三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第五章 将軍家光と三河金田氏終焉その3 back   ❸ 


第一章 第二章 第三章
 
 金田正末刑死事件で三河金田氏は絶家となり、歴史の闇に消し去られた三河金田氏の僅かな断片的記録が残されたのでした。
不遇の日々を過ごした金田正辰は将軍家綱の代になると栄進し、旗本金田氏の中興の祖となりその系譜は今日まで続くのでした。

三河金田氏の家史研究によって、僅かな断片的記録から次第に三河金田氏の実像が次第に明らかになってきました。
そして金田正辰は三代将軍家光の遺命によって栄進したことが判明したのです。ここでは将軍家光が老中松平信綱・阿部忠秋に遺命を託し、老中がどのように対応したかについて述べたい。
 
 (4)金田正末の刑死事件が及ぼした影響

 
 ●処刑が執行された後の中根正盛
 (目算が外れた中根正盛)
直訴をしただけでは死罪に該当せず、嘘偽りで既に将軍秀忠の処分を受けている金田正末は極刑を受けないと見込まれていた。
逆にに新任の老中たちによって、秀忠の代の処分が適正であったかなど再検証される可能性が期待されていた。
金田正末はそれを期待して直訴に及び、中根正盛は金田正末を支援するつもりであった。
側衆という立場から中根正盛は将軍家光に、「金田氏歴代が徳川家に忠義を尽してきたことと、服部氏とともに諜報活動を通じて家康に貢献してきたこと」を伝えることで、金田正末を支援できると確信していた。
しかし、当時最大の実力者土井利勝による迅速な事件処理と金田正末の処刑で事件は終結してしまった。
強引な土井利勝の手法に納得はできないが、中根正盛は沈黙を守るしか無かったのである。
 
 ●金田正末刑死に対する将軍家光の対応
  将軍家光は土井利勝による独善的な事件処理に決して不満が無かったわけでは無い。
しかし、その後土井利勝から事件処理の理由を聞かされ、改易された金田氏を救うことが難しいことを認識したのであった。
  • 幕府の権力基盤強化には徳川家康を神格化(東照宮)し、天の利・三河国という地の利・織田徳川同盟や三河武士の忠義という人の利に恵まれ天下の覇者となったことを世に広める必要があった。
  • 歴史上の出来事で幕府にとって都合の悪いことは、多くの事が将軍秀忠の代に書き変えられた。幕府の権力基盤を強化するためと正当性を世の中に認知させるために必要なことであった。
  • 徳川家康は服部半蔵正成を側近として堺の金田祐勝、京都の茶屋四郎次郎などと諜報活動のネットワークを築き上げていた。金田祐勝は配下に伊賀忍者を置き、堺の町衆の中に商人として潜伏し商人武家公家から重要な情報を取得し家康に提供してきたのであったが、徳川家康を東照大権現と祀る為には諜報活動などは削除することが神格化には必要だった。
将軍家光にとって敬愛する祖父徳川家康を神格化し徳川氏の政治権力の正当性を図るため、諜報活動をして家康に尽くした服部氏・金田氏を犠牲にしたことについて異を唱えることはできなかったのである。
結局土井利勝の事件処理を妥当なものとして認めざるを得なかった。
将軍家光の意を汲み中根正盛も金田正末の遺族と距離を置くようになったのである。

 
 ●金田正末刑死事件が将軍家光に遺したもの
  金田正末が刑死したことは無駄死にだったのだろうか。
将軍家光は金田氏が徳川氏に忠勤を励んだことをその後もずっと記憶にしまい込み月日が過ぎていった。
将軍家光がその後も中根正盛を特別に信任し続けたのには、何らかの意図も隠されていたのではないだろうか。

正保4年(1647年)小諸藩5万石の藩主松平忠憲が病死し改易となってしまった。家康の弟松平康元から続く名門のため、翌年忠憲の弟康尚に那須郡1万石が与えられ存続は許された。
三方ヶ原の戦いで主君のために忠死した家老金田宗房の孫金田房能は、家老から浪人の身分になり弟の金田房宅が松平康尚に仕えることになった。
このことが将軍家光に伝わると金田氏の運命が大きく変わっていくことになる。将軍家光は徳川氏に忠勤を励んできた金田氏をこのままにしていてはいけないと決断した可能性が高いのである。

慶安元年(1648年)将軍家光は岡崎の金田寺安養院(三河国額田郡能見村)を徳川氏ゆかりの寺であ大林寺の寺領内に移転させ10石を寄進した。岡崎の伊賀八幡宮の社殿を造改築し豪華な建物にしてることから、安養院も移転により寺容の一新が図られたはずだが、戦災で建物が焼失されたのは残念なことである。
第四章(1)金田祐勝の実像ー子供時代ーで記しているが、金田正祐は能見村に屋敷を構え伊賀八幡宮周辺に伊賀忍者が居住し、松平広忠の命令で岡崎城の北方警護に当たったのである。彼らの忠義が忘れ去られたことを哀れんだ徳川家光は、伊賀八幡宮の造改築と金田寺安養院の移転などをすることで、忠義に報いたいと判断した

家光が亡くなった時に四男綱吉は6歳、館林藩主になった時は綱吉16歳。
金田惣八郎正辰が無役の旗本700石から3000石の城代家老に出世したのは、綱吉の年齢を勘案すれば前将軍家光の生前の意向が働いた可能性が高く,、家光が残した遺命があったからこそなのである。

 

 (5)将軍家光の遺命

 
 ●将軍家綱の代になって金田正辰は栄進した
  金田正辰は将軍家綱の代になった慶安4年に55歳で、次男の金田正勝は部屋住みで29歳だった。
700石の旗本ではあるがそれまで不遇だった人生を歩んできた印象なのである。将軍交代は二人の人生に大きな転機をもたらすのであった。

承応2年(1653年)金田正辰が鉄砲頭となり、明暦2年(1656年)に300石加増され1000石になった。
金田正勝も明暦3年(1657年)35歳で将軍家綱に初めて御目見し、万治2年(1659年)に37歳で小姓組に列した。
寛文元年(1661年)徳川綱吉が25万石の館林藩主になり、金田正辰が館林城に赴き城代家老となり禄高3000石となった。
館林藩以降のことは次章で詳しく検証したい。
 ☆家光死去後綱吉が舘林藩主になるまでの10年を表にしてみた。城代家老や奏者番という要職につくため、正辰・正勝父子にとって10年間は準備期間だったと考えられる。
 
 徳川綱吉  金田正辰
  慶安4年(1651年)徳松15万石を拝領する。父家光死去。  
 承応2年(1653年)徳松元服し綱吉と称する。  承応2年(1653年)金田正辰が鉄砲頭となる。57歳
   明暦2年(1656年)300石加増され1000石になる。60歳
  寛文元年(1661年)綱吉舘林城主として25万石の藩主になる。  寛文元年(1661年)金田正辰舘林城代として3000石拝領。65歳
従来の所領1000石は嫡男金田正親が旗本として継承。
   寛文2年(1662年)次男金田正勝が舘林藩の神田館にて奏者番に任じられ300石拝領。
   寛文3年(1663年金田正辰病没。
   
 
 ●将軍家光の老中松平信綱・阿部忠秋に対して残した遺命
 将軍家綱が11歳で将軍に就任したことから、政治の実権を握っていた老中松平信綱・阿部忠秋が金田正辰を館林藩城代家老に出世させたと考えられる。
前将軍家光が遺命として老中松平信綱・阿部忠秋に金田正辰の栄進を託したからこそ実現した事なのである。
  •  慶安3年(1650年)病身となった徳川家光は世嗣家綱を西の丸に移し次期将軍である家綱の治政について老中と協議を重ねた。
  • 家綱は10歳の少年なので万一に備える為に、長松(後の綱重)7歳・徳松(後の綱吉)5歳を大名に封じられることが決まった。後の甲府藩主徳川綱重・館林藩主徳川綱吉となり共に25万石の大名となる。
  • 当然家老などには譜代大名の有望な子弟が選ばれるのだが、家光が金田正辰を綱吉の家老に選任するという発案に、老中松平信綱・阿部忠秋は驚かされた。金田正辰は700石の旗本で兄が直訴事件で刑死している窓際族だったのである。
  • 老中松平信綱・阿部忠秋は御側/大目付中根正盛から将軍家光の真意を知ることができた。同年9月に江戸に参上した堺の豪商金田屋伝右衛門とも面談し金田氏歴代が徳川家に忠義を尽した事実を正確に把握した。
  • 慶安4年(1651年)将軍家光が没すると、老中松平信綱・阿部忠秋は、前将軍家光の遺命として金田正辰を上記のような経緯で栄進させたのであった。政治の実権を掌握している老中二人が、前将軍家光の遺命により行う人事に誰も意義を唱えることは出来なかったのである。

 ●前将軍家光が金田正辰を栄進させ旗本金田氏の再興を図るために遺命を残したのは下記理由による。
  • 徳川家康が母伝通院の求めに応じて弟松平康元の家老として金田宗房を任じ、三方ヶ原の戦いで金田宗房は忠死を遂げた。家光の代になり松平康元の系譜を継ぐ小諸藩5万石を世嗣断絶を理由に改易にし、金田宗房の孫である家老金田房能は浪人となった。
  • 将軍家光の代に幕法違反を理由に諸大名の多くをを改易にしたために大量の浪人を生み社会不安を招いた。その結果由井小雪の乱が起きるなど社会問題が生じていたのであった。ある意味で将軍家光は晩年追い詰められていたといえる。
  • 祖父家康を敬愛する将軍家光にとって、家康に忠義をつくした金田祐勝の系譜をひく金田正末を処刑し、小諸藩家老金田房能を浪人に追い込んだことは、祖父家康に対していたたまれない思いであった。
  • 徳川家康は長年の功績に報いるため金田祐勝を伏見城に向かえ武士に戻し、祐勝の子である金田正勝を5000石の禄高を与えた。そして大阪の陣で金田備前守 正勝は伏見城城番の要職に就き、城代松平定勝の配下で豊臣氏の政治活動・軍事活動に対する諜報活動に専念した。しかし、豊臣氏が滅びると邪魔者は消せとばかりに正勝は暗殺され、正勝の子正末は隠謀により改易となった。金田正末が無実を訴えたのに、見殺しにしてしまったことは不本意なことであった。
  • 旗本金田氏の再興を側衆/大目付中根正盛と相談した結果、老中松平信綱・阿部忠秋に託すことにし遺命を残した。
 
 ●老中松平信綱・阿部忠秋は旗本金田氏の履歴を下記のように把握した。
 
  • 金田氏は信忠・清康・広忠・家康・秀忠・家光と家綱まで7代に仕え、途中正祐・正房の忠死など幾多の苦難を経て今日まで徳川家に忠勤を励んできた。
  • とりわけ金田祐勝は従兄弟の服部半蔵正成とともに、今川氏に人質だった頃の竹千代時代から仕え母の於大の方との連絡係を務めたことで信頼を得ていた。
  • 親今川派と見られた金田祐勝は桶狭間の戦いで今川義元が死ぬと活躍の場を失ってしまった。
  • 徳川家康は金田祐勝に特別任務を命じ、堺に潜伏させ諜報活動に専念することにさせた。
  • 金田屋(かなたや) という商人に扮し、伊賀忍者たちを使用人として商人・武家・貴族などに出入りさせ情報収集に専念した。
  • 家康の側近として仕えた服部半蔵正成は、堺の金田祐勝・京都の茶屋四郎次郎などの諜報活動を支援し、ネットワークによって得られた貴重な情報は大いに役だったのである。
  • 本能寺の変もネットワークの得た情報で予期されていたので、堺にいた徳川家康一行を安全に退避する準備ができていた。
  • 関ヶ原の戦いの後、子供の頃から親しい家康の母伝通院に仕えるために、金田祐勝は武士に戻り伏見城で伝通院のお役に立った。
  • 嫡子金田正勝も武士として伏見城で家康に仕えた。堺の金田屋は親族の金田常安が継承した。
  • 大坂の陣では伏見城城代だった松平定勝(家康の弟)に金田正勝は城番として仕えた。改易後松平定勝のもとに蟄居していた服部正就とともに大きな働きをしたと考えられる。
  • 大坂の陣で豊臣氏が滅ぶと同時に服部正就が謎の死を遂げ、その後間もなく金田正勝も不審な死を遂げた。
  • 服部正就の改易理由が理不尽なことから、金田正勝から家督を継承した金田正末も理不尽な理由で改易となったらしい。
  • 秀忠の勘気に触れただけで改易にされた金田正末は永きに渡って浪人生活をおくり、将軍家光の鷹狩りに直訴した正末は斬首という重い刑になった。
  • 家康の生母伝通院が金田一族の忠義を認め、家康の弟松平康元の家老にすることを望み家老金田宗房が実現した。三方ヶ原の戦いでは家老金田宗房が討ち取られる寸前の主君を助け、身代りとなって討ち取られた。康元は金田宗房の子孫を代々家老にするよう遺訓を残し守られてきた。その小諸藩5万石が改易となり家老金田房能は浪人となってしまった。
  • 先君家光は永く徳川家に忠義を励んできた金田氏の苦境を知り、金田正辰を新たに大名にする四男綱吉の家老にすることで、金田一族代々の忠義に報いることを決めた。
土井利勝が金田正末を独断で処刑したのは、徳川家康を黒子として支えた金田祐勝・服部半蔵などの諜報活動を歴史の闇に消し去ることが目的だったことは既に述べた。老中たちにとって歴史の闇に消し去ったものを元に戻すことはできなかったのである。
徳川家康に仕えた金田祐勝・正勝父子の事積を公的資料・私的資料から消し去ったことにより、金田正末刑死事件だけが目立ってしまう結果になってしまったのである。

そこで寛永諸家系図伝に書かれてる内容を訂正することで、すべてが穏便に済むようにしたのであった。
寛永諸家系図伝の内容に誤りがあったとして、下記のように金田諸家が保持している系図・先祖書などの内容を訂正させたのであった。
広忠の家臣だった金田正祐を系図上祐勝の父から兄に変更し、下記のように家康の家臣として忠死したことにしたのであった。

寛永諸家系図伝(家光の代) 老中の指導で訂正された金田系譜 (家綱の代)
 〇金田正祐

松平広忠に仕え近習となる。
天文15年(1546年)9月6日三河国上野合戦で戦死。
享年22歳。法名照寛
 〇金田正祐

徳川家康に近習として仕え
永禄6年(1563年)酒井将監忠尚が一向徒と結び家康に背く。
同年9月6日酒井将監忠尚が三河国上野城を棄て、駿河国に逃走する。
徳川方は酒井将監を追い山中(岡崎市舞木町字山中)法蔵寺(岡崎市本宿町寺山にある浄土宗寺院)付近にて戦いとなり酒井将監は敗走した。
この戦いで金田正祐は力戦するが7ヶ所の傷を負い岡崎へ戻る途中の中芝(岡崎市丸山町中芝)にて没した。享年19歳。
徳川家康はその死を悲しみ、正祐の自宅に阿部大蔵※1に寺の建立を命じる。
同年12月額田郡能見村に照光山金田寺安養院が造営され家康から5石寄進された。
将軍家光の代に更に5石寄進され寺領10石となった。

※1家康の配下に阿部大蔵はいない。広忠が正祐の死を悲しみ金田寺を建立させたのが阿部大蔵定吉だったことをそのまま引用したもの。寛政重修諸家譜では家康の家臣安倍元真を阿部大蔵に代用したが、天文15年・永禄6年の時期安倍元真は今川氏の家臣であった。


金田正祐墓

三河国上野城跡
※2

 

※2愛知県豊田市にある上野城趾の看板には酒井将監が城を棄てたのは永禄8年と書かれている。

 
 ●老中松平信綱・阿部忠秋によってリセットされた金田家譜
  永禄6年説を金田諸家が家譜に反映させたことで、老中松平信綱・阿部忠秋は金田正辰を栄進させるのに支障は無くなったと判断した。
  • 永正6年に東照宮(家康)が酒井将監忠尚を攻めた戦いにて、金田正祐は東照宮(家康)に忠義の戦死を遂げたが19歳という若さだったので子がなく絶家となってしまった。
  • 東照宮(家康)は金田正祐の戦死を悲しみ金田寺を創建するとともに金田正祐の弟祐勝に継承させた。
  • その後祐勝・正勝・正末と三代続いたが、正末は二代将軍秀忠の勘気に触れ改易され、三代将軍家光に直訴し偽りを申したので死刑に処せられた。 正末が刑死したことで金田正祐の系譜を引く本家はは絶家となった。
  • 東照宮(家康)が創建し5石を寄進した金田寺に二代将軍家光が5石を寄進するなど、絶家となった正祐系金田氏を晩年家光が惜しむ気持ちになっていた。大猷院(家光)が金田氏代々の忠義を惜しんだことを忖度し金田正辰に命じ新たなる金田氏を再興させることにした。
  • 寛文元年(1661年)新たに館林藩主となった徳川綱吉の家老に金田正辰は就任し知行高3000石を有した。
松平広忠(家康の父)に対する金田正祐の忠死を、無理やり家康時代に起きた出来事にして金田諸家の家譜を書き換えさせたのであった。
 ●リセットされた金田家譜が金田諸家に及ぼした影響
 老中たちによってリセットされた金田家譜は、金田正辰のみならず正延系金田氏・宗房系金田氏にまで及んだのであった。
金田正辰は父正勝は、金田家譜では正藤に改名された。
元服後別名だった次男を正勝に改名させたのは、金田正辰が家譜にて父を正藤と呼ぶことにしたことと関連していることは間違いない。
金田正勝は将軍御目見えが35歳と遅かったのが幸いし、改名前の名前は消し去られ「正勝」が定着した。
金田正勝が館林藩城代家老から将軍綱吉の側衆に栄転したことで、祖父正藤の名前のこと(本当は正勝だった)は忘れ去られた。
金田家譜では「相知不申候」が連発され、三河歴代の事積の多くは葬り去られたのであった。
金田家譜の内容は金田一族で定着し、360年以上経った今日ではこれに書かれている内容が真実と信じる人が多い。
 
 
 
     
 
 
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