三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第三章 金田正房と金田正祐その2      

第一章 第二章
 
 金田正房・正祐兄弟が近臣として仕えた松平広忠は、尾張の虎と呼ばれた織田信秀に対抗するために、駿河・遠江の太守今川義元の支援を必要としていた。父である金田正頼の代から今川氏との同盟のために尽力するのであった。
しかし、それは桶狭間の戦いで今川義元が敗死したことで、後世に評価を受けることは無かった。
その後の織田徳川同盟によって親今川派と見られた三河金田氏に暗い影が差されることになる。

 
金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
       └  金田正祐  ―  金田祐勝  ―  金田正勝(正藤)  

 (6)金田正頼の人生を振り返る

 
 金田正頼は生没年不肖など三河金田氏歴代でも影の薄い存在だった。しかし、上総金田氏歴代記・三河金田氏の実像で研究を進めてきた結果、重要な役割を果たした人物であることが判明した。
  • 関東の古河公方と小弓公方で争いに敗れて三河国に追放された永正14年(1517年)には20歳前後であった。
  • 寛政重修諸家譜の金田正祐について天文15年(1546年)三河国上野の役で戦死享年22歳と書かれていることから、三河国幡豆郡一色村に移ってから妻帯し、嫡男正房次男正祐が生まれたと推定される。
  • 大永3年(1523年)安祥城主松平信忠が隠居し幡豆郡にある称名寺にて出家したのが縁で、金田正頼は信忠の嫡男で安祥城主となった松平清康に仕官することになった。
  • 流人のような立場で小弓公方から三河国へと追放されたが、一色村に住んだ金田正興・正頼親子は東条城主吉良持清のお世話になっていたと考えられる。松平清康は吉良持清から偏諱を受けて清康と称したことからもわかるように、安祥松平家と吉良氏の繋がりが金田正頼の仕官につながったのであった。
  • 天文4年(1535年)守山崩れで松平清康が殺害されると、松平信定が岡崎城を乗っ取り幼主松平仙千代は岡崎城を僅かな家来と脱出する。仙千代は東条城主吉良持広から偏諱を受けて広忠と称し、吉良氏の所領のある伊勢国神戸に逃避した。一行の中に金田正頼がいたことが縁で、正頼の子孫が徳川家の旗本として代々続くことになるのである。
  • 松平広忠の伊勢国逃避の首謀者である阿部大蔵定吉は、東条城主吉良持広に顔の利く金田正頼を活用したのである。このことは(2)で既に述べた。
  • 天文5年(1536年)伊勢国に逃避した松平広忠は11歳。伊勢国神戸で広忠の警備・お世話をしていた金田正祐は12歳。同じ任務だった金田正房は14歳前後だったと考えられる。服部半蔵保長とともに伊賀国に向かった頃の金田正頼は40歳ぐらいだったのである。
 40歳と言えば働き盛り。伊賀国の千葉氏恩顧の土豪から支援を得て、伊賀忍者を配下にしたことで金田正頼の活躍の場は広がった。
実質的には松平広忠配下の伊賀忍者たちの頭となった服部半蔵保長と金田正頼は深い絆で結ばれた。
天文6年(1537年)松平広忠が今川義元に援助を乞い牟呂郷を拠点に反撃を開始することになる。
松平広忠の使者として今川氏側に戦況の報告や支援の要請などの働きをすることで、金田正頼は今川氏家臣との人脈ができたと考えられる。

松平広忠が今川義元の支援で岡崎城に帰還後、金田正頼の息子である正房・正祐兄弟は広忠の近臣として仕えるが、どちらかといえば今川氏との同盟を重視する立場だったのである。
これから正房・正祐兄弟のことを検証するが、正房が竹千代を駿府に送る護衛の責任者になったのは、広忠の家臣の中で今川氏から最も信頼されている人物だったからである。25歳前後で今川氏から信頼された原因は、父正頼が駿府に行った時に同行し今川氏の家臣との交流があったことによるものである。
正房・正祐兄弟の忠死後、その子である祐勝・宗房の代になっても親今川の立場だったので、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし織田・徳川同盟が成立することで、徳川家康は二人を近臣として仕えさせることはできなくなった。このことは第四章金田宗房と金田祐勝で更に詳しく検証する。 

 
  (7)徳川家康が織田・徳川同盟を絶対視

 
 40代の働き盛りで松平広忠の伊勢国逃避・岡崎城帰還に大きな働きをしたと考えられる金田正頼だが、歴史的資料や金田家譜などには事積など何も残っていないのである。
第二章(6)松平広忠の岡崎城脱出・伊勢国逃避・岡崎城帰還において歴史改ざんが行われた にて述べているとおり、この時期の歴史的資料が意図的に改ざんされた為に、金田正頼に関する正確な情報が後世に伝わらなかったことによるものである。
  • 桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、徳川家康が織田信長と同盟を結び今川氏と敵対関係になってしまった。
  • 松平広忠が岡崎城に帰還できたのは今川義元の絶大な支援があったことによるものである。しかし、「恩を仇で返すように徳川家康が今川氏と敵対関係になった行為を、できるだけオブラートのように包み隠したい。」というのが家康の本音であった。
  • 徳川家康は織田信長との同盟関係を絶対視していたので、同盟関係に少しでも悪影響がないように情報統制が行われた。
  • 徳川家康の代に生き残っていた阿部定次が歴史改ざんの中心人物だったことは間違いなく、織田信長との同盟関係に響きそうな事柄は抹殺されたと想像される。
  • この歴史改ざんによって松平広忠の功臣であった阿部大蔵定吉について多くの功績が削除されてしまい、金田正頼・服部半蔵保長にいたっては何も記録が残っていない状態になってしまったのである。
金田正頼については上記事由により歴史上抹殺されてしまったが、その子孫が松平広忠及び徳川家康のために活躍する土台を築いた人物なのであった。



 (8)金田正頼は次男正祐の嫁に服部半蔵保長の娘を迎える

  金田正房と金田正祐を語るにはその父である金田正頼を充分に検証する必要があった。
上総国出身で松平清康に仕えたばかりの金田正頼が、守山崩れ後に幼主松平広忠が伊勢国に逃避し今川氏の支援で岡崎城に帰還するまでに充分な働きがあったからこそ、正房・正祐兄弟は成人した松平広忠の近臣として仕えることができたのである。
 
  40代の働き盛りだった金田正頼は岡崎城に帰還するまでに不慮の死を遂げたと推定される。
このような事態を予期していた為、金田正頼は次男金田正祐に服部半蔵保長の娘を嫁にすることを約束し、服部半蔵保長に息子である正房・正祐兄弟のことを託したのであった。苦労をともにしてきた阿部大蔵定吉も正頼没後、二人のことを世話してくれたに違いない。金田正祐が服部半蔵保長の娘を嫁にもらったことで金田氏と服部氏は縁戚関係になり、正祐系金田氏に多大な影響を残すのであった。

若くして父を失い、親族を三河国に持たない金田正房・正祐兄弟にとって、金田正祐の義父服部半蔵保長とその一族は頼もしい応援団となったのである。
金田正頼の家来として仕えた伊賀忍者が正房・正祐兄弟に別れ仕えたと考えられ、二人が広忠のために忠死を遂げる重要な任務を負う背景には伊賀忍者の存在があったからなのである。
 金田祐勝・正勝(正藤)の代になると徳川家康の命で堺を拠点に、金田屋(かなたや)という商人に扮して情報収集など諜報活動に従事したのであった。伊賀忍者たちは手代や出入りの行商人に扮して行動をともにしていた。徳川家康の側近だった服部半蔵正成とともに黒子として天下取りに貢献するのだが、二代将軍秀忠の代になると黒子の存在を邪魔なものとして歴史から抹殺されてしまった。
このことは第五章将軍家光と三河金田氏終焉にて検証する。

金田正辰が徳川綱吉が藩主だった館林藩の城代家老に栄進し、その子金田正勝は城代家老を20年近く務め、更に側衆として将軍綱吉に5年間仕えた頃が旗本金田氏の全盛期と言えるかもしれない。
金田正勝以降の金田家譜においては、三河金田氏歴代(金田正頼~金田正末)について「相知不申候」という記述が多く、金田家譜から三河金田氏の実態を把握することは困難となったのである。このことに至った経緯も第五章で詳しく述べる。

 
庄之助 (金田氏と服部氏との深い繋がりについての謎を解くパスワード)
  金田正勝は金田正辰の弟金田正孝(金田正勝の叔父)に500石の旗本として別家を起こさせたことを特筆したい。
金田正孝は兄金田正辰を初代として、正勝の子経広を養子にして家督を継承させているのである。(以後正孝系金田氏と呼ぶ)
正辰系金田氏は駒込吉祥寺を菩提寺にしており、金田正勝は下谷高岩寺を菩提寺として正勝系金田氏をおこした。このことからも、金田正辰を初代にする分家が高岩寺にあることが不自然なのである。

正孝系金田氏では金田惣八郎正辰を「中興の祖金田庄助正辰」と過去帳に書かれ今日に至っている。
  • 霊光院殿常無道叶居士 寛文9年(1669年)3月21日 中興初代庄助正辰
  • 孝立院殿松室珪樹大姉 承応元年(1652年)12月14日 正辰母堂
金田家譜では、寛文3年(1663年)8月3日没 金田惣八郎正辰 と記されている。
金田諸家に伝わる家譜と明らかに違っていながら、金田正勝の一門として高岩寺を菩提寺にしている。旗本金田氏家史研究に心血を注いだ故金田近二氏さえも謎を解くことはできなかったのである。
下谷高岩寺(現巣鴨高岩寺)で最古の戒名であり、金田正勝にとって父・祖母の霊を祀るのには特別な想いがあったはずである。
庄助正辰の命日は七回忌の年であり、吉祥寺で行われる前の3月に高岩寺で法要が行われたことによると推定された。
そして三河金田氏研究の結果、金田正辰を中興の祖とする意味庄助に(正祐を祖)とする意味を込めて過去帳が書かれたと判断した。

第五章将軍家光と三河金田氏終焉で金田正祐の忠死を家譜上で天文15年から永禄6年に書き換えた経緯を述べている。
金田正祐から正辰・正勝まで続く歴代について、金田家譜では「相知不申候」が連発され謎だらけとなってしまった。
寛永諸家系伝・寛政重修諸家譜に金田正辰の弟として正成が記されている。金田正辰の甥である金田正成(父は金田久助正盛)であることが明白であるにも関わらず、屁理屈をこね寛政重修諸家譜に金田正成を弟として記したのは、金田正孝の存在と正孝系金田氏を公的資料に記録させない働きがあったと考えられる。
寛政重修諸家譜の編者が寛永諸家系図伝で金田正辰の甥金田正成を弟として書かれて誤りに気付きながら、訂正することなく後日の証を待つという慎重な態度だったのは、正孝系金田氏の存在を覆い隠す必要があったからなのである。

「正孝系金田氏の過去帳に記された「庄助」には、正孝系金田氏の存在を内密にしてまで守らなければならな秘密があった。」

Wikipediaの服部半蔵保長の事項では服部半蔵保長の娘が金田庄之助室と書かれている。
金田庄之助は金田正祐のことを指すと直感した。
金田正祐が服部半蔵保長の娘を嫁にもらったことで金田氏と服部氏は縁戚関係になり、正祐系金田氏に多大な影響を残すことになった証であった。
この庄助(庄之助)こそが、大坂の陣で豊臣氏が滅ぶ時期に服部半蔵正就と金田正勝が前後して謎の死を遂げ、金田氏と服部氏の関係が歴史の闇に消された後に、両家の関係を謎解きをするキーワードなのである。

「中興の祖金田庄助正辰」として過去帳に残すことができたのは、五代将軍徳川綱吉の意向が働いた可能性が高い。
五代将軍徳川綱吉は三河金田氏の真実を知るためのキーワードになるものを他にも残してくれたのである。
河内国金田村(カナタムラ)を館林藩領としたのである。現在の大阪府堺市の中に群馬県の飛び地があるという状態が明治維新まで続くのである。
五代将軍綱吉によって上記状態が変更できないような縛りがあったので幕末まで続いたと想像される。




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