三河金田氏の真実
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第二章 守山崩れと松平広忠その3 back

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第一章 第三章
 

金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
       └  金田正祐  ―  金田祐勝  ―  金田正勝(正藤)  

 
注記 守山崩れ・松平広忠の伊勢国逃避の歴史改ざんが行われたことを詳しく述べてきたが、この時期を金田正頼が松平氏の家臣としてどのように過ごしていたのかを知るために重要だったのである。ここからは金田正頼を中心に述べることにする。
 
(9)松平広忠の伊勢国逃避は金田正頼にとって運命の転機となった
 
  寛政重修諸家譜では金田正頼は清康に仕えたとだけしか書かれていない。金田系譜でも同様である。
松平清康が家督を継承した大永3年(1523年)から殺害された天文4年(1535年)の12年間が該当するが、系図では金田正頼は30代後半で若死にし広忠に仕えることは無かったということになっている。
もしも正房・正祐兄弟が系図通り10代前半で遺児となってしまったら、守山崩れ後の金田氏は没落するしかない運命だったのではないだろうか。
 
しかし天文8年(1539年 )松平広忠が岡崎城に帰還すると金田正房・正祐兄弟は広忠の近臣として仕え、その子孫は徳川氏の直参として代々続くことになる。
ところが忠死を遂げた正房・正祐・宗房や刑死事件を起こした正末については家譜などに書かれているが、活躍したことについて家譜は避けているのである。
全てが謎だらけだった旗本金田氏の家史研究も、源氏・千葉宗家に仕えた上総金田氏の時代や金田正興の三河国へ移った経緯を研究し次第に実像がわかってきた。その結果金田正頼は広忠の伊勢国逃避に随行していたという確信を得ることができた。
阿部定次が徳川家康から①織田信長の同盟関係への配慮②徳川家臣団が父広忠の代から強い結束力を誇ったようにするイメージ戦略を求められ、清康・広忠の代の歴史を改ざんしたことは既に述べた。
幼君松平広忠の身辺警護をし、今川義元の支援を受けることに成功させ、そして岡崎城帰還を果たすのに成功を導いた功労者である阿部定国・金田正頼は歴史上抹殺されることになってしまった。
歴史上抹殺されたことは残念であるが、その子孫が広忠・家康に仕え活躍する機会が与えられたことを考えると、伊勢国逃避は旗本金田氏の転機だったに違いない。
金田正頼について隠された真実について検証することにする。
 
 永正14年(1517年)上総金田氏が終焉を迎え、金田正興・正頼親子が上総国を追われ三河国に移ったことは上総金田氏歴代記の第七章金田氏の終焉その4で詳しく述べている。
当時父正興は40代前半、正頼は20歳前後。大永年中(1521年~1527年)になると正興・正頼親子は東条城主吉良持清の助けを得て生活も安定する。そして松平清康が家督を継承すると正興・正頼親子は清康に仕えることになる。
金田正頼が妻帯したのは、三河国に来て生活が安定した25歳頃だったと考えられる。
守山崩れが起きた年に金田正頼は38歳前後。長男金田正房は12歳、次男金田正祐は11歳と推定される。※
寛永諸家系図伝によれば金田正祐は天文15年(1546年)22歳で討死と書かれており、生まれは大永5年(1525年)となるので11歳と判断した。

江戸時代譜代大名になった酒井氏・本多氏・牧野氏・水野氏などは三河国の有力豪族であったのに対し、同じ譜代大名である大久保氏・阿部氏などは岡崎城主松平清康直属の家臣だったのである。
金田正興・正頼父子は岡崎城主松平清康の近習として仕えたと考えられるが、その期間は10年程度なので他の家臣からすれば余所者として扱われたとしても不思議ではないのである。
そんな中にあって松平清康の重臣だった阿部大蔵定吉とは懇意な間柄であったのが、後に広忠が「正祐の忠死を嘆き菩提を弔う為に、阿部大蔵定吉に命じて金田寺を建立させた」という寛政重修諸家譜の記録から推測できる。

守山崩れより後も金田正頼は広忠の近臣として仕えていたので、阿部大蔵定吉が行った幼君広忠の岡崎城脱出作戦に携わり、伊勢国逃亡の一員にも加わったと考えられる。
当時の金田正頼は亡き主君清康の代に取り立てられた新参者だったことから松平信定によって岡崎城から排除される立場だった。幼君広忠の身辺を警護し伊勢国に逃亡し再起の機会を待つしか選択肢は無かったはずなのである。



※次章で検証するが寛政重修諸家譜では金田正祐を広忠の近習としながら系図では家康時代の宗房(正房の長男)の弟と書かれている。


 

 
 
寛政重修諸家譜で金田氏は千葉氏庶流と書かれており、更に上記系図の通り金田正興・正頼父子は桓武平氏の名門千葉宗家の外戚に当たる。金田正興・正頼父子が金田正興・正頼親子が上総国を追われ三河国に移ったことは上総金田氏歴代記の第七章金田氏の終焉その4で詳しく述べてることは前記したが、そのことを母から伝えられた本佐倉城主千葉介胤富が粟飯原孫平の話を千葉大系図に記載したと考えられる。内容は下記の通り。

 大永年中(1521年~1528年)小見川城主粟飯原俊次の子粟飯原孫平が従兄弟の金田正興とともに相模国に赴いた。孫平に去られた粟飯原俊次は天文16年(1547年)北条氏康の七歳になる九男を養子として迎え光胤と称した。
金田正興は三河国へ去り、残された粟飯原孫平は父のもとに戻り許しを請うた。
粟飯原俊次は孫平を許し家督を継がせ光胤は小田原に戻った。その後粟飯原孫平常次は死に再び粟飯原光胤が迎えられ家督を継承した。粟飯原光胤は軍功をあげ天正16年(1588年)に没したと千葉大系図に書かれている。

上記事項に対する見解は上総金田氏歴代記の第七章金田氏の終焉その4で詳しく述べているので参考にされたい。
千葉介胤富の代には安房国・上総国に勢力を有する里見氏に対抗するため北条氏康と同盟せざるを得なかった。
戦国時代の争乱の中千葉氏は北条氏との同盟関係から次第に北条氏に支配される立場に転落していった。
胤富没後の天正13年(1585年)胤富の子千葉介邦胤が殺害されると、胤富の孫重胤が幼少の理由で小田原城に預けられ北条氏政の子千葉直重が家督を継承した。
胤富の孫俊胤が粟飯原家を継承して粟飯原俊胤と称したことを考えると、粟飯原光胤の話は千葉介胤富の代に千葉宗家の未来を予知して書かれたものではないかと思いたくなる話である。
 
 
     


 
 (8)松平広忠の岡崎城脱出と伊勢国逃避

 三河物語では松平信定が岡崎城に入ると家督を横領し、邪魔になった仙千代を追い出しにかかったと書かれている。
そして阿部大蔵定吉と六、七人の家来のお供で仙千代は伊勢国神戸へと落ち延びていった。


ここであえて仙千代と強調しているのは、家督を横領したばかりの松平信定のもとでは仙千代の元服は無かったのである。
岡崎城から逃亡した仙千代は、松平氏と縁戚関係のある東条城主吉良持広を頼ったのであった。
東条城で元服し持広から偏諱を賜い広忠と名乗ったと考えるのが妥当なのである。

しかし松平記は伊勢国神戸で元服したと書かれていることを考慮すると、もしかしたら松平信定の危害を逃れるために緊急避難として、伊勢国に直接逃げた可能性も高い。この場合でも東条城主吉良持広の支援を受けて脱出し、吉良氏の伊勢国神戸に保有していた所領を広忠一行の避難場所とし、離れた東条城の吉良持広から伊勢国に使者が元服に遣わされ、偏諱を賜い広忠と名乗った事も考えられる。

 
 伊勢国神戸(現在の鈴鹿市中心部)に避難した松平広忠一行は、経済的には東条城主吉良持弘の支援を受けることができた。
当時の伊勢国神戸は神戸城主神戸具盛が支配していたが、神戸具盛は伊勢国司北畠氏から養子として迎えられ、北伊勢では有力な大名となっていった。松平広忠一行は政治的に安定した神戸で平穏な日々を過ごすことが出来た。
 
 (9)金田正頼と服部半蔵保長
 三河国から僅かな家来しか伴っておらず、広忠の身辺警護や反撃の準備のためにも役立つ家来が必要になってくるのである。
ここからは金田正頼と服部半蔵保長が一行に加わっていたという前提で話を進めることにする。
伊勢国逃亡の一員にも加わった人物として、亡き主君清康の代に家来になった伊賀忍者である服部半蔵保長を書き加える必要がある。室町幕府12代将軍足利義晴に仕えてから松平清康の家来になった伊賀忍者で、守山崩れ後の行動は不明になっている。
(Wikipedia参照)
危険が迫っている岡崎城下を僅かな人数で脱出し伊勢国神戸へ逃避した松平広忠一行にとって、上記地図のように伊勢国神戸方面に土地勘のある服部半蔵保長の忍者としての技量を含めて協力が不可欠だったはずである。
金田正頼と服部半蔵保長については、次章で更に詳しく検証したい。


 
 (10)金田正頼の人物像その1

 これまで守山崩れや松平広忠の伊勢国逃避・岡崎城帰還について詳しく述べてきたのは、歴史が改ざんされ事件の真相を闇に葬る事がされてきたことを明白にしたかったからである。金田正頼の人物像についても金田家譜などで「相知不申候」と書かれ意図的に避けている印象なのである。
寛政重修諸家譜で「清康君につかえたてまつる」とのみしか書かれていない人物の実像を探ることは容易ではない。

しかし、桓武平氏の名門千葉氏の支流に生まれた系譜をたどり、五代将軍徳川綱吉の城代家老金田正辰・正勝親子の実像を探るうちに次第に三河金田氏の謎解きが可能になったのである。

 
 謎解きのキーワードは「伊賀忍者」
伊賀忍者といえば服部半蔵正成が有名であるが、どうも守山崩れから大坂の陣まで三河金田氏は服部半蔵家の歴代当主とともに歩んだことで、徳川家康の天下取りに黒子として貢献した可能性が高いのである。
大坂の陣で豊臣氏が滅ぶと二代将軍徳川秀忠は黒子の存在を否定するために三河金田氏・服部半蔵家は改易となった。
その後、三河金田氏は館林藩の城代家老に、服部半蔵家は桑名藩の家老に抜擢されるのである。
館林藩主徳川綱吉は館林藩に仕官した三河金田氏のかって配下だった伊賀忍者たちを将軍の権力基盤強化に役立てた。
そのことについては序章で詳しく述べている。

 三河金田氏と伊賀忍者の最初の接点を考えたどり着いたのが「松平広忠の伊勢国逃避」なのである。
松平広忠が岡崎城脱出に従った僅かな家来に金田正頼と服部半蔵保長が含まれていたのである。
この出会いにより三河金田氏が伊賀忍者とともに歩む第一歩になるのである。


 (11)金田正頼の人物像その2
 金田正頼を考える上で重要なことはその家柄である。
乱世の戦国時代にあっても家柄というものは尊重されていたのである。
小田原北条氏は桓武平氏伊勢氏の出身、今川氏は足利将軍家の一族、武田氏は甲斐源氏の名門というような状況であった。
桓武平氏千葉氏の支流出身で、当時の本佐倉城主千葉介昌胤の正室の従兄弟という金田正頼の経歴が、広忠の使者として今川氏側と交渉する際に役立つことはあったはずである。
松平広忠が駿河・遠江守護今川義元に支援を求めた際に、今川氏の家臣との交流が次第に深まっていた痕跡は残っている。
1560年桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、徳川家康が織田信長と同盟を結び今川氏真と敵対関係になる。
それ以降三河金田氏歴代が今川氏側との交流は絶えてしまったのである、

1634年金田正末刑死事件が起き不遇時代だった金田正辰を支えたのが4070石の旗本長谷川讃岐守正吉。正辰の義父である。
長谷川正吉の父長谷川正長は今川氏の家臣だったのである。今川氏とともに没落したのを徳川家康に召し抱えられ旗本になったのである。
三方原の戦いで長谷川正長は戦死するが、その子正成(1750石)・宣次(400石)・正吉(4070石)は旗本として幕末まで存続した。
大坂の陣では伏見城城代松平定勝(家康の弟)を城番として支えた金田正勝(正藤)を父とする金田正辰は、戦功で500石を与えられ明るい未来を信じていたはずである。1615年父正勝病死、その後間もなく兄正末改易。
このような状態の金田正辰を娘婿とした長谷川讃岐守正吉は、徳川家の旗本の中でかって今川氏との同盟に奔走した三河金田氏歴代の残像を感じたからではないだろうか。
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