三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第三章 金田正房と金田正祐その1  ❶    


第一章 第二章
 
 金田正房・正祐兄弟が近臣として仕えた松平広忠は、尾張の虎と呼ばれた織田信秀に対抗するために、駿河・遠江の太守今川義元の支援を必要としていた。二人は伊勢国へ逃避した広忠のお世話や警備などをしてきたこともあって、岡崎城帰還後は最も忠実な家来として広忠から信頼されたのであった。
しかし、1546年金田正祐は三河国上野合戦で戦死。22歳。1547年竹千代を駿河国今川氏に送る責任者だった金田正房は、奪われた竹千代奪回のため熱田に潜伏中に織田方に捕らえられ処刑された。年齢不詳だがおそらく25歳前後と思われる。
二人があまりにも若くして忠死を遂げたのは残念でならない。
二人を語るには二人の父親金田正頼について語る必要がある。岡崎城帰還のために服部半蔵保長と手を組み、伊賀忍者たちを手勢に加えることに成功したのであった。

 
金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
       └  金田正祐  ―  金田祐勝  ―  金田正勝(正藤)  

 (1)松平広忠の岡崎城脱出(作戦を支えた服部半蔵保長)

 
 松平信定が岡崎城を乗っ取り実権を把握すると、阿部大蔵定吉は主君仙千代を暗殺などの危機から救う行動に出た。岡崎城を脱出し安全な場所に仙千代を逃避させることにしたのである。
松平家の家臣の大半は松平信定に従い、阿部大蔵定吉と行動をともにしたのは亡き松平清康が主君だった時に仕官した新参者だけだった。
仙千代一行は僅かな人数であったことを考えると、岡崎城外で松平信定が討手を差し向けられる危険性が高かったはずである。

この逃避作戦を成功するには秘密裏に行われ、相手方にその後の行動が感知されないようにしなければならないのである。
松平信定に悟られないように仙千代が逃走し、仙千代一行を探させても行方不明という状態を達成する必要があった。。
そのことを考えると服部半蔵保長が逃避作戦を立案し、配下の忍者たちにサポートさせたと考えるのが妥当であろう。
金田正頼は広忠の岡崎城脱出計画の実行部隊の一員に加わった考えられ、金田正頼は子供の正房・正祐兄弟を連れて広忠一行に随行したことにより、岡崎城に帰還した松平広忠の近臣に二人はなれたのである。

 
  (2)松平広忠の伊勢国逃避に貢献した金田正頼

 
 仙千代が東条城で元服して広忠と称したのか、伊勢国で元服したのかは不明。
しかし、吉良持広より偏諱を賜い松平広忠と称したことからも、一時的には東条城に匿われたと考えるのが妥当と思う。
伊勢国逃避は東条城主吉良持広が仙千代一行の安全を確保することと、岡崎城の松平信定と対立することを避けるために、「このまま東条城で匿うより、伊勢国神戸にある吉良持広の所領に仙千代一行を退避させた方が賢明」という判断により行われたものであろう。

◎伊勢に逃避する広忠一行の中に金田正頼がいたことにより、果たした役割を下記のように推測することができる。
  • 脱出計画の段階で三河国一色村に住んでいた時から東條城主吉良氏と親交のあった金田正頼は密かに岡崎城を離れ、仙千代が岡崎城を脱出する為の援助を東條城主吉良持広に引き受けてもらう手はずなどを整えた。
  • 阿部大蔵定吉によって仙千代の岡崎城脱出が行われたことは、岡崎城の実権を把握している松平信定にとって邪魔者がいなくなった程度のことであった。
  • 清康恩顧の家来たちで松平信定に抵抗して岡崎城を去った家来たちの中には、密かに阿部大蔵定吉と連絡をとり東条城にて合流した者もいたと考えられる。 金田正頼は東条城の城下で合流してきた方々のお世話をすることがあったかもしれない。
  • 金田正頼は子の正房・正祐兄弟が仙千代と年齢が近いことから、逃避中の仙千代の小姓としてお世話をさせお毒味など身の安全に力を注がせた。このことが後に広忠と正房・正祐兄弟の絆は深まったと考えられる。


 (3)伊賀国に向かった金田正頼と服部半蔵保長
 
 天文4年(1535年)12月守山崩れで松平清康が暗殺され、清康の叔父松平信定が岡崎城を乗っ取り実権を把握したために、松平清康の遺児仙千代は天文5年(1536年)1月岡崎城を脱出。東条城で元服し吉良持広より偏諱を賜い松平広忠と称した。
その後松平広忠と家臣たちは伊勢国神戸にある吉良持広の所領に逃避したのであった。伊勢国神戸で再起を誓って雌伏の日々を過ごしたのだが、翌年になると駿河国に向かい今川義元に援助を乞うことになるのであった。

逃避したばかりの松平広忠一行にとって吉良持広の援助が唯一の頼りであり、経済的制約・地理的制約などから岡崎城帰還を目指す具体的な行動を起こすことはできなかった。
そこで金田正頼は服部半蔵保長とともに伊賀国へ向かった。服部半蔵保長の親類・縁者の中で有能な忍者を登用するためである。
三河国で松平広忠を慕う旧家臣たちとの連絡や敵側の偵察などに広忠一行は忍者を必要としていた。
下記地図でも分かるが伊勢国神戸と伊賀国は近い場所にあり、伊賀国出身の服部半蔵保長は頼もしい存在であった。

 
 

  (4)伊賀国は鎌倉時代・南北朝時代に千葉宗家が守護となっていた

 
金田氏は桓武平氏千葉氏の支流である。金田正頼の伯父に当たる上総国勝見城主金田左衛門大夫正信は千葉宗家の現当主である千葉介昌胤の舅であった。
古河公方と小弓公方の争いに巻き込まれ金田正信は殺され勝見城を失い、金田正興・正頼親子は三河国に追放されたが千葉氏への思いは強いのであった。もしも下総国本佐倉城主千葉介昌胤のもとへ戻ればそれなりの処遇を受けることができる立場だったからである。
しかし伊勢国逃避中の松平広忠に仕えていた金田正頼は、身の不運を嘆くより主君松平広忠の岡崎城帰還への思いで必死だったのである。

金田正頼にとって伊賀国は初めて訪れる場所であったが、そこは先祖につながる因縁の深い場所であったのである。まず千葉氏と伊賀国との因縁について述べたい。
  • 鎌倉幕府は千葉宗家(千葉常胤の子孫)に対し下総国守護と伊賀国守護に任じた。
  • 鎌倉幕府滅亡の時には、千葉介貞胤は官軍に味方し鎌倉を攻めた。その功で下総国・伊賀国守護に引き続き任じられた。
  • 後醍醐天皇が隠岐島へ流されたときに警備のため同行した千葉介貞胤は、後醍醐天皇に対する忠誠心を強く持つようになり、後醍醐天皇から厚い信任を得ることが出来た。建武の新政後は京都に在住し天皇の警備などの要職に就いていた。
  • 関東を拠点とする足利尊氏が後醍醐天皇と対立関係になると下総国は足利尊氏の配下になったので、京都にいる千葉介貞胤は伊賀国守護として伊賀国を拠点とした。千葉介貞胤は伊賀国から兵員物資などを調達することにより後醍醐天皇側として戦うことができた。
  • 湊川の戦いで足利尊氏が勝利すると新田義貞とともに千葉介貞胤は越前国に逃げたが、吹雪で遭難し足利方の斯波高経に救われた。京都に戻った千葉介貞胤は足利尊氏に降伏した。千葉介貞胤にとって後醍醐天皇には見捨てられた思いと、足利尊氏・斯波高経には命の恩人としての思いを持つようになるのである。
  • 以後千葉介貞胤は足利尊氏の配下になるが、下総国には帰らず京都に住み続ける。伊賀国守護は失うが、伊賀国との何らかの繋がりは残ったと考えられる。
  • 伊勢国を南朝方の北畠氏が支配したことも影響し、伊賀国においては室町幕府が任じた守護大名は強い支配権を確立できなかった。
  • 観応の擾乱では千葉介貞胤の子である千葉介氏胤が足利直義に味方し、伊賀国守護に任じられたこともあった。
  • 伊賀国は周囲を山に囲まれ京都奈良伊勢に通じる交通上の要地で、土豪や地侍が小規模な勢力として乱立し争いが続いていた。
伊賀国では守護大名は弱かったので、各地の小規模な勢力同士の争いが情報収集やゲリラ戦を得意とする忍者を育てたといえる。
金田正頼が服部半蔵保長とともに伊賀国に行った目的は、有能な忍者を登用するためであった。
しかし、伊賀国では期待以上の成果を上げることが出来た。
  • 小規模な勢力として乱立している勢力の中に、かって比叡山に籠もった後醍醐天皇を守るために足利尊氏の軍と戦った千葉介貞胤の配下にいた地侍の子孫がいた。
  • 官軍として戦った誇りと桓武平氏の名門千葉氏に仕えたという誇りは200年経っても受け継がれていた。松平氏が南北朝の動乱で敗走して三河国に逃れた新田氏の末裔と称していることと同様である。
  • 京都にいた千葉介貞胤は一族や家臣の中から円城寺貞政を抜擢して重臣としていた。円城寺貞政は千葉介貞胤の代理として伊賀国に直接出向く事も多かったと考えられ、後に貞胤没後幼君である千葉介氏胤を補佐し軍代として千葉宗家を支えた。
  • 当時金田氏は蕪木氏と称しており、蕪木常時の弟が円城寺氏の養子となり円城寺貞政と称したのであった。南北朝の動乱を千葉宗家を率いて活躍した円城寺貞政に甥である蕪木常頼も従ったので、伊賀国と何らかの繋がりはあったと考えられる
  • 南北朝の動乱で千葉介貞胤の配下だった地侍の子孫が、蕪木常頼の子孫で現在の千葉宗家当主千葉介昌胤の外戚に当たる金田正頼に対して特別も思いがあったのである。
  金田正頼はかって千葉氏が守護をしていた伊賀国で、土豪や地侍の中に千葉氏と縁のあったの小規模な勢力を見つけ出すことができたのである。この結びつきは伊勢国神戸にいる松平広忠一行にとっても支援の輪が広がることを意味する。
伊賀国から支援のために駆けつけた忍者たちは、金田正頼と服部半蔵保長が頭になって各地に派遣され味方との交信・情報収集活動を本格化していくことになる。

 
 (5)伊賀忍者との結びつきは大坂の陣まで続く

 
 金田正頼と服部半蔵保長が頭となって活動を開始した伊賀忍者たちは、当主松平広忠直属の組織の一員となり三河国にいる味方との連絡、敵方の情報収集などに従事したと考えられる。
金田正頼や服部半蔵保長が近臣として仕えることで、忍者たちに活動の指示をしたり忍者から報告を受けた情報を当主松平広忠・重臣阿部大蔵定吉に伝えるなど重要な仕事をしていたのであった。
「三河金田氏の実像」では金田正頼の子孫が伊賀忍者との関わりを持って生きていく姿を検証していくことで、隠蔽されてしまっった歴史の真実を追い求めることにする。

徳川家康の代に黒子として諜報活動を通じて貢献した金田・服部両家は、ともに秀忠の代に改易となってしまうのであった。
その後金田氏は館林藩家老、服部氏は桑名藩家老として復活するが、両家とも黒子として活動した出来事は完全に封印されてしまったのである。



 
     
 
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