三河金田氏の真実
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第二章 守山崩れと松平広忠その2 

 ❷ 

第一章 第三章
 

金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
       └  金田正祐  ―  金田祐勝  ―  金田正勝(正藤)  

 (5)松平信定の家督横領と松平広忠の伊勢国逃避
天文4年(1535年)松平清康が不慮の死を遂げると(守山崩れ)、松平信定は岡崎城に入城し清康の遺児仙千代(10歳)の後見人となることにより実権を握った。
松平信定は後見人で満足するわけがなく家督を横領する動きを示したので、仙千代の身に危険が迫っていると感じた阿部大蔵定吉は仙千代とともに伊勢国に逃避した。仙千代は元服して松平広忠と称した。
天文6年(1537年)今川義元の支援を得た松平広忠は遠江国に拠点を確保し松平信定に対し反撃を開始すると、岡崎衆の中にも大久保氏のように広忠に心を寄せる者が増えていった。
天文7年(1538年)の年末に松平信定が死去したことで松平広忠の優勢が明白になり、天文8年(1539年)松平広忠は岡崎城に帰還することができた。

もし仙千代が松平信定に謀殺されていたら後の徳川家康は生まれることもなく、その後の日本の歴史は異なったものになったであろう。松平広忠が岡崎城に帰還した時期は歴史資料によって異なっている。通説では天文6年(1537年)に反撃を開始した松平広忠に松平信定が謝り家来になったことで実現したとされている。
これも守山崩れと同様に徳川家康の代に織田信長との同盟を重視したことにより、織田信秀の支援で家督を横領した松平信定を悪者にしない為の配慮で「謝り家来になった」という記述が生まれたと思う。下記にて岡崎城帰還を天文8年とした根拠を述べることにする。
 
 

 (6)松平広忠の岡崎城脱出・伊勢国逃避・岡崎城帰還においても歴史改ざんが行われた
 
前項で徳川家康の代に織田信長との同盟関係に悪い影響が無いように過去を封印した結果、守山崩れの真相が改ざんされ今日に伝わってきたことを述べた。そこで松平広忠の岡崎城脱出から帰還までについても同様なのではという推測が浮かんできた。
実は通説だと松平広忠の岡崎城帰還は天文6年となっているのである。「阿部家夢物語」「武徳大成記」の影響によるものである。
 Wikipedia記載の松平広忠が伊勢国逃避から岡崎城帰還までの「阿部家夢物語」の記述をまとめると下記のようになる。
  • 天文4年(1535年)広忠伊勢国へ出奔伊勢神戸に留まる。
  • 天文5年(1536年)3月伊勢神戸を出発、3月遠江国掛塚に。夏に今橋。その後「世喜」「形原」「室塚」と転々とする。10月に室塚から今橋に戻る。
  • 天文6年(1537年)6月広忠が岡崎城に入城。
「武徳大成記」は「阿部家夢物語」をもとに書かれているので、ほぼ同様の内容である。
これにより天文6年(1537年)6月に広忠が岡崎城帰還というのが通説となったのである。
しかし天文6年説について下記のように疑問を列挙し検証した結果、「天文8年に広忠岡崎城帰還」とする考えを強くするようになった次第であります。


   天文6年説に対する疑問を検証  
   
  • 尾張国の有力者織田信秀から支援を受けた松平信定の支配権が天文6年の段階で弱体化する理由が見つからない。
  • 伊勢国に逃避した松平広忠が天文5年に反撃を開始出来る状態にはなかった。
  • 天文5年(1536年)5月に花倉の乱が起き、今川氏は家督争いの最中なのである。今川義元が花倉の乱に勝利するが、遠江国では堀越氏・井伊氏が反義元を鮮明にしており、今川義元は対策に苦慮していたのである。天文6年(1537年)4月犬居城主天野景虎に命じて堀越氏の居城である見附端城を落城させたことで、ようやく遠江国を今川義元は掌握することができたのである。
    つまり、天文5年(1536年)においては「阿部家夢物語」に書かれている「遠江国を拠点に広忠側が活動する」には無理な状態だったのである。
  • 天文6年今川義元が遠江国の支配権を確立した夏以降に松平広忠が遠江国に反撃の拠点を確保したと考えられる。遠江国掛塚は天竜川河口に近く現在の磐田市に属する地域。
  • 天文7年になり三河国で今川義元の支援を受けた松平広忠の軍勢が今橋・世喜・形原・牟呂(室塚)と転戦し、三河国に次第に支配地域を獲得していったと考えるのが妥当であろう。
  • 天文7年の年末に松平信定が死去したことで、岡崎衆の大半が松平広忠の岡崎城帰還を望むようになり広忠側が有利になった。 年が明けた天文8年ついに松平広忠は岡崎城に帰還できたという結論に達した。

 

 
 (7)守山崩れ・広忠の伊勢国逃避などの歴史を改ざんした阿部定次の人物像
 
 「阿部家夢物語」は阿部大蔵定吉の弟阿部定次が作者であり、本来なら当時の状況を正確に伝えることができる立場なのである。
松平広忠の岡崎城帰還を無理に天文6年にした理由は、徳川家康から①織田信長の同盟関係への配慮②徳川家臣団が父広忠の代から強い結束力を誇ったようにするイメージ戦略を求められ、阿部定次が家康への忠誠心から行ったものであろう。
守山崩れの真相を隠蔽し甥の阿部弥七郎を犯人としてしまったのも阿部定次に違いない。
次に守山崩れ・広忠の伊勢国逃避などの歴史を改ざんした阿部定次の人物像に迫りたい。
  • 寛政重修諸家譜の阿部定吉の項目で広忠が伊勢国神戸から遠江国掛塚に移る時に、酒井正親・酒井忠次・石川清兼・石川数正が広忠のお供をしたと書かれているが、いずれも後の徳川家の重臣で年齢的に合致しない。弟の阿部定次の項にも同様に書かれていることから、無理矢理に 後の徳川家の重臣を加筆したことで信憑性に欠ける家譜であることを寛政重修諸家譜の編者は伝えたかったと思われる。
  • 上記系図を見ていただければ、阿部氏の系譜の異常さに驚く。阿部定次は嫡子次重が戦死したことで大久保氏から婿養子忠政を迎えたのである。これにより定次から続く系譜を大久保氏の支流に位置づけたのである。
  • 阿部定国の系譜は井上氏として存続することになるが、一族の阿部正宣にいたっては阿部定次との血縁関係を不明としてしまったのである。
  • 阿部定次は天正10年(1582年)70代で亡くなっており、徳川家康にとって織田信長との同盟関係が絶対的に重要な時期だったのである。
  • その為織田信秀が松平清康を謀殺したことを隠すために、甥の弥七郎を清康殺害の犯人に仕立てたのであった。
  • 天文8年だと岡崎衆が松平信定に亡くなるまで臣従 していたことになるが、天文6年ならば岡崎衆が松平信定に支配権を広忠に返上させるように圧力をかけたことになる。徳川家康にとって父の代から家臣団が一致団結して苦難を乗り越えてきたようなイメージ戦略が必要だった為に、その意向に阿部定次が従った。
  • 今川義元が桶狭間の戦いで討死し、その後織田信長と同盟を結んだ徳川家康は今川氏と敵対関係になった。父広忠の岡崎城帰還を支援した今川義元の恩を仇で返した印象を避けるためには、あくまで岡崎衆の活躍と松平信定が広忠に謝ったことで家督横領事件が解決したことにする必要性があったのかもしれない。
  • 本来なら伊勢国へ逃避した松平広忠が岡崎城に帰還できたのも阿部定吉・定次兄弟の功績によるものと考えられるが、自分達の功績と阿部氏という名跡を歴史の闇に封印することが徳川家への忠義と阿部定次は考えたようである。


 
 (8)松平広忠の岡崎城脱出から帰還までを三河物語から推理

松平広忠が岡崎城に帰還したのは天文6年でなく天文8年と主張したが、それには根拠があるからなのである。その根拠となる歴史的資料こそ「三河物語」なのである。以下は天文8年とした根拠となる推理である。


   三河物語から岡崎城脱出から帰還までを推理  
     
    三河物語での松平広忠が岡崎城を脱出し岡崎城帰還までの記述について、年次の記述が無く広忠の年齢での記述となっている。
しかも岡崎城を脱出した時の年齢が通説では10歳なのに、三河物語では13歳と書かれているのである。
しかし三河物語での記述では今川氏の援助について具体的に書かれており、広忠の年齢が合わないこと以外は当時の状況と合致しているのである。

そこで岡崎城を脱出した13歳を実際の年齢である10歳に修正することで、松平広忠が岡崎城を脱出し岡崎城帰還までの年齢を修正したうえで、三河物語の記述について検証すると下記のようになった。
 
   
 
  • 天文4年(1535年)広忠10歳(三河物語では13歳)の年に父清康が不慮の死を遂げ、松平信定に岡崎城を追い出され伊勢国で流浪の日々を過ごす。
  • 天文6年(1537年)広忠12歳(三河物語では15歳)の時に駿河国に出向き今川殿(今川義元)に援助を乞う。その年の秋今川殿の加勢が加わり三河国牟呂郷(愛知県豊橋市)を拠点にして反撃を開始する。
  • 天文8年(1539年)広忠14歳(三河物語では17歳)の春に本望を遂げて岡崎城に帰還することができた。
 上記のように広忠の年齢を修正した三河物語の内容は当時の今川氏の状況とも合致していたのである。
天文5年(1536年)駿河守護今川氏輝が没し、後継者問題で勃発した花倉の乱を勝利した今川義元が家督を継承した。
天文6年(1537年)今川義元は甲斐守護武田信虎と甲駿同盟を結ぶが、北条氏綱を怒らせ富士川以東の河東の地を北条氏に奪われてしまう。
苦境に陥った今川義元は松平広忠の要請に応じて本格的な支援が出来る状況でなく、小規模な支援をするのが精一杯なのであった。
天文7年(1538年)三河物語では松平信定が広忠の拠点牟呂を攻撃した際に広忠に心を寄せる大久保一族のことが書かれているが、岡崎衆の中には松平広忠側に寝返る者が多くいたと考えられる。更に年末になると松平信定が没したので広忠の勢力が次第に優勢になり翌年春に岡崎城帰還を果たすことが出来た。


  大久保彦左衛門は三河物語・後書にて次のように子孫に対して書き残している。
「この書物は世間に出すことないことを前提に大久保一族のことなどを書いた家伝書である。大久保一族以外の譜代の方々について信憑性については疑問を感じることが多い。そのような事情を考慮しこの書物を門外不出にするように。」

大久保一族のことについては大久保彦左衛門は確証を持って書いたと思われるが、それ以外の多くのことは歴史的資料から引用して三河物語に書かれていた。※
その多くについて資料同士を照合すると矛楯を感じたり、疑問に感じたりすることもあったので大久保彦左衛門自身は子孫に対して「三河物語」を門外不出と言い残したものと思う。
岡崎脱出から岡崎帰還まで「阿部家夢物語」などの歴史的資料を精査しても大久保彦左衛門は内容に納得できなかった。
そこで年号を使わず広忠の年齢を基準に表記する奇抜なアイデアが生まれた。これは大久保彦左衛門の良心と誇りによるものだろう。但し、10歳を13歳にしたのは永遠の謎であるが。

※大久保彦左衛門は桶狭間の戦いのあった永禄3年(1560年)に生まれた。寛永12年1635年から三河物語の執筆に入ったと言われている。
 

   ❷