三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第三章 金田正房と金田正祐その3    ❸   


第一章 第二章 第四章
 
 金田正房・正祐兄弟が近臣として仕えた松平広忠は、尾張の虎と呼ばれた織田信秀に対抗するために、駿河・遠江の太守今川義元の支援を必要としていた。

 
金田正興 金田正頼 金田正房  ― 金田宗房  金田良房  
         
       └  金田正祐  ―  金田祐勝  ―  金田正勝(正藤)  

 (9)金田正祐と金田寺

 金田正祐について寛政重修諸家譜では下記のように書かれている。
 
正祐 惣八郎
松平広忠に仕え近習に列する。天文15年(1546年)9月6日三河国上野役で戦死享年22歳。 法名照観
 後に徳川家康が金田正祐の忠死を嘆き、額田郡能見村に葬られていた旧宅跡に安部大蔵元真に命じて金田寺を建立し寺領を寄付する。
 慶安元年(1648年)徳川家光より寺領10石の御朱印を賜う。その後金田寺が大林寺近くに移ったので改葬された。
 
  • 実際は徳川家康でなく家康の父である松平広忠の代におきたこと。
  • 広忠が金田寺建立を命じたのは重臣阿部大蔵定国。 照光院金田寺安養院の開基が天文15年とされ、松平広忠の葬儀が大林寺で行われた際に末寺金田寺開山儀覚利玄の名前が残っていることが確かな証拠。。
  • 上記の安部元真は天正15年には今川家家臣であった。
  • 金田正祐忠死が家康の時代のこととされた経緯は、第五章将軍家光と三河金田氏終焉にて詳しく検証する。
  • 延享3年(1746年)になると安養院に金田諸家代表数人が押しかけて金田正祐の墓の没年を永禄6年と記すために墓を建て替えたのであった。 最初天文15年建立と記された墓石があるのを、改ざんされた金田家譜との矛盾に気づいた結果行われたもの。
 
 金田正祐について研究した結果、下記内容が史実であったと考えられる。それにともない系図も書き換えられなければならない。
すべては第五章将軍家光と三河金田氏終焉にて詳しく検証する。
 
正祐 惣八郎
 松平広忠に仕え近習に列する。天文15年(1546年)9月6日三河国上野役で戦死享年22歳。 法名照観
 天文14年より織田方に与した上野城主松平清定(岡崎城を乗っ取った松平信定の子)を松平広忠は攻めてきたが、苦戦を強いられてきた。そこで敵方を城からおびき出す陽動作戦を開始した。囮として城に近付き鬨の声をあげ敵を誘い出す部隊の先鋒を務めたのが金田正祐であったのだ。この戦いで松平清定は敗走したが、金田正祐・中根甚太郎は戦死を遂げたのであった。
 松平広忠は金田正祐の忠死を嘆き、阿部大蔵定国に命じて額田郡能見村の旧宅跡に金田寺を建立した。
 慶安元年(1648年)三代将軍徳川家光は秀忠の代に改易されていた金田氏について調査し、金田正祐の忠死に報いるため金田寺に寺領10石の御朱印を賜う。その後金田寺が大林寺近くに移った時に正祐の墓も改葬された。

 

 
 
金田寺(安養院)本堂
 
金田正祐の墓
 

照光山金田寺安養院全景 岡崎市魚町1-21
 金田寺は儀覚利玄は大林寺の末寺として開山された。天文18年(1548年)3月6日に松平広忠が織田信秀の刺客に襲われ亡くなると、大林寺で行われた広忠の葬儀の記録に大林寺の末寺金田寺開山儀覚利玄の名前が残っており、天文18年に金田寺は存在していたことは明らかなのである。残炎ながら戦災で金田寺の建物・寺宝がことごとく焼失してしまったことは残念なことである。
 
 (10)金田正祐の年譜(関連も含む)

 
  • 大永5年(1525年)三河国安祥城主松平清康に仕えた金田正頼の子として生まれる。
  • 天文4年(1535年)12月守山崩れで主君松平清康が暗殺される。
  • 天文5年(1536年)1月清康の遺児仙千代伊勢国へ退避。仙千代元服し広忠と称する。父金田正頼・兄金田正房とともに従う。12歳
  • 天文9年(1540年)服部半蔵保長の娘を嫁にして嫡子祐勝生まれる。16歳
  • 天文10年(1541年)主君松平広忠が刈谷城主水野忠政の娘(於大の方)と結婚。広忠16歳・於大の方14歳。
  • 天文11年(1,542年)主君夫妻に竹千代(後の徳川家康)誕生。
  • 天文13年(1544年)松平広忠が正室於大の方と離縁。金田正祐が護衛隊を指揮をして於大の方を刈谷城へ届ける。20歳
  • 天文15年(1546年)三河国上野の役で戦死。22歳
 

 (11)於大の方(家康の生母)と金田正祐

 
金田正祐は伊勢国へ退避した幼君広忠と年齢が近かったので、いつでも身代わりとなって死ぬ覚悟で仕えてきた。
岡崎城に帰還後も広忠の近習として信任を得ていたので、嫁いできた於大の方からも信頼されていた。
於大の方の兄水野信元が織田方に寝返ったため、松平広忠は竹千代の生母於大の方と離縁しなければならなかった。
刈谷城に帰る於大の方を送るための50人からの一行を率いたのは、当時20歳だった金田正祐である。補佐役として重臣阿部大蔵定吉の弟阿部定次(30代後半と推定・後に阿部家夢物語の著者になる)が同行した。
改正三河後風土記に書かれているので、下記の通り要約してみた。山岡荘八著「徳川家康」別離にも美しい文章で記されているが改正後風土記を参考にしたと推測される。

 改正三河後風土記を要約
 
  • 於大の方は涙ながら岡崎を出発し刈屋(刈谷城)に向った。
  • 金田惣八郎正祐・阿部四郎兵衛定次他武士50名がお供をした。
  • 松平領と水野領の境界に於大の方を乗せた輿が来た時に、於大の方はお供できた全員に自分を残して退避することを勧告した。
  • 金田・阿部両名をはじめお供の者たちは、「何故そのようなことをおっしゃるのですか。主君広忠様から道中警護して無事刈屋まで届けるように命じられております。最後までお供させてください。」と嘆願した。
  • 於大の方は「刈谷城主水野信元(於大の方の兄)は短慮の人なので、刈谷城まで送り届けても切り殺されたりして、皆は無事岡崎城に帰還できないだろう。離縁となっても竹千代の母ならば、皆を身内と思っており他人事では無いのである。」と返答した。
  • 更に「皆が殺害されたならば、竹千代が成長した時にこの件を聞いて伯父水野信元を恨むことは間違いない。又両者が将来和睦を結ぼうとしても和睦の妨げになるので、何が何でも皆に岡崎城へ無事に戻ってほしい。」と涙を浮かべ皆を説得した。
  • 金田惣八郎正祐・阿部四郎兵衛定次をはじめとするお供の者たちは、於大の方の申し出に従うことにした。
  • 小川領(近郊の地域の名称?)の農民十四、五人を呼び出し、於大の方の輿を刈谷城へ届けるように依頼をした。
  • 涙を浮かべ於大の方を乗せた輿を見送ったお供の者たちは、立ち去り難かったので片山陰の林の中に身を隠して様子を伺った。
  • 刈谷城から高木善次郎清秀・水野太郎作清久など30人の一行が迎えに参った。
  • 馬から降りた一行は、於大の方を乗せた輿の前で蹲踞(そんきょ)した。そして「岡崎から来たお供の者たちが誰もいないとは。殿から一人残らず討ち取れと命令を受けていたのに。」と申すのであった。高木・水野の一行は羽織の下に甲冑で武装していた。
 

 (12)於大の方と金田正祐をつなぐ強い絆
 
 松平広忠は幼少時より近侍し、成人しても近臣として忠義を尽くす金田正祐を深く信頼していた。
於大の方も嫁いできて、夫の広忠と1歳年上で仕事のできる家来である金田正祐には、夫と同様に信頼を寄せていた。
広忠が於大の方を離縁し実家に戻す任務を、夫婦から信頼されていた金田正祐に託したのも於大の方への配慮だったと思われる。
於大の方も兄である刈谷城主水野信元が、送り届けたお供たちを皆殺しにしたら、夫広忠や子の竹千代に申し訳ないという気持ちで、皆に退避してくれと申し出たのである。
金田正祐も父から継承して配下にした伊賀忍者たちを刈谷城下に潜伏させており、於大の方の懸念が現実となる懸念を抱いていた。
近隣の農民に送らせたのは適切な判断だったのである。
於大の方にとって金田正祐は岡崎衆で最も印象深い存在で、2年後に金田正祐が戦死したことを知った時には、広忠と同じくらい悲しみを感じたであろう。第四章で於大の方と正祐の子である祐勝について詳しく検証する。
 
   
 
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