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第三章 金田正房と金田正祐その4 ❶ ❷ ❸ ❹
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金田正房・正祐兄弟が近臣として仕えた松平広忠は、尾張の虎と呼ばれた織田信秀に対抗するために、駿河・遠江の太守今川義元の支援を必要としていた。天文16年(1547年)嫡子竹千代(6歳)を人質として預けることになった。しかし、竹千代を護衛する一行は、途中織田方に内通した戸田康光の謀略で竹千代を奪われる事件が発生する。
この護衛隊を率いたのが金田正房で命を落とすことになる。正確な年齢は不明だが享年は25歳前後と思われる。
松平広忠は金田正房・正祐兄弟という忠臣2人を失い、広忠自身も天文18年(1549年)暗殺されてしまうのである。享年24歳であった。 |
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金田正興 |
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金田正頼 |
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金田正房 |
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金田宗房 |
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金田良房 |
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└ |
金田正祐 |
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金田祐勝 |
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金田正勝(正藤) |
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(13)金田正房の人物像
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金田正房は竹千代人質事件に関連して死亡したことを多く語られ、松平広忠に仕えたぐらいしか記録がのこっていない。
このことは第五章将軍家光と三河金田氏終焉にて詳しく検証するが、金田正祐に関連して系図を書き換えられことの影響が大きい。
金田家譜で金田正祐を金田正房の次男としてしまった為、山岡荘八氏は「徳川家康」で金田与三左衛門正房を40歳前後の忠義に篤い頑固な三河武士のイメージで書かれている印象です。実際は25歳前後の若者だったのです。
上総金田氏歴代記で研究した結果、祖父金田正興や父金田正頼の年齢を推定できたことができた。上総国を追放された時の正興・正頼親子の年齢をから勘案し、が三河国一色村で隠遁生活をしている間に生まれた正房・正祐兄弟は松平広忠よりわずかに年上の存在であった。
(6)金田正頼の人生を振り返るで述べたが、岡崎城を奪われ伊勢国へ逃れた幼君松平広忠を「命に代えても守るように」という父正頼の命令に、少年だった正房・正祐は従い警護とお世話に専念してきた。
松平広忠が岡崎城に帰還した後も、二人は広忠の近習として忠義に励んできたのである。
松平広忠の時代は今川義元と同盟を結び織田信秀の圧力に対抗した。ところが徳川家康の時代は織田信長と同盟して今川氏真を攻めることになり、広忠時代の功臣に対する評価が変わってしまったのである。
このことが金田正房にも影響し広忠近臣としての事積が家康の時代に公的な記録として残らなかった理由なのである。
更に弟正祐を正房の次男とする系図書き換えにより、正房や宗房の年齢は正祐の年齢と整合性を図る為、意図的に隠蔽されてしまったのである。
そのために、竹千代人質事件以外特筆するものが無くなってしまったのである。
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(14)金田正房の忠死(織田信秀による殺害説)
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金田正房 初め頼房 小太郎 与三左衛門 (寛政重修諸家譜記載事項を要約) |
- 松平広忠に仕え後に竹千代に近侍する。
- 天文16年(1547年)織田信秀が三河国に攻め込み、三河国の諸豪族が織田方に寝返った。
- 危機的状況となった松平広忠は今川義元に援軍を要請し、人質として竹千代を送る必要が生じた。
- 金田正房も竹千代に従い駿河国に向ったが、途中で織田信秀に内通した田原城主戸田弾正少弼康光に不意を突かれ、一行は織田方に渡され尾張国へと移送したのであった。。
- この状況に驚いた金田正房は竹千代を三河国に戻そうと画策したが、織田方に計略が露見し殺害された。
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◎武徳大成記では、一行が田原城主戸田弾正少弼康光によって田原から熱田浦へと向ったことなど、より具体的に記述されている。 |
武徳大成記での記述 |
- 天文16年(1547年)織田信秀が三河国に攻め込み危機的状況となった松平広忠は今川義元に援軍を要請し、今川義元は加勢を送る条件として竹千代を人質にすることを要求した
- 三河国から駿河国まで敵が多く危険な為海路で西浦から田原(老津)まで行き、縁戚関係の田原城主戸田弾正少弼康光の協力を得て竹千代を送ることになった。
- 田原城主戸田弾正少弼康光は、子供の戸田五郎兵衛 が織田信秀から青銅1000貫を受けることで織田信秀に内通していた。
- 竹千代一行を乗せた船は、田原からそのまま西に向かい尾張国熱田浦に到着した。
- 熱田に到着した一行は加藤図書助の屋敷に収容された。
- この状況に驚いた金田与三左衛門正房は竹千代を三河国に戻そうと画策したが、織田方に計略が露見し殺害され三田橋(歳断橋)に首を晒された。
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加藤図書助屋敷跡(名古屋市熱田区伝馬2‐13)
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裁断橋(名古屋市熱田区伝馬2‐5)
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- 金田正房の首が晒された三田橋は裁断橋のこと。
- 当時精進川の東海道筋に架かっていたが、大正15年精進川は埋め立てられてしまった。
- 平成5年に姥堂が再建された時に、姥堂の池に架かる橋として裁断橋は復活した。但し、付近に精進川の面影を残すものは何も無い。
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金田家譜での記述 |
- 天文16年(1547年)織田信秀が三河国に攻め込んだので松平広忠は今川義元に援軍を派遣してもらう為、今川義元に竹千代を人質として差し出すことになった。
- 三河国から駿河国まで竹千代を送るお供として金田与三左衛門は随行したが、織田信秀と通じた田原城主戸田弾正少弼康光の謀略で竹千代一行は尾張国へ移送された。。
- 金田与三左衛門正房は(三河国へ帰らせるため)竹千代一行から外された。
- しかし、金田与三左衛門正房は尾張国に留まり、竹千代を遊びに事寄せて外出させ三河国に逃がそうと画策したが、織田方に計略が露見し正房は殺害された。
- 織田信秀の怒りはすさまじく、殺害された金田与三左衛門正房の遺体を三田橋(歳断橋)に磔にして晒された。
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◎金田家譜では、金田与三左衛門正房は竹千代一行とともに熱田まで移送され、尾張国に留まり(加藤図書助の屋敷で)竹千代のお側に仕えた。しかし、竹千代を三河国に戻そうと画策していたとされる。
事前に尾張国内に松平広忠配下の忍者が諜報活動をしていたので、解放された金田与三左衛門正房とすぐに接触し、竹千代が加藤図書助の屋敷に束縛されている事実が、岡崎や駿府へと素早く届いていたということなのである。
織田信長は金田与三左衛門正房の遺体をわざわざ磔にすることで、竹千代を取り戻そうとしてもこのような羽目に陥ると岡崎・駿府を脅かしたのであった。
次に松平記などに書かれている潮見坂で竹千代を奪われたとする説を紹介するが、多くの疑問の声が上がっている。 |
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(15)金田正房の忠死 (潮見坂での争奪戦で討ち死)
三河国は松平領、遠江国は今川領という思い込みからできた説で、当時の実情からすればありえないのである。
岡崎を出発した竹千代一行は西浦から老津に海路をとり、上陸後岡崎からそのまま潮見坂へ向うことは無いのである。
豊橋市にある吉田城は今川領で、城代として小原肥前守鎮実が置かれ周辺に影響力を行使していた。本来なら老津でなく豊橋市にある湊に寄港し、今川方の兵による護衛に守られて駿河国に向かうのが最も安全なのである。
老津に寄港したこと事態が戸田弾正少弼康光の謀略にはまってしまったことになる。もし老津から潮見坂に向ったならば、途中から合流してくる今川氏の兵によって事件は防げたはずである。
老津から竹千代一行は船で熱田浦へ向かうように強制され織田信秀の支配下に入ったと考えるのが妥当と思う。 |
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松平記・改正三河後風土記を要約
- 天文16年(1547年)織田信秀から圧迫を受けていた松平広忠は今川義元に援軍を要請し、代償として嫡子竹千代を人質として今川義元に預けることになった。
- 竹千代には金田正房はじめ28名が同行し、海路で西浦から田原(老津)まで行き、そのあとは陸路で駿河国を目指した。
- 遠江国に入ったばかりの潮見坂で戸田弾正少弼康光が、竹千代のお供をしていた金田与三左衛門正房ら数人を斬り、竹千代を誘拐してしまった。竹千代は近くの浜から船で尾張国へ届けられた。
前年に吉田城を今川義元に奪われた戸田弾正少弼康光には、織田信秀と内通する動機が充分あったのである。
今川方も戸田氏の動きを警戒しており、自由に兵を連れて潮見坂まで戸田弾正少弼康光が行くことは出来なかったろう。
潮見坂の戦闘には否定意見が多い。
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但し、作家山岡荘八死は「徳川家康」潮見坂で竹千代が潮見坂で戸田弾正によって奪われ、金田与三左衛門正房非業の死を |
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(16)事件後の世界
- 織田信秀は竹千代を人質に広忠を脅迫するが、広忠は屈せず今川義元との同盟を強化する。
- 天文18年(1549年)松平広忠は24歳で病死となっているが、織田信秀の放った刺客に暗殺された可能性が高い。
- 同年安祥城の織田信広(信長の庶兄)を生け捕りにした太原雪斎は、織田信秀に竹千代との人質交換を提案。信秀が応じたので竹千代は今川義元の人質となった。太原雪斎が学問の師となり、祖母華陽院(於大の方の母)が成人までの8年間育成にあたった。人質としては人間形成に恵まれた時代を過ごした。
- 永禄3年(1560年)於大の方は訪れた徳川家康(松平元康)に、忠死した金田与三左衛門正房に心うたれ、正房の嫡男金田宗房を家康の弟松平康元の家老にすることを請うた。金田宗房は家老として三河国中山に300石を賜った。
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