三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第二章 守山崩れと松平広忠その1 

❶   

第一章 第三章 第四章
 
 上総国勝見城主金田信吉の次男として生まれた金田弥三郎正興は永正14年(1517年)に、三河国へ追放され三河国幡豆郡一色村に居を構えることになった。金田正興・正頼親子は大永年中(1521年~1527年)に松平清康に仕えることになる。
天文4年(1,535年)守山崩れで主君清康が織田信秀の謀略により殺害され、織田信秀と婚姻関係で結ばれた松平信定(清康の叔父)が岡崎城を乗っ取り支配権を確立した。危機的状況にあった清康の遺児仙千代(10歳)は僅かな家臣とともに伊勢国神戸に逃避した。

三河金田氏の家史研究をした結果、伊勢国神戸に逃避した広忠一行に金田正頼が加わったことが重要な意義を持つ出来事だったことが判明しました。
1615年大坂の陣で徳川氏の天下が確定すると、まもなく徳川秀忠によって金田正末が改易され浪人となり、1634年の金田正末刑死事件が発生する。
金田正辰の代になり館林藩主徳川綱吉の城代家老に任じられ金田氏は復活することができた。しかし幕府の圧力で金田家譜は書き換えられてしまい正頼・正祐・祐勝・正勝(正藤と改名)の四代に渡る多くの出来事は隠蔽されてしまったのです。

序章で金田氏と伊賀忍者の繋がりを述べたが、三河金田氏が守山崩れ(1535年)から大坂夏の陣(1615年)まで徳川氏の黒子として伊賀忍者とともに貢献してきたのに、天下が確定すると黒子はいなかったものとされ歴史上抹殺されたのであります。
金田氏と伊賀忍者の繋がりはいつ出来たのかを考えると、
「松平清康という主君を失い岡崎城下では新参者として同じ境遇だった金田正頼と服部半蔵保長が逃避する仙千代一行に加わり伊勢国神戸で過ごした雌伏の時」という結論に達しました。

仙千代は元服し松平広忠と称し、今川義元の支援を得て岡崎城を奪い返す。この頃に金田正頼は息子金田正祐の嫁に服部半蔵保長の娘を迎えることを保長と約束し亡くなる。
遠い下総国の大名桓武平氏の名門千葉氏の支流であっても、岡崎城下に親族のいない金田正房・正祐兄弟にとって服部半蔵保長とその一族は頼もしい親族になるのであった。

金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
       └  金田正祐  ―  金田祐勝  ―  金田正勝(正藤)  

(1)松平清康による三河国統一
大永3年(1523年)安祥城主松平信忠は隠居し、嫡子松平清康が13歳で家督を継承した。東条城主吉良持清から偏諱を受けたものであった。清康の妹が吉良持清の嫡子持広に嫁いでいることで両家は縁戚関係になっている。
吉良氏は足利氏一族の中では斯波氏とともに公方家に次ぐ家格の高い家柄なのである。
南北朝の動乱で足利尊氏と新田義貞が敵対したことから新田氏は足利氏の敵対勢力と思われがちだが、足利氏にとって新田氏は広い意味で足利氏の一族に含まれるのである。新田氏に属する岩松氏・山名氏が足利氏の天下になっても勢力を得ることができたのも決して不思議なことではないのである。
足利氏の名門吉良持清が松平清康を新田氏の流れをくむと認め、世良田姓を称することを許し偏諱を与えたことにより松平氏は清和源氏として公認されたといっても過言ではないのである。
家柄だけで言うならば上総氏・千葉氏の流れをくむ金田正興・正頼親子が清康に仕えたことで、松平清康は源頼朝の挙兵時(源頼朝に上総広常・千葉常胤・三浦義澄が仕えた状態)と同じ立場になったと言えるのである。
因みに、金田氏の祖金田頼次は上総広常の弟、三浦義澄は義兄、千葉常胤は頼次の最期を看取った親族なのである。
千葉常胤は頼次の嫡子金田康常に上総国勝見城を築城させ優遇した。その後蕪木氏と称した時期もあったが、金田正興の兄金田正信が勝見城主だった頃は最後の輝いた時期であった。金田正信は娘を本佐倉城主千葉介昌胤(千葉宗家当主)に嫁がせ、後の千葉介利胤及び千葉介胤富の母となったので、金田正信は千葉宗家の外戚になることができた。

源頼朝が挙兵したのは30代であったが、松平清康は岡崎城に居城を移し19歳で三河国統一を実力で成し遂げた。もしかしたら、松平清康には天下を目指す野望があったのかもしれない。しかし、隣国の尾張国には織田信秀という傑物が恐ろしい罠を仕掛けて待ち受けていたのであった。

享禄4年(1531年)清康の父松平信忠が享年42歳で没しており、松平信忠の没後まもなく金田正興も没したと考えられる。
 
  (2)当時の三河国周辺の周辺諸国の状況

 天文4年(1535年)守山崩れで松平清康が没するまでの三河国の周辺諸国がどのような状況だったか検証する。


 駿河国今川氏  大永5年(1525年)駿河守護今川氏親が没し嫡子今川氏輝が14歳で家督を継承した。当初は母である寿桂尼の補佐しその後も影響力をに残した。今川氏は小田原北条氏と駿相同盟を結んでおり、甲斐守護武田信虎とは対立していた。今川氏輝は病弱なため 天文5年(1536年)に24歳で没した。今川氏は後継者問題で花倉の乱が起き三河国に進出する状況ではなかった。
今川氏は武田氏との対立関係や花倉の乱などで三河国に進出する余裕はなかったと言える。
 甲斐国武田氏  大永年中(1521年~1528年)甲斐守護武田信虎は関東で扇谷上杉氏・山内上杉氏を支援し小田原北条氏と対立していた。駿相同盟を結ぶ今川氏輝とは対立関係になり天文4年(1535年)今川・北条同盟軍に山中の戦いで敗北する。翌年の花倉の乱では後に今川義元となる栴岳承芳を支援し、北条・武田の支援を受けた今川義元が勝利すると、天文6年(1537年)甲駿同盟が成立する。
 尾張国織田氏  大永年中(1521年~1528年)勝幡城主織田信秀は津島神社の門前町を支配下にし経済力を得る。
享禄3年(1530年)松平清康は岩崎城(愛知県日進市)・品野城(愛知県瀬戸市)を攻略する。
享禄5年(1532年)織田信秀は那古野城(名古屋市中区)を今川氏豊から奪う。

尾張国は岩倉織田氏と清洲織田氏が守護代として健在であり、織田信秀は清洲織田氏の三奉行の一人でしかなかった。織田信長が両守護代家を滅ぼし、その後完全に尾張国統一成し遂げたのは永禄8年(1565年)のことである。守山崩れから信長の尾張統一まで30年の歳月を要するのである。
 美濃国土岐氏 大永5年(1525年)土岐頼芸が兄土岐頼武を越前に追放し美濃守護土岐氏の実権を握る。
天文5年(1536年)土岐頼芸正式に美濃守護に補任される。
斎藤道三は土岐頼芸の信任を得ていたものと思われるが、西村→長井→斎藤と名前を変えているのでこの時期の詳細は省略する。斎藤道三が土岐頼芸を追放して美濃国を支配するのは天文11年(1542年)のことで、三河物語に書かれている美濃三人衆が活躍するのは織田信長が美濃攻略後のことで時代的に合わない。

以上のことを勘案すると、松平清康が三河国の統一ができたのは駿河守護今川氏が甲斐守護武田氏と対立のために三河国に進出する余裕がなかったことが大きい。
今川氏と対立する武田信虎は松平清康を味方にして、遠江国へ進出を願っただろうが清康は応じることはなかった。
尾張国では守護斯波氏、守護代岩倉織田氏、守護代清州織田氏ともに衰退が始まり、清州三奉行の一人織田信秀が勢力を拡大しつつあったが、尾張国には信秀に敵対するものや従わないものも多かったのである。
美濃国では土岐頼芸に対して、甥の土岐頼純が朝倉氏・六角氏を味方にして全土に戦火が広がっていた。

松平清康は争いが続いている尾張国に進出することで勢力の拡大を目指したと考えられる。もしも松平清康が50歳まで生きていたら日本の歴史は変わっていたのかもしれない。
 


(3)守山崩れ

 天文4年(1535年)尾張国守山城を攻めていた松平清康は家臣阿部弥七郎に殺害される。これを守山崩れ(三河物語では森山崩れ)と呼ばれている。享年25歳であった。
 
後の天下人徳川家康の祖父松平清康が三河国を統一し尾張国に攻め込み、戦国の覇者織田信長の父織田信秀と戦うために守山に布陣をしたときに起こった事件である。
殺人事件として推理すれば、松平清康が殺害されて一番得をした織田信秀について徹底的な捜査が行われるべきなのである。しかし徳川幕府が成立後も真犯人の解明はされることは無く、当時10代前半の少年だった阿部弥七郎による事実誤認による殺人事件として決着して今日に至っているのであった。
守山崩れには織田信長と徳川家康の同盟関係を巡る深い謎が隠されているというのが直感である。この深い謎の解明こそ三河金田氏の研究では避けて通ることはできない関門なのである。

 ◎事件の全容
 寛政重修諸家譜の「阿部定吉」「阿部弥七郎」において守山崩れは下記のように記述されている。
「天文4年松平清康が織田信秀を攻めるために守山へ出陣した時に、桜井松平氏の当主松平信定が織田信秀に通じて三河上野城で兵を起こした。
阿部大蔵はしばしば使いを送って松平信定を諌めたが、守山の陣中では『阿部大蔵が松平信定と内通している』との流言がひろまった。阿部大蔵は嫡男弥七郎を呼びよせ『父が謀反の疑いで暗殺されたら、時をみはからって父の無実を訴えてくれ。』と伝えた。」

父の意を理解しなかった阿部弥七郎は誤って主君松平清康を殺害したために植村新六郎に討たれた。
   解説
  • 三河物語では「美濃攻めのために松平清康は1万余の兵力で出陣し、守山城主織田信光が美濃攻めの案内をするとのことで守山に陣を構えた」と書かれているが、寛政重修諸家譜で織田信秀を攻めるために守山に出陣をしたと明記されたことで美濃攻めは否定された
  • 織田信秀の弟織田信光が城主の守山城と対陣している時に松平清康暗殺事件が起きたと考えられる。
  • 松平清康の叔父松平信定が織田信秀に内通し松平清康に対し謀反を起した。その理由は織田信光が松平信定の娘婿という縁戚関係にあることと清康と信定の関係悪化が原因とされている。三河物語では宇利城(愛知県新城市)攻めの際に、「松平信定が松平親盛(清康の叔父)を見殺しにしたので討ち死した」と松平清康が信定を叱責したと書かれている。
  • 織田信秀の謀略は松平清康の軍を窮地に追い込んだだけでなく、松平清康が殺害される事態となった。(実際は織田信秀の放った刺客が暗殺したと考えるのが妥当なのだが)
  • 寛政重修諸家譜の阿部大蔵が謀反を起した松平信定に対し使いを送って諫めた」という記述は寛政重修諸家譜の編者によって新たに加筆されたものである。寛政重修諸家譜の阿部氏について書かれている記述では、父阿部定時の代に松平信忠に仕えたとだけしか書かれていないのである。これを信じれば新参者の息子である阿部定国(31歳)が松平清康の叔父信定(40歳前後)に対し単独で使いを送って諫めることができる立場ではなかったと推測できるからである。
  • もし松平信定に対し使いを送って諫めることができる人物がいたとしたら、当時隠居していた清康の祖父松平長親(63歳) 以外に考えられない。孫の清康から叔父信定との和解を斡旋してくれるように頼まれたら、松平長親は動いたかもしれない。しかし織田信秀の謀略はそのような行動をとれるような時間を与えてくれなかったのである。
  • 三河国額田郡小針村(現在の愛知県岡崎市小針町)に阿部氏の館があったとされています。父阿部定時の代から松平氏に仕えたとされており、松平清康が岡崎城を攻略後に阿部氏は小針村に館を構えることが出来たと考えられる。そのことから阿部大蔵定国は松平清康の近臣として仕えていたと考えるのが妥当で謀反を起す考えも実力も無かったのであります。
    松平清康に引き立てられて出世した阿部大蔵定吉は清康から謀反を疑われるような立場になく、寛政重修諸家譜の編者は上記の「諫めるために使いを松平信定に送ったことが謀反を疑われた原因」という記述を無理に創作したと考えのが妥当なのである。。
  • 当時三河国では十八松平と呼ばれる松平氏から分家した松平諸家及び本多氏・酒井氏・牧野氏・石川氏など後の譜代大名になる領主たちが多く存在し、清康の陣営に馳せ参じた領主の中に松平信定と内通している者がいないか清康は警戒していたはずなのである。
  • 松平清康が1万余の兵を率いて守山に着陣したのであれば、三河国に残った兵力は手薄になっているはずである。そのまま守山に居座った場合、三河国で謀反を起した松平信定に新たに呼応した勢力が加われば、清康の軍に加わっている味方が更に動揺するのは必至である。ここは速やかに三河国へ撤退するのが上策なのである。
  • そんな緊急事態で阿部大蔵定吉が10代前半の息子弥七郎に「自分の身に何かあったら父の無実を訴えてくれ」などと話していることは不自然なのである。以上のことを勘案した結果「織田信秀が送った刺客によって松平清康は暗殺された」という結論に達した。
 

寛政重修諸家譜の編者は阿部氏の家譜や三河物語など多くの資料を吟味し整合性を持たせるよう努力したと考えられるが、織田信秀の謀略により松平清康暗殺事件が起きたのを隠蔽するために阿部弥七郎を犯人に仕立てられたことに気づき対応に苦慮したらしい。
そのために阿部大蔵定吉が謀反を起した松平信定と親しい関係だったという話を創作したと考えられる。
寛政重修諸家譜の編者は可能な限り正確性を期する
為に多くの資料を検証しており、歴史的事実をかなり把握しているのである。しかし、江戸幕府の支配権を確立するまでに加筆されたり書き換えられ歴史資料に対して、どのように対応したら良いか苦慮したものと想像される。
  寛政重修諸家譜に記されている資料から守山崩れを検証した結果、松平清康は織田信秀の放った刺客によって暗殺されたという結論に達した。しかし、大久保彦左衛門著の¥「三河物語」では阿部大蔵定吉の嫡男阿部弥七郎による誤認殺人と書かれており、今日ではそれが通説となってしまった。
大久保彦左衛門は桶狭間の戦いのあった永禄3年(1560年)の生まれで寛永12年1635年から「三河物語」の執筆に入ったとされている。
当然100年前の出来事(守山崩れ)を正確に把握できる立場になく、あくまで大久保彦左衛門が伝聞した口述や残された資料に基づき執筆したものである。100年の間に三河物語に書かれている創作された話が徳川家で伝えられ、事実と違う歴史が伝えられる事になってしまったと想像される。次項では「三河物語」で書かれている森山崩れについて検証することで問題の本質に迫りたい。
 

 (4)三河物語に書かれている森山崩れを検証
 ◎松平信定の謀反に対する松平清康の対応
 
  • 三河上野城(豊田市)において松平信定は織田信秀と同盟するために清康を裏切った。松平信定は宇利城(愛知県新城市)攻めの際に、「松平信定が松平親盛を見殺しにより討ち死させた」と清康から叱られたことを根に持っていた。清康が尾張国に出陣して留守の間に岡崎城を奪う野心を持っていたので仮病を使って清康の尾張攻めに同行していなかった。
  • 知らせを受けた松平清康は叔父松平信定の裏切りに、松平信定を見くびっていた松平清康は深刻には受け止めていなかったような印章。
  • 周囲の者たちが心配して「守山城主織田信光は松平信定の娘婿であり兄織田信秀と連携して攻めてくるでしょうから安全な場所に撤退しましょう。」と清康に申し上げると、松平清康は「何も心配する必要はない」と言ってあくまで強気な態度を崩さなかった。※
  • 松平清康の強気な言葉からは撤退という印章は無い。周囲の者たちの対応から撤退の準備に入っている印章を感じられる。
※松平清康は森山において織田信秀・信光兄弟と軍事的に緊張関係にあり、留守にしている三河国では謀反を起した松平信定が大給の松平親乗・小河の水野信元と連携して岡崎城を攻める準備をしていることから、とても強気な態度をとれる状態では無かった。
「織田信秀が攻めてきたら合戦して打ち破れ」「松平信定は何もしなくとも滅びるだろう」などと三河物語に書かれている清康の言動は、三河国を若くして統一した人物にしては稚拙な言動なので、後の時代に創作されたものと判断した。
紛らわしい清康の言動を無視し、強気な態度だったと書くことで本質に迫りたい。

  • 戦国大名が遠征軍を率いて領国を留守にしている間に領国で反乱が起きた場合には、撤退して反乱軍を鎮圧するのが必然的な軍事行動である。領国の支配権が揺らぐと遠征軍を維持するための補給物資にも事欠くことになり、遠征軍に参加している諸将の造反すら招きかねないからである。
  • 「三河物語」において清康が森山に出陣したのは美濃三人衆の招きで美濃を攻めるために出陣したと書かれている。 しかし、当時美濃国は土岐頼芸が支配し、甥の土岐頼純が朝倉・六角を味方にして反撃を開始して全土で戦となっていた。美濃三人衆は後の人で当時はいなかった。尾張国に勢力拡大を目指し出陣したのであって、松平清康が美濃攻めを目指したのでは無かった。 松平信定謀反に対応する松平清康の言動などは後世に創作されたものと既に述べたが、森山崩れについては何らかの意図で後世に事実を隠蔽するために加筆・改ざんされたものが徳川家の通説となってしまったらしい。
  • 「三河物語」の伊田合戦で清康を失った岡崎勢は800まで減少し、岡崎城近くまで攻めてきた織田信秀の軍勢8000を伊田合戦で打ち破ったと書かれている。これも事実ではなかったろう。
    松平記に伊田合戦とされる小規模な軍事衝突はあったと記載されているが、織田信秀が負けたという記録はない。
    伊田合戦に勝利したならば、岡崎衆が(織田信秀と同盟して清康を裏切った)松平信定を幼君松平広忠の後見人として岡崎城に迎え入れることは絶対にありえなかったはずである。
  • 織田信秀は大樹寺に陣を張り、岡崎城に圧力をかける為の十分な軍事行動はとった。 松平長親と岡崎衆は協議の末、織田信秀と通じて清康を裏切った松平信定に織田方との和平交渉をお願いするしかなかった
  • 織田信秀と内通した松平信定が岡崎城の実権を握ることが和睦条件だったはずで、織田信秀は有利な条件で和睦できたからこそ撤退したというのが真実であろう。
  • 織田信秀はこの勝利によって後顧の憂いなく尾張国統一に専念することが出来たのであった。

 
 ◎阿部大蔵定吉が謀反との噂と弥七郎勘違い殺人

  阿部大蔵定吉が弥七郎を呼んで下記のように言明した。
  • 陣中で我々が主君清康を裏切ろうとしているという噂を耳にした。
  • 私は主君清康のご恩に報いることを寝ても覚めても思っており、このように裏切りの噂をされているのは神から見放されたのだろう。主君清康を裏切ること考えたことも無いが、もし少しでも裏切る行為をしたら神仏の罰を受け乞食にでもなるしかない。
  • 自分がこのように思っていることを主君清康の前で申し開きをして死にたいと思っているが、何も弁明できずに処刑されてしまうかもしれない。
  • もし噂が大きくなって、主君清康が噂を信じて自分を殺害した時はどこかに引きこもり、(主君の前に召されたら)「私の親は、主君を裏切ろうなどと夢々思っておりませんでした。この頃世間ではそんな噂が流れているのは内々承知していましたが、決してそんことはありません。」と申してほしいと阿部大蔵定吉は弥七郎に託した。
  • 弥五郎が主君清康に父の無実を訴えたら腹を切ることで、父親のの潔白を証明するように命じた。
  • ①お尋ねもないのに申し開きをすることは遠慮していたこと②神仏に誓っても主君を裏切ることなど考えたこともなく、親子ともに潔白であることなどを阿部大蔵定吉は弥七郎に言い聞かせた。 しかし、本陣で馬が逃げて人々が騒いでいるのを、父定吉が処罰されたと勘違いした正豊は無警戒だった主君清康を斬り殺した。その場にいた上村新六郎によって阿部弥七郎は斬り殺された。
 「三河物語」の森山崩れに書かれている内容を要約すると上記のようになる。阿部大蔵定吉が裏切りの噂があったので、もしもの場合に備え嫡男弥七郎に言い渡していたにもかかわらず、愚かな弥七郎は馬が逃げ出した本陣での騒ぎを父が主君に成敗されたと勘違いして主君清康を殺したということになっている。

清康の孫になる家康の代に創作された話を大久保彦左衛門が三河物語にそのまま記載したものであろう。

  • 阿部大蔵定吉が我々と述べているが、この場合親子二人だけなのである。通常謀反を起こすにはそれなりの兵力が必要なのである。父の代から松平氏に近習として仕えた阿部氏には謀反を起こすような配下の兵力は存在しなかった。配下に兵力を有していたのなら、阿部大蔵定吉は親子以外にも信頼できる家来を交え自分に万が一のことがあった場合に備え協議したろうがその必要は無かったのである。
  • もし全軍が三河国へ撤退の準備で慌ただしい動きを開始していたのなら、阿部弥七郎が「父が殺された」と勘違いして清康に近づくことができる状況ではなかったはずである。松平清康の近習だった阿部大蔵定吉も、諸将が円滑に撤退するため忙しかったはずで、謀反など噂が流れている時間的な余裕も無かったと考えられる。
  • Wikipediaによると阿部定吉は永正2年(1505年)の生まれ、当時31歳。どんなに早く子を授かったとしても長男弥七郎は10代前半の少年だったはずなのだ。少年が血相を変えて本陣に駆け込んでくれば、清康の周囲の者が「怪しい奴」と取り押さえたはずなのである。
  • 阿部大蔵定吉には謀反を疑われる立場に無く弥七郎は冤罪が明らかなのに、何故守山崩れは事実と違ってしまったのだろうか。後の徳川家康の代に隠蔽されたり加筆されたのには何らかの理由があったという結論に達した。
 


(5)徳川家康の代に織田信長との同盟関係に悪い影響が無いように過去を封印した
 
  ここで考えられるのは、『徳川家康が織田信長と同盟関係にあった』という事実である。徳川氏が生き残っていくためには織田信長から疑われることで同盟関係に亀裂が入る事だけは絶対に避けねばならなかった。
そのためにも家中の結束を固め、間違っても織田氏への不満や怨みなどが家中に拡がることだけは絶対に避けねばならなかった。
「守山崩れで松平清康が暗殺されたのが阿部弥七郎による誤認殺人によるもの」としなければならなかったのも、このような事情によるものであった。
後に岡崎信康に自害をさせたのも織田信長と同盟関係に支障を来す恐れががあったからと推定される。

三河金田氏の研究を行うには上記視点からも三河金田氏の真実を導きだすための努力を払いたい。

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