書かれ、今ある庶流から提出された系譜によれば・・・・」と始まり、初代金田頼次以降の内容へとつながっていく。

序文の内容を吟味すれば、金田正末刑死事件で金田氏本流は終焉を迎え、庶流である正末の弟たちによって新に旗本金田氏諸家が始まったという考え方だと捉えたい。

 
 
 (1)金田正末事件の真相を追究する

◎寛政重修諸家譜での金田正末
  金田正末 初名 正行 惣三郎

正末は将軍秀忠に仕えたが何の証拠もない事を訴えたために将軍秀忠の勘気に触れて(改易された)
正末はその後流浪の身となったが、寛永11年(1634年)4月29日に将軍家光が鷹狩りの時に、正末は将軍に直接下記のように訴えた。
「将軍秀忠様の代に申し開きもできず不公平な扱いで改易となり流浪の身となってしまいました。このように直訴したのは改易になったことについて再度真実を明かすためお調べください。」と将軍秀忠の代の重臣たちの対応を批判した。
しかし直訴した内容は偽りだと判断され、偽りを再度申したとして罪が重いと正末は5月3日処刑された。
 参考 奉公人等が編頗(へんぱ・不公平なこと)な計ひによりて理非明白に言上に及ばず・・・・そのままでは現代語訳が難しかったので工夫して上記のようになった。
 
 
 ◎正末刑死事件の経緯と問題点
 
  • 金田正末は元和元年(1615年)父金田正勝が病没し惣領として家督を継承した。
  • 正末は正勝の長男。 家督相続後から秀忠が将軍に在職していた元和9年(1623年)までに、将軍秀忠の勘気に触れて改易となり金田正末は浪人となった。
  • 秀忠の勘気に触れたとする正末が訴えた内容は不明・当時の役職も不明・当時の知行高も不明。
  • 改易されてから10年以上も流浪し、寛永11年(1634年)4月29日に将軍家光が鷹狩りの時に、正末は将軍に直接下記のように訴えた。
  • 正末の訴えた内容は前回・今回ともに虚偽であったとされ、正末は処刑された。
 
( 問題点)
  • 当時弟の正辰は大阪夏の陣の功で500石の旗本として分家し寛永8年(1631年)200石加増され700石となっていた。正延は駿河大納言忠長の家臣(200石)
  • この事件で本家が断絶したとされるが弟たちの知行高を考えれば、本家が2000石以上あっても不思議ではないが(父正勝が伏見城番という要職を務めていた頃を含め)本家の知行高が不明なのである。
  • 上記でも述べたが 鷹狩が事件現場なら江戸郊外、小伝馬町牢屋に入れられ取り調べが始まるのは事件の翌日4月30日。
    関係者の聴取や過去の資料調査などで虚偽を述べているか調べるのには充分な時間を要する。直訴後4日目の5月3日に処刑というのはあまりにも拙速に過ぎると考えられる。
この事件を寛政重修諸家譜の文章だけでは、事件の本質を見抜くことはできない。
そのために三河金田氏の実像では三河金田氏歴代について研究を行ってきた。そこから事件の本質に迫ることにした。
 

 
 ◎三河金田氏の実像の要点を整理することで事件の本質に迫る(正祐系金田氏に限定)
 【三河金田氏歴代の特記事項を時系列で並べ、金田正末刑死事件までのプロセスを確認する】
 
 第三章① 金田正頼が服部半蔵保長とともに伊勢国に逃避した松平広忠を支えるために伊賀忍者を配下にした。
 
 第三章② 金田正頼が不慮の死を遂げた後、生前の約束に基き服部半蔵保長は娘正頼の次男(金田正祐)に嫁がせる。
服部半蔵保長の系図で娘金田庄之助室と書かれている。この金田庄之助こそ正祐を指すのである。
 
 第三章③ 金田正祐は松平広忠の近臣として信頼を得て、配下の忍者とともに活躍する。しかし、天正15年三河上野の役で先鋒をつとめ中根甚太郎とともに戦死。22歳であった。
徳川家光の代に側衆として仕えた中根正盛は公儀隠密の元締めだったと言われてることから、中根甚太郎の代から中根氏は伊賀忍者と関りを持っていたと考えられる
 
 第四章① 松平広忠は金田正祐の死を悲しみ金田寺を建立。幼くして父を失った金田祐勝は金田寺開山の儀覚利玄から武士としての教養を学び、母や祖父の服部半蔵保長から忍者としての素養も身に着けることができた。
 
 第四章② 駿府の竹千代のもとに出入りしていた金田祐勝は、祖母華陽院の使いに伴って母於大の方のもとに出入りすることができたので、竹千代に直接於大の方の言葉を伝えた可能性が高い。於大の方は過去の経緯から金田正祐の子である金田祐勝に特別の信頼を寄せていた。このこと後々重要なことになる。
 
 第四章③ 今川氏から自立し織田徳川同盟を結んだ徳川家康は、上方の情報収集を目的に金田祐勝を派遣した。金田祐勝は徳川家の家臣から離れ、河内国金田(かなた)村を拠点に商人として堺方面で諜報活動を開始した。配下の忍者は使用人になったり、山伏・物売りなどに変装し諜報活動に専念するのであった。諜報活動の頭に家康の生母於大の方が家康の弟松平康元・松平定勝を率いて活動に専念することで、徳川家康は親族による強力なサポートを受け政治軍事に専念することができたのであった。
金田祐勝にとって於大の方との強い信頼関係が諜報活動や人脈形成に重要な役割を果たした。
 
 第四章④ 諜報活動組織の一員である服部半蔵正成は家康の側近として仕え活動のサポートをする役割をし、茶屋四郎次郎は京都を中心に諜報活動を果たした。金田屋(かなたや) として堺の商人仲間に加わったことで、金田祐勝は千利休など堺の有力者との人脈が次第にできていった。
 
 第四章⑤ 天海は謎の人物とされ前半生が不明なのである。明智光秀は美濃国土岐氏の支族明智氏出身なのに不明なことが多いのである。更に明智光秀の重臣斎藤利三 の娘が春日局であることからも、不明なことが判明したら幕府にとって大変都合の悪いことになるからである。
これは天海が明智光秀自身か血縁者である可能性が高いことによるもので、本能寺の変では家康に正確な情報と味方してくれることを求めたと考えられる。

このことで本能寺の変を察知できた徳川家康は、堺の金田祐勝に危機対応を命じた。伊賀忍者を配下に持つ金田祐勝は護衛兵や安全な退避ルートを準備した。諜報活動組織の一員である服部半蔵正成や茶屋四郎次郎も連携して動いたのは当然のことである。
徳川家康は安全に伊賀越えをして三河国に戻り、明智光秀に味方するため出陣するが明智敗北の報が伝わった。
すぐに甲斐国・信濃国方面へ転じ領地拡大を図った。(天正壬午の乱)
 
 

 
  • 金田庄之助は正祐を指す暗号名である。幕府の圧力により金田諸家の系図が金田正祐を祐勝の兄とする書き換えが起きたことにより、当時の無念な思いからこの暗号名を使うようになったと考えられる。但し金田一族の子孫でも一部の者しか知らない。
  • 伊賀忍者といえば服部半蔵正成が有名だが、通説では忍者ではなく旗本として家康の側近といて仕えた武将となっている。上記系図の知賀地保元・中根正重なども含め服部保長と年代が開いており、系図上は子や孫までもが服部保長の子として記された可能性が高く、服部半蔵正成も保長の孫だったのではないか。
  • 確かなことは服部半蔵正成と金田祐勝は同年代で、子ども時代から祖父服部半蔵保長に兄弟のように育てられ、二人は子供であることを理由に駿府の竹千代のもとに出入することができた。気心が知れていたことから、家康は二人に一番難しい任務を任せるようになった。
  • 本能寺の変を察知した徳川家康が、側近の服部半蔵正成を堺の金田祐勝(金田屋という商人に扮している)と協力させ伊賀忍者による護衛兵や安全な退避ルートを準備させた。 
 金田祐勝や伊賀忍者たちは黒子として徳川家康の天下取りに貢献したのだが、豊臣氏が滅び幕藩体制確立の為には黒子の存在が邪魔になってしまった。幕府は黒子はいなかったものとして歴史観が形成された。

徳川家康は堺を旅行中に初めて本能寺の変を知り、服部半蔵が金で雇った伊賀者などに守られて危険を乗り越え三河国に帰還したと伝わっている。神君伊賀越えの話には、事前に察知し堺で伊賀忍者の護衛兵を準備してい金田祐勝は邪魔な存在なので、歴史上抹殺された。
堺市史によれば堺の金田屋(かなたや)は糸割符制度で指定された商人として江戸時代を生き残るのだが、豊臣氏の遺臣として公的に認められた立場にあった。加藤清正・福島正則・片桐且元の子孫など豊臣氏の遺臣を名乗る立場の人はたくさんいるはずだが、徳川幕府に遠慮して名乗ることもできないのに徳川氏の忠臣の子孫が豊臣氏の遺臣にさせられたのは皮肉なことである。
幕府が黒子はいなかったという方針は、こんなところにまで及んでいるのであった。
 
 徳川家康が堺から退避するのに貢献した金田屋(金田祐勝)や配下の伊賀忍者たちの働きが歴史的に抹殺されただけでなく、服部氏も金田氏も二代将軍秀忠とその側近たちの謀略により改易となってしまうのである。このことは次項で詳しく述べたい。

 
 第四章⑥ 豊臣秀吉の五大老となって徳川家康が大坂・伏見に屋敷を構えると、金田祐勝の諜報活動も次第に変化していったと考えられるが、すべて機密事項なので推測すら困難である。
関ヶ原の戦いでは本願寺前門主だった教如上人を味方にするため行動をともにしました。西軍に見つかれば命の危険があり、教如上人に従う門徒が徳川のために行動をしたかを見定める役目もあったからです。
関ヶ原の戦いが終わると教如上人が東本願寺を創立したことを考えれば、教如上人が徳川のために行動したことは明白で、金田祐勝は浄土宗から浄土真宗大谷派に宗旨替えをしたのはこの頃と思われます。。
 
 第四章⑦ 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は再建した伏見城に母伝通院を迎えます。70代の伝通院が江戸から伏見に居を移すということは重大な使命を果たす目的があったからです。
加藤清正・福島正則・黒田長政など豊臣恩顧の大名たちが徳川家康に味方したのは、北政所の存在があったからこそなのであります。伝通院は徳川家と豊臣家の強い信頼関係を築くことが上京の目的で、北政所から慕われる存在になったのです。
金田祐勝は家康から伏見城に呼ばれ、商人から武士に戻り伝通院に直接仕えるように命じられました。伝通院にとっても子供時代から長きに渡って仕え、堺で諜報活動をしてきた金田祐勝が直属となることは心強かったはずです。
慶長7年(1602年)8月伝通院が伏見城で75歳で亡くなりますが、同年11月金田祐勝が63歳で亡くなります。
単なる偶然では無く殉死というものに該当するのですが、今まで諜報活動を支えてくれたのは伝通院からの強い信頼があったからこそと金田祐勝は考えた結果の結論だったはずです。遺書には「あの世に行っても伝通院様にお仕えいたします」と書かれていたはずです。
 
 第四章⑧ 金田祐勝が伏見城で伝通院に仕えた時に、嫡子金田正勝(正藤)は徳川家の旗本として知行を得たと考えられます。
大坂の陣では伏見城にて城番という要職だったことを勘案すれば5000石前後だったと考えられます。
更に金田一族の末裔の過去帳に金田備前守正治と書かれているのが正勝のことと推測されるので、備前守という官位を得ていたとしても不思議ではないのです。
服部半蔵正成が慶長元年(1596年)に没し、嫡子正就が石見守及び所領8000石を継承したことが影響したと考えられる。
長年にわたり堺に潜伏して諜報活動に専念してきた金田祐勝・正勝親子の功に報いる為にもそれなりの処遇を与えることを徳川家康は決断した結果なのであります。
 
 ◎服部正就改易と金田正末改易の共通点
 
 服部正就改易  金田正末改易
 慶長10年(1605年)12月※1   元和2年(1616年)~元和9年(1623年)※2
 原因 秀忠の勘気に触れる   原因 秀忠の勘気に触れる
 背景 慶長10年(1605年)徳川家康将軍職を秀忠に譲る。   背景 元和2年(1616年)徳川家康没
   
  • 服部正就と金田正末改易の理由はいずれも将軍秀忠お勘気に触れたとされるが、実際は家康から秀忠に権力が移る際の直接的犠牲者だったと考えられる。
  • 徳川秀忠が将軍就任後、酒井忠世・土井利勝・安藤重信などが宿老となり、統治機構として幕府組織を整備していったことが服部正就改易の起因となったのである。
  •  服部正就は8000石の旗本として伊賀衆・甲賀衆を率いていたが、幕府組織を仕上るには邪魔な存在として宿老たちの謀略により改易とされたのである。正就は松平定勝に預けられ蟄居となり、伊賀衆・甲賀衆は若年寄 配下として幕府組織に組み込まれたのであった。
  • 同じような事件として慶長11年(1606年)1月関東総奉行※3青山忠成と内藤清成が免職・蟄居を命じられ、関東総奉行は解体されその職務は老中配下に設置された江戸町奉行など各奉行に引き継がれた。
  • 徳川家康の天下取りに親の代から貢献した服部正就・金田正勝(正藤)は1615年大坂の陣で豊臣氏が滅ぶ出来事に前後して不自然な死に方をするのである。※4
  • 改易となった服部正就は復帰することなく無念の最後を遂げる。金田正勝(正藤)から家督を継承した金田正末は後ろ盾になったはずの徳川家康が1616年に亡くなることで、徳川秀忠の宿老たちの謀略により改易とされてしまったのでる。
  • 服部正就の改易と金田正末の改易は時期は違っても、「徳川家康という後ろ盾を失った時期」 に徳川秀忠の宿老たちの謀略により改易となったことと幕府体制を固めるために邪魔な存在であったのが原因であることが共通しているのである。

 
 ※1 慶長9年説もあるが将軍秀忠いよる改易となると上記となる。
 ※2 改易となった時期は不明だが上記7年間が該当する時期となる。正末家督継承後まもなく改易となった印象が強く、元和3年までには改易となったと判断される。
 ※3 家康の関東移封後に設置された役職で、関東領国内の在地支配など諸務全般を統括し江戸市中の支配も担当した。
 ※4 1615年は慶長20年が元和元年に改元された年なので西暦のみで表示する。
 服部正就と金田正勝(正藤)は下記のように豊臣氏滅亡にともない相次いで亡くなったことから、幕府から送られた刺客によるものとの疑いが残る。
 
 服部正就の死  5月7日天王口の戦いで行方不明となる。家臣ともども遺体が見つからず。
大坂城落城   5月8日豊臣秀頼切腹により豊臣氏滅ぶ。
 金田正勝(正藤)の死  12月14日病死。
 

 
 ◎金田正末刑死事件までの経緯

 金田正末が改易になった時期は不明だが、徳川家康が亡くなった元和2年(1616年)頃と考えられる。
服部正就は1605年改易後、義父である松平定勝のもとで蟄居となっているが、復帰を目指して保護されていたと考えられる。
1615年服部正就が不慮の死を遂げると、嫡男服部正辰は幼少であったため松平定勝の孫として大事に育てられ、藩主の親族として扱われるのである。
それに対して金田正末は寛永11年(1634年)に刑死するまで最大18年にも及ぶ浪人生活を送っていたのである。
改易後の違いについて徳川家康の異父弟松平康元・定勝についても関連付けて説明する必要がある。
 
 松平康元 松平定勝 
 (父)久松俊勝・(母)於大の方  (父)久松俊勝・(母)於大の方
 1552年―1603年  1560年―1624年
 1615年関宿藩主4万石を嫡子忠良が継承していた  1615年伏見城城代として5万石(子の定行などは大名として自立しており優遇されていた)
 1616年大坂の陣の功績で大垣藩5万石に加増  1617年大坂の陣の功績で桑名藩11万石に加増
 特記事項
  • 於大の方の意向で家老として金田宗房が家老となる
  • 金田宗房三方ヶ原の戦いで主君の身代わりとして戦死
  • 宗房の遺児金田良房、松平康元に育てられる。
  • 金田良房家老となり藩主松平忠良に仕える。1500石
  • 1624年松平忠憲幼少で家督を継いだので小諸藩に国替え
  • 1647年松平忠憲病死で無嗣改易
 特記事項
  • 服部正就は松平定勝の娘婿
  • 松平定勝の次男である掛川藩主松平定行によって服部正辰は大切に育てられる
  • 松平定勝の子孫はその後大きく飛躍し服部氏も各藩の重役になる
  • 定行系松平氏(松山藩15万石)定綱系松平氏(桑名藩11万石)定房系松平氏(今治藩4万石)

 徳川家康の生母於大の方の意向に沿って松平康元は金田氏が補佐し、松平定勝は服部氏が補佐する暗黙の了解事項が出来ていたらしい。
ところが金田正祐の系譜を引く正祐系金田氏は於大の方にとって特別な存在で、徳川家康が金田正勝(正藤)を伏見城城番に任じたのもそれを配慮したことによるもの。つまり松平康元に仕えた宗房系金田氏と別枠で正祐系金田氏を徳川家康は扱っていたのです。

しかし徳川秀忠の代になると、宿老たちは金田正末を改易にすることで正末系金田氏を歴史の闇に消し去ったのであります。
  • 徳川氏に仕えた金田氏の本流は松平康元に仕えた宗房系金田氏である。 正末系金田氏はあくまで支流であって存在感が薄いものにされた。
  • 秀忠と宿老たちは家康時代の歴史を歪曲した。その結果金田祐勝・正勝(正藤)の代に諜報活動を通じて家康の天下取りに貢献したことは隠蔽されてしまった。
  • 正末を改易にした他に堺の金田屋は純粋の商人として存続を許した。当主の金田常安はおそらく金田祐勝の次男だったはずだが、三方ヶ原の戦いで戦死した金田宗房の遺児とする経歴になった。これにより正祐系金田氏と堺の繋がりは断たれた。
 
 
     
     
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