三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第五章 将軍家光と三河金田氏終焉その2   ❷  


第一章 第二章 第三章
 
 三河金田氏の研究は第五章将軍家光と三河金田氏終焉に原点がある。
金田正末刑死事件はなぜ起きたのか。事件の解明こそが三河金田氏謎解きの原点なのであります。
金田正末刑死事件で中根正盛が重要な役割を果たします。金田正末は旗本に復活の可能性が高かったのです。
しかし、老中土井利勝の独断での処刑が行われ、将軍家光は裁可を下す時間的余裕は無く、事実上の事後承諾で早期決着が図られてしまった。
以後中根正盛はこの事件のことを口にすることは無く、将軍家光も中根正盛の心中を察し心の奥にしまって置いたのです。
しかし、家光の晩年に大きな動きがおこるのです。それは第五章その3で。
 
 (3)金田正末の刑死事件の本質

 寛永11年(1634年)4月29日に将軍家光が鷹狩りの時に、金田正末は将軍家光に直訴に及んだ。
「将軍秀忠様の代に申し開きもできず不公平な扱いで改易となり流浪の身となってしまいました。このように直訴したのは改易になったことについて再度真実を明かすためお調べください。」と将軍秀忠の代の重臣たち(酒井忠世・土井利勝・安藤重信など)の対応を批判したのであった。
しかし直訴した内容は偽りだと判断され、偽りを再度申したとして罪が重いと正末は5月3日処刑された。
寛政重修諸家譜では鷹狩りの時とされているが、大猷院殿御実記では「板橋にならせ給いし御道に出て直訴せり」と記されている。
厳重な警備の中で行われる鷹狩りに紛れ込むのは難しく、将軍一行が通過している沿道でひれ伏し、将軍の駕籠が近くを通過する時点で直訴したのが実情だったであろう。
 
 
 ◎金田正末は何故直訴に及んだのか

 大阪の陣で豊臣氏が滅ぶまで伏見城城番の要職にあった父金田正勝(正藤)の謎の死により家督を継承した金田正末は、将軍徳川秀忠の重臣の謀略で改易となり浪人の身となってしまった。謎の死の真相追究を願ったら改易とされ、歴代の徳川家に対する忠義や謎の死の真相も闇に葬られてしまったのである。そして逆境から再起を願ってもかなうことは無く日々は過ぎていった。

元和9年(1623年)徳川秀忠将軍職を家光に譲り大御所になるが実権を手放すことはなかった。
寛永9年(1632年)徳川秀忠没。
将軍家光の代になっても先代の重臣土井利勝が老中として権力を掌握している政治体制に変化は無かった。
金田正末にとって徳川秀忠が没しても追い風になる状況は起きなかったのである。
金田正末が直訴を決断したのは、寛永11年に中根正盛が側衆に補任されたことが大きな要因と考えられる。
中根正盛についてはWikipediaを参考にしてください。
 
 ◎中根正盛がキーパーソン

 ●三河金田氏歴代が服部氏を軸に中根氏とも繋がりがあることをここで述べたい。

本来ならば直接中根正盛の系譜について述べたいが、寛政重修諸家譜に記載が無いのである。寛政重修諸家譜記載の中根氏は金田氏・服部氏と血縁があり、同時期の中根正成は中根正盛と同じ5000石の旗本なのである。
  • 天文15年(1546年)松平広忠が織田信秀にくみした松平清定の上野城を攻めた。広畔畷の戦いで広忠軍の先陣として上野城に近づき、金田正祐は敵方をおびき出すことに成功した。戦いは勝ったが金田正祐は戦死したのであった。武徳大成記には中根甚太郎の名前が金田正祐とともに併記されている。
  • 金田正祐が服部保長の娘婿である金田庄之助に該当すると述べてきたが、中根正重も服部保長の娘婿となっている。服部保長の系譜には子供の人数が異常に多いことから、もしかしたら子供や孫まで含まれて書かれている可能性が高い。いずれにしても金田家と中根家は服部家と縁戚関係なのは事実である。 中根家の系譜に服部石見守保長と記されているが、石見守ならば服部半蔵正成のことなので何か深い意図が隠されているのかもしれない。
  • 中根正重は慶長3年200石の旗本として亡くなったが嫡子正成は秀忠・家光に仕え5000石の旗本に出世し、その後中根氏は6000石の旗本になる。※
  • 寛政重修諸家譜によると中根正成は金田宗房の娘を娶ったとなっている。但し嫡子正勝は榊原忠勝の娘が母である。
  • 中根正重は家康の長男岡崎信康に仕えたが、8000石の旗本に出世した服部半蔵正成に比べ出遅れた結果となった。しかし次世代になると不思議なことに服部氏・金田氏が改易となり衰退するのに反比例して中根氏は躍進していくのである。
※中根正成
慶長3年(1598年)父正重の遺領200石を継承
慶長10年(1605年)下総国臼井領吉田郷内で200石加増
大坂の陣の戦功で元和元年(1615年)総国武射・長柄、武蔵国賀美の三郡内で1000石を加増
さらに元和9年(1623年)武蔵国都筑郡内で200石、下野国(栃木県)芳賀郡内で400石加増
寛永5年(1628年)上総国周准・武射、下総国香取の三郡内で1000石が加増

寛永12年(1635年)下総国匝瑳・香取の二郡内で2000石加増
合わせて5000石の旗本となり寛文11年(1671年)85歳で没

天和2年(1682年)中根正延の代に1000石加増され6000石になる

 
 ●中根大隅守正成の出世・中根壱岐守正盛の出世
 
 寛永17年(1640年)中根大隅守正成は5000石の旗本になっていたが、同じく5000石の旗本となっていたのが中根壱岐守正盛なのである。
Wikipediaによると中根壱岐守正盛は徳川家光の代に側衆として登用され家綱の代まで公儀隠密の元締めとして活躍する人物となっている。
前述したが寛政重修諸家譜をたどると中根正盛についての記述が中根家の欄に無いのである。
堀田正盛とともに三代将軍徳川家光を支えた重要人物が寛政重修諸家譜に記されていないのは大変奇妙なことなのであるが、下記の家光重臣が六人衆に補任されたのが寛永10年であることから、寛永9年に側近に栄進しその後に側衆・大目付として永く要職を歴任し続けたことは注目に値する。
下記の通り中根正盛が側衆になるまでの寛永9年~11年は家光の体制を支える重臣が登用された重要な期間なのである。
本来なら稲葉正勝を筆頭老中にして側衆の中根正盛とともに三代将軍家光の治世を支える体制を築く予定だったのが、稲葉正勝の急逝により春日局の義理孫である若い堀田正盛を急遽老中にしたのであった。(寛永12年の時27歳)
 徳川家光を支えた老中の在任期間
 
堀田正盛 寛永12年(1635年)-慶安4年(1651年) 寛永10年では六人衆
松平信綱 寛永10年(1633年)-寛文2年(1662年)
阿部忠秋 寛永10年(1633年)寛文6年(1666年)
寛永15年(1638年)  土井利勝・酒井忠勝大老に就任し老中から離れる
 
 徳川家光の重臣を語る上で前将軍秀忠が亡くなった寛永9年(1632年)が重要な節目となる。
  • 中根正盛が小納戸として将軍家光の側近になる
  • 春日局の実子稲葉正勝が小田原藩主(8万5千石)に加増転封
  • 家光の弟駿河大納言忠長改易
稲葉正勝は将軍家光の乳兄弟で将来老中として家光を支える重要な人物であった。
江戸防備の重要な城である小田原城を総石垣の城とする工事を始めた。今日の小田原城の姿は稲葉正勝あ築いたものである。
しかし、天狗伝説が伝わっている笹子地蔵(南足柄市塚原)にある天狗石※を石垣に加工するため、石工たちが矢穴を彫ったことで金比良大権現の怒りを買い藩主稲葉正勝は喀血し翌年亡くなった。
笹子地蔵での工事は中止になり、春日局の命で天狗石の側にお堂が建てられ祀ったので、幼主稲葉正則は無事成長し稲葉氏は繁栄したのであった。稲葉氏の次に小田原藩主となった大久保氏は笹子地蔵の天狗石を疎かにしたのでお堂は石垣を残すのみとなってしまい、小田原藩は未曾有の天災に遭い危機的状況になるのであった。

※天狗石とは笹子地蔵伝説では修験道の神である金比羅大権現の化身黄色大権現が祀られた神聖な石と言われている。

稲葉正勝の死によって将軍家光は、25歳だった堀田正盛(春日局の義理孫)を六人衆に加え寛永12年(1635年)になると川越藩主3万5千石の大名に昇進させ老中としたのであった。中根正盛と堀田正盛が家光の側近として終始支えるのであった
 
笹子地蔵(南足柄市塚原)

左側上部にあるのが天狗岩(矢穴が残っている)    右側が天狗を祀るお堂が建っていた石垣
 
 ●寛政11年側衆となった中根正盛
 側衆(御側)となった中根正盛は将軍家光より強い権限を与えられた。下記職務を果たすとともにに諸国観察を任とする与力22名が配下となったのである。
  • 幕閣との取次役
  • 幕府行政への監察権限が与えられ将軍家光の為に情報収集活動を果たした
中根正盛について寛政重修諸家譜の記載が無く家光の側近になるまでの経歴が不明なのである。
しかし、側衆になってからの家光の信頼が絶大なことから、家光又は春日局に直接仕えてきたと考えられる。
公儀隠密の元締めとして家光の信任が厚かったことからも、徳川家康が服部半蔵正成を側近にし金田惣八郎祐勝を堺の商人として潜伏させ諜報活動をさせたことを熟知していた人物だったと推測される。
上記中根大隅守正成が金田氏・服部氏と縁戚関係があることから、中根正盛についても両氏と繋がりがあったと考えられる。
後に館林藩主徳川綱吉が将軍になり、城代家老金田正勝が側衆として5000石の旗本に栄進した時に中根正盛の生き方を意識していたと考えられる。そのことは次章で述べることにする。
 
 ●中根正盛が将軍家光の側衆に補任されたことで、金田正末は直訴を決断したと考えられる
 ここで金田正末刑死事件の真相を探りたいと思う
 (遠因)
元和元年(1615年)伏見城城番だった金田備前守正勝が何者かに殺害された。金田家譜では病死となっているが幕府の意向を配慮したもの。当時5000石の家禄で配下に伊賀忍者を従え、大坂の陣では豊臣氏に味方する勢力の情報収集の任務に当たっていた。
本来なら金田惣八郎正行として5000石の家督を継承できたはずだが、将軍秀忠と重臣たちの陰謀により改易となってしまった。
金田正行は幕府に父が殺害された事件の解明を訴えたことに対して、被害者側を「嘘偽りを申している」と決めつけ禄高を収公し改易処分とされた可能性が高い。寛政重修諸家譜に惣八郎でなく惣三郎となっていることから、家督を継承する前に改易された可能性が高い。
その後金田正行は金田角左衛門正末の名乗り、無念の浪人生活を続けたのであった。
 
 (嘘偽り)
金田正末を刑死にした罪状は将軍への直訴ではなく、嘘偽りを再度繰り返したことによるとされている。
少なくとも15年以上前に起きた前将軍秀忠に対する訴えを、当時の重臣たちによる不公平な詮議で改易とされたことについて異議を申し立てるために金田正末は直訴に及んだのであった。
嘘偽りを再度繰り返したことを罪状として処刑するには、将軍秀忠の代に起きた訴えがどのようなもので、適正な詮議が行われたかなど資料によって明白にしなければならない。その上で現在の将軍家光に報告し嘘偽りを再度繰り返したと裁定されたら、家光に処刑の裁可を仰ぐ必要があったはずなのである。もし、適正な手続きで家光の裁可が下りて処刑が行われたのなら下記のような経緯だったはずである。
  (老中土井利勝の権限行使で処刑が行われた)
 
  寛永11年(1634年4月29日)鷹狩に向う将軍一行が通過している沿道にひれ伏していた金田正末は、間近に迫った将軍家光に直訴したのであった。金田正末はその場で捕縛された。
(4月30日)老中土井利勝が登城し下記の通りなので処刑を主張し強引に決定させた。
  • 金田正末が噓偽りを申していたので前将軍秀忠の勘気に触れて改易になった。
  • 嘘偽りを再度繰り返したのは許しがたい。斬首すべし。
(5月1日~2日)中根正盛から金田正末が改易になった経緯を聞いた将軍家光は、土井利勝に穏便に取り計らうことを働きかけたが応じることはなかった。
(5月3日)担当の役人は金田正末の供述を老中土井利勝に報告していたが、土井利勝から斬首の命令が出たので実行したのであった。
秀忠の代に整備された官僚機構は頂点に立つ老中の意向が強く影響する仕組みになっていたのである。

 
 (土井利勝が処刑を急いだ理由)
噓偽りを理由に金田正末の処刑を急いだ土井利勝であったが、金田正末が嘘偽りを申していないのをよく知っていたのも土井利勝であった。秀忠の代に服部正就が改易され、その後金田正末が改易されたのは、幕府組織を構築する為には家康直属で諜報活動をしてきた両家が邪魔なため強引に改易とし配下の忍者を若年寄配下に組み込む事がであった。
家康時代に家康直属だった堺の金田屋伝右衛門(金田祐勝)・京都の茶屋四郎次郎えお家康配下の服部半蔵正成によって築かれた諜報活動のネットワークは、徳川家康が天下を取ると服部石見守正就・金田備前守正勝が伊賀忍者などを配下にして将軍直属の諜報活動をする組織となっていた。江戸幕府の官僚機構を組織化を図っていた徳川秀忠と重臣たちは、邪魔な存在である服部氏・金田氏を消し去り諜報活動をする組織を若年寄配下にすることで、結果として老中の権限強化を図ったのであった。

秀忠とその重臣が目指したのは、将軍親政でなく老中を中心とする集団指導体制なのである。
政治が安定するメリットはあるが、実質的に権力が将軍から老中に移ってしまう結果になっていたのである。
金田正末を処刑することで事件を素早く幕引きを図ることが大事だったのである。

土井利勝が処刑を急いだ理由は、金田正末が改易になった経緯を再調査されることを恐れたからである。
徳川家光はそのことを知っていたので、金田氏再興を図るため遺命を残し、金田正辰の栄進が実現したのである。
 

 ★僅かなほころびも許さなかった土井利勝
 これまで金田正末の処刑事件に限定して述べてきたが、土井利勝をを筆頭に徳川秀忠の重臣たちが幕府権力基盤を固めるために歴史を改ざんしてきたことを特筆しなければならない。
関ヶ原の戦いで最も功績のあった小早川秀秋は、初めから徳川方に味方するために松尾山に陣を張り、開戦と同時に大谷勢を攻め西軍総崩れに導いたのは明白である。
ところが小早川秀秋は徳川幕府の功労者としてでなく裏切者として語られ、徳川家康の鉄砲隊が松尾山へ射撃したのに驚いて東軍に寝返った日和見主義者とされてしまったのである。
小早川秀秋の家老稲葉正成は、すべてのことを知り尽くしているので幕府は頭が上がらなかった。
小早川家を離れても生活に困らず、別れた妻は春日局として大奥に権力を築き、その系譜は稲葉氏・堀田氏として老中を輩出することになる。稲葉正成自身も途中浪人することはあっても、真岡藩主(2万石)として人生を終える。
歴史の事実から目を背けるために、小早川秀秋は裏切者として語られ、春日局は逆臣明智光秀の重臣斎藤利三の娘なのに公募で家光の乳母に選ばれた苦労人として語られてきたのであった。
ある意味で日本史は土井利勝の思う壺にはまってしまったというのが現状であります。
 
     
 
 
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