惣年寄由緒書 嘉永6年(1853年)正月 |
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由緒書 |
金田駒之助 |
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上総国勝見城主金田左衛門太夫信吉より五代金田靭負宗房倅 |
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(初代) |
金田新八郎 |
(二代) |
金田治右衛門 |
剃髪仕 宗乙 |
(三代) |
金田治右衛門 |
剃髪仕 久意 |
(四代) |
金田九郎兵衛 |
剃髪仕 宗味 |
(五代) |
金田伝右衛門 |
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(六代) |
金田治右衛門 |
剃髪仕 浮雲 |
(七代) |
金田伝右衛門 |
剃髪仕 浄貞 |
(八代) |
金田庄右衛門 |
剃髪仕 柳山 |
(九代) |
金田治右衛門 |
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(十代) |
金田庄右衛門 |
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(十一代) |
金田伝右衛門 |
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(十二代) |
金田伝右衛門 |
金田治右衛門に改称 |
(十三代) |
金田伝右衛門 |
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(十四代) |
金田駒之助 |
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上総国長柄郡金田庄金田小太夫末裔金田靭負宗房軍功有り。三河国山中法蔵寺に葬られる。二男の金田総八郎正祐も軍功有り。三河国岡崎金田寺安養院に葬られる。 |
金田屋歴代の列記に関する説明
- 最初に金田靭負宗房倅を初代とすることを記し、金田屋歴代当主を列記してるが何代目かが記してないので、理解しやすいように左側に何代目かを記した。
- 二代目金田治右衛門(後の常安)の代に、幕府の意向に沿って三方ヶ原の戦いで忠死した金田靭負宗房の遺児が金田屋の初代としたことで糸割符仲間に加わり、堺の惣年寄に任じられるほどの豪商として
- 実際は金田信吉より宗房と同じ五代目に当たる金田祐勝が初代であることは代々暗黙に伝わっていたので、金田宗房と金田正祐を併記することで祐勝が初代であることを暗示した可能性が高い。
- 旗本金田氏の家譜では、桓武平氏良文流金田小太夫頼次を祖とすることを強調しているが、商人である金田屋の家譜では金田小太夫の末裔とあっさり書くにとどまっている。上総国には金田荘はなく金田郷を間違えたもの。
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初代 金田新八郎 |
元亀年中和泉国大鳥郡堺宿院山之際川之端而地面願請金田治右衛門相改住居仕事 |
金田屋初代新八郎に関する説明
- 元亀年中(1570年~1573年)としているのは、何らかの理由で現在の堺市堺区宿院町付近に移り商人としての本格的な活動を始めた時期を曖昧にするための手法。
- 元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いで金田宗房は主君松平康元(家康の異父弟)を救うため身代わりとなって討死を遂げた。松平康元は2歳だった宗房の嫡男良房を大事に育て家老に任じるよう遺命を残した。このことから初代が宗房の子であったら、この時期に堺に店を構える話は無理があり、曖昧にせざるを得なかった。
- 金田屋の初代は金田惣八郎祐勝であり、それを隠すようにとの幕府の意向にそって金田宗房の倅が堺の商人に引き取られ商人として大成したイメージが作り出された。
- 金田惣八郎祐勝について第四章で詳しく述べてきたが、河内国金田(かなた)村にて商人として活動を開始し、配下の伊賀忍者を従えて德川家康のために諜報活動を開始した。当初は金田新八郎と名乗った。
- 当初は田舎大名である家康のために堺の物品・世相・噂話などの情報収集が目的だったが、30代になり堺に店を構え金田治右衛門と称するようになると、諜報活動もより高度なものになったと推定される。
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二代 金田治右衛門 |
南本郷大年寄相勤中其後剃髪仕川端庵宗乙改自川端町呼習町名相成申事
大権現様・台徳院様
御上洛度々御出迎御目見中上事
慶長12年(1607年)亡父遺命依湯屋町寺町観音寺中古寺荒廃をよい罷在地面一宇新建仕度願上御聞済被成下皆
造成就仕治右衛門義常安名乗申付則常安之二字を以寺号仕常安寺相唱基立之且越御座
元和9年(1623年)8月堺御政所江
台徳院様・大猷院様御成之節御出迎献上物差上御礼奉申上事 |
金田屋二代目治右衛門に関する説明
- 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し天下人としての立場を確立した。
- 慶長6年(1601年)大坂城西の丸から伏見城に移り徳川家康が政務を執るようになると、金田祐勝は商人から武士に復帰し伏見城で家康に仕えるようになる。諜報活動をしていた配下の伊賀忍者たちも伏見城に移り家康に臣従する。
- 嫡男金田正勝は父に従って伏見城で家康に仕え旗本の身分になる。引き続き大坂城の豊臣氏を監視する諜報活動に専念する。
- 金田祐勝は二男に金田屋を継がせ、金田治右衛門を名乗らせる。諜報活動は無くなり純粋な商人としての活動に専念出来ることで、糸割賦仲間に加わり御用商人として更なる発展を遂げることになります。
- 蓮如の時代より堺は本願寺との結びつきが強く、金田祐勝は豊臣秀吉によって門主を退隠させられた教如上人に近づき家康との連携を働きかけている。そのかいがあって関ヶ原の戦いが終り東本願寺が成立する。
- 上記のようなことから金田祐勝は浄土真宗大谷派に宗旨替をし、嫡男正勝も継承した。
- しかし、祐勝の父正祐の代には浄土宗であったことから、遺命として二男金田屋治右衛門に浄土宗の寺を建立し檀家になることを残した。
- かって心光山観音寺と呼ばれ大伽藍だったが、衰退して本坊観音寺と塔頭白庭庵を残すのみとなっていたのを、慶長12年(1607年)金田屋常安が発起人となって、融誉浄圓大徳を開山とする常安寺を建立した。
二代金田治右衛門が常安と名乗りそれを寺号とした。
- 常安寺の紹介で金田屋常安を豊臣氏の遺臣と記されているが、由緒書には何も記されて無いので事実と相違していると判断される。金田祐勝が徳川氏の為諜報活動に従事していたことを隠すことが目的で、幕府から何らかの圧力があったと考えられる。御用商人として生き残るには幕府の指示に従うしか無かったのである。
- 慶長12年(1607年)家康が駿府に移り大御所と呼ばれ、江戸の将軍秀忠との二元政治が行われた時期に、大御所・将軍が上洛した時に金田屋常安は御出迎えをし直接拝謁すことができた。
- 元和9年(1623年)将軍秀忠・世子家光が上洛し、家光は朝廷から将軍宣下を受け結婚相手として鷹司孝子が決まるなど慶事が続いた。金田屋常安は御出迎えをし献上品を差し上げ御礼を受けた。
- 常安寺の紹介に書かれているが、大坂夏の陣で焼失した常安寺を元和2年(1616年)に長男政守に再興させた時には、金田屋常安は健在だったのである。長男政守が発起人となって寺を再建したが、まだ三代目を継承する立場にはなっていなかった。
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三代 金田治右衛門 剃髪し久意 |
寛永11年(1634年)7月25日大納言様(大猷院様の間違い?)御上洛付今市村迄御出迎罷出御目見奉申上事
同年大坂城南北地下年寄一同被召出酒井讃岐守様御出座石河土佐守様堺郷中御地子銀御赦免被下御儀被
仰渡難有奉存御礼申上節罷出人数之内御座
寛永17年(1640年)江戸参上
御年頭献上物御礼奉申上御時服奉拝領事 |
金田屋三代目治右衛門に関する説明
- 寛永11年(1634年)将軍家光は30万の大軍を率いて3度目の上洛を果たし、後水尾上皇の院政を認めるなど朝廷との関係改善を図った。
- 三代目治右衛門が今市村(大阪市旭区今市)にて将軍家光を出迎えたのは、京都から大坂城まで将軍家光が視察に行ったと推定される。
- 大坂城以下の文については難解なので説明は省略する。
- 寛永17年(1640年)江戸参上。以後献上や拝領などの説明は省略する。
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四代 金田九郎兵衛 剃髪し宗味 |
寛永18年(1641年)若君様誕生 江戸参上
献上物恐悦申上御時服(黒綸子・小袖)奉拝領事
寛永寛文之頃御奉行石河土佐守様毎々私方被為入御書等于今残所持仕。
寛文之頃酒造商売相始其節金田屋相改申事 |
金田屋四代目九郎兵衛に関する説明
- 寛永18年(1641年)将軍家光の嫡男竹千代(後の家綱)が誕生。慶祝のため江戸参上。
- 寛文年中(1661年~1673年)は将軍家綱の代で、五代伝右衛門の代のことをここに書かれている。 金田屋は寛文年中に酒造業を営むようになる。
- 四代目九郎兵衛は五代目伝右衛門が若輩だったので、親族が中継ぎとして金田屋当主を引き受けたような印象である。
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五代 金田伝右衛門 |
慶安3年(1650年)9月大納言様 御移徒 江戸参上
献上物仕恐悦奉申上拝領物被下置事
厳有院様御代
万治2年(1659年)8月 江戸参上
献上物仕恐悦奉申上拝領物被下置事 |
金田屋五代目伝右衛門に関する説明
- 慶安3年(1650年)将軍家光は病気になり、世嗣である権大納言家綱が西の丸に移った。御移徒とは引越の事であるが、10歳の少年である家綱が次期将軍に指名されたことを意味し、金田屋伝右衛門はお祝いの為江戸に参上した。
- 慶安4月(1650年)家光逝去48歳だった。 家光は前年に世嗣家綱に諸儀礼を代行させており、体調は良くなかったはずで、金田屋伝右衛門が江戸参上したのは、お祝いよりも別の意味があったはずである。
- 第五章で取り上げるが将軍秀忠の代に改易となった旗本金田氏について、清康・広忠・家康の三代に忠義を尽したことに報いたいと家光は考えてきたと思われる。
- 将軍秀忠は堺で家康のために諜報活動をしていた金田祐勝のことは歴史の闇に葬ったが、堺にて金田屋を御用商人として優遇したので(金田氏歴代の)功に報いていたと考えていたらしい。
- 将軍家光の代になると金田正末刑死事件や小諸藩5万石が改易され家老金田房能が浪人となり旗本金田氏は衰退の道を歩んだ。将軍家光は金田氏のことを気にかけていたことは確かである。。
- 病身の将軍家光は諜報活動などで貢献した金田祐勝・正勝親子について調査した資料を老中松平信綱・阿部忠秋などに見せ旗本金田氏再興のことを託した。二人は金田屋伝右衛門を堺から呼び、今まで隠蔽されてきた事実を聞き取り調査した。
病身の家光に拝謁し金田屋伝右衛門は将軍家光の真意を聴くことはできたはずである。
- 将軍家光が旗本金田氏再興を決意するまでは第五章にて詳しく述べる。改易となった金田正末の弟で、当時700石の旗本だった金田正辰(54歳)は、前将軍家光の遺命で舘林藩の城代家老に任じられることになる。それは寛文元年(1661年)の出来事である。
- 万治2年(1659年)金田屋伝右衛門は江戸に参上し将軍家綱に拝謁する。将軍に任じられた時に家綱が11歳だったので江戸参上を遠慮したと考えられるが、前年に江戸参上したこ
との影響で遅くなったのかもしれない。
- 四代九郎兵衛の欄で記載されているが、金田屋は寛文年中に酒造業を営むようになると記されており、五代伝右衛門の代に酒造業を営むようになったはずである。
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六代 金田治右衛門 剃髪し淨意 |
常憲院様御代
御年頭三ヶ度相勤献上物仕奉拝礼拝領御銀五枚被下置事
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七代 金田伝右衛門 剃髪し浄貞 |
先年南本郷大年寄相勤来処元禄16年(1703年)南組惣年寄役被 仰付事
宝永5年(1708年)病死仕跡役倅庄右衛門惣年寄役絲年寄役被 仰付事 |
金田屋六代目治右衛門・七代目伝右衛門に関する説明
- 六代・七代は将軍綱吉の代に相当する。
- 七代が病死し八代庄右衛門が継承した翌年将軍綱吉も没し、庄右衛門は家宣・家継・吉宗・家重の四代の将軍に相当する時期に金田屋当主として過ごすことになる。
- 綱吉の治政は延宝8年(1680年)ー宝永6年(1709年)。30年に及ぶ。それにしては六代・七代 の履歴事項が少なすぎる。
- 綱吉の代に江戸参上は3度あったように表記しているが、もっと頻繁に江戸参上をしていたはずである。
- 堺奉行を支える町役人の筆頭である惣年寄役に六代伝右衛門が就任しており、この時期に金田屋は堺での地位が高まった印象であるが、由緒書では簡易な表現にとどめている。
- 前記の金田正辰が館林藩25万石(藩主徳川綱吉)の城代家老に任じられ、その子金田正勝も城代家老を継承した。
- 金田正勝は綱吉が将軍に就任すると、5000石の旗本として江戸に移り側衆として仕えた。
- 堺の豪商金田屋は金田靭負宗房の倅を祖とする由緒書を書いてる手前、側衆を勤めその後隠居した金田遠江守正勝に江戸参上のおりに挨拶に伺っていたはずだが、由緒書には意図的に残さなかったと推測される。
- 五代将軍綱吉は金田屋(かなたや)と関係の深い河内国金田村(かなたむら)をわざわざ館林藩領にすることで、関心の深いことの証として残しており、金田屋にとっても五代将軍綱吉は特別な存在だったはずである。
- この時期に旗本金田氏と堺の豪商金田屋はともに五代将軍綱吉から厚遇を受けていたはずだが、意図的にこの時期の記録を簡略化した可能性が高い。
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八代 金田庄右衛門 剃髪し柳山 |
文昭院様御代 有章院様御代 有徳院様御代 惇信院様御代
四代で※都合十四ヶ度江戸参上相勤後剃髪仕柳山相改再勤共御年頭献上物仕奉拝礼拝領物被下置事 ※原書 四代で→右御代
(右)庄右衛門宝永5年(1708年)寛保元年(1741年)迄相勤及老年退役跡仕役倅治右衛門惣年寄加役共被
仰付事尤庄右衛門義剃髪仕柳山改名隠居席被 仰付年八御礼申上節者上田柳山而相勤事
九代目治右衛門翌年病死仕付柳山再勤被 仰付惣年寄役加役絲年寄役共座上而相勤様被 仰付
水谷信濃守様御奉行之節元文5年(1740年)8月5日大和川洪水節御役所近浸水込相成依之私方御入被成暫御滞留其後小袖井御堤物被下置御事
長崎在番都合十ヶ度相勤申
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金田屋八代目庄右衛門・九代目治右衛門に関する説明
- 将軍家宣(1709-1712)・同家継(1713-1716)・吉宗(1716-1745)・家重(1745-1760)
- 八代庄右衛門は上記四代の将軍に14度江戸参上をしたと記されている。
- 吉宗の代だった寛保元年(1741年)老齢を理由に倅九代治右衛門に譲り隠居したが、寛保2年(1742年)九代治右衛門が病死したので現役復帰した。復帰後いつ引退したかは不明だが37年以上惣年寄役や糸割賦年寄を勤めたことになる。
- 元文5年(1740年)8月5日大和川が氾濫し洪水で奉行所が浸水したので、役所の人たちがが金田屋の建物に避難したらしい。
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十代 金田庄右衛門 |
惇信院様御代
宝暦6年(1756年)年頭江戸参上相勤献上物仕奉拝礼拝領物被下置事
宝暦8年(1758年)病身付退役仕事 |
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(浚明院様御代が抜けている)※ |
十一代 金田伝右衛門 |
宝暦10年(1760年)船年寄被 仰付事
明和9年(1772年) (右)倅勝次船年寄見習被 仰付其後改名伝右衛門
※浚明院様御代は天明6年(1786年)まで続くが文恭様御代と記されているなど間違いが多い。
十一代の倅は十二代のこと。改名伝右衛門以下の文章は十二代伝右衛門に移す。
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金田屋十代目庄右衛門・十一代目伝右衛門に関する説明
- 十代庄右衛門は9代将軍家重の代、十一代伝右衛門は10代将軍家治の代の時の金田屋当主。
- 惣年寄の記述がなく存在感が薄い。
- 天明6年まで家治の代だが、家斉(文恭様御代)と由緒書に書かれ、十二代が江戸参上したのが将軍家斉の就任祝いなら天明7年以降になるはず。
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十二代 金田伝右衛門 後治右衛門 |
船年寄被仰付後 天明5年(1785年)惣年寄被 仰付 同年12月絲年寄役加役被仰付事 |
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文恭様御代天明5年 御代初恐悦 天明6年※ →上記記載の間違い |
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天明6年(1786年)年頭相兼江戸参上献上物仕奉拝礼時服二重(御納戸茶亀綾御小袖・黒羽二重御小袖)御拝領 |
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(文恭様御代は天明7年以降) |
寛政4年(1792年)正月19日日光山 御宮奉拝参於御石之間
御神酒頂戴御本坊大楽院而例之通御紋付御土器御神札被下置事
十四ヶ度江戸参上御参頭献上物奉拝礼拝領物被下置事
長崎在番二ヶ度相勤事
安永元年(1772年)文政6年(1823年)迄五十ヶ年相勤為御褒美銀被下置退役仕隠居席被
仰付跡役倅伝之介惣年寄役代勤井加役絲年寄役相勤 付惣年寄役被 仰付事 |
金田屋十二代目伝右衛門に関する説明
- 十二代伝右衛門は安永元年(1772年)文政6年(1823年)まで半世紀に渡って惣年寄役などを歴任したので褒美として銀を賜った。1772年は10代将軍家治の治世。11代将軍家斉の治世は天明7年(1787年)から天保8年(1837年)に家慶に将軍を譲り大御所となるまで。
- 将軍家斉は生涯一度も日光社参は行わなかった。しかし幕府は旗本に日光社参を奨励しており、江戸参上の金田屋にも日光社参を促した可能性が高い。
- 50年の間に14回江戸参上を果たした十二代伝右衛門は長寿で豊かな人生を歩んだ印象である。治右衛門への改名のことは記されてないが、倅伝之介が十三代伝右衛門を襲名したので、治右衛門に改名したのではないか。
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十三代 金田伝右衛門 |
文恭様御代
八ヶ度江戸参上御年頭献上物仕奉拝礼拝領物被下置事
天保3年(1833年)右爾度正月19日 日光山 御宮奉拝参於御石之間御神酒頂戴
御本坊大楽院而例之通御紋付御土器御神札被下置御事
文政元年(1818年)7月文政4年(1821年)4月まで長崎在番
文政12年(1829年)願上金田与家号相改事
文化7年(1810年)惣年寄見習被 仰付其後加役絲年寄相勤惣年寄役被
仰付処 天保3年(1832年)惣年寄井加役共御免付跡役隠居席被
仰付治右衛門江惣年寄井加役絲年寄再勤座上 而相勤可申旨被 仰付事
天保3年(1832年)11月及老年付 御役所内杖願上初而御免被下事
天保13年(1842年)6月再勤被 仰付天保6年(1835年)10月極老およひ時80歳病気付退役御願申上隠居席被 仰付
跡役倅駒之輔惣年寄役被 仰付事 |
金田屋十三代目伝右衛門に関する説明
- 十三代伝右衛門の記載事項は難解で理解しにくい。1833年の日興社参に始まり、十二代伝右衛門の倅伝之助として長崎在番を勤めたことに戻ってしまう。
時系列に書かれていないのだ。
- 1823年十二代が隠居し十三代として惣年寄に任じられると、1829年金田屋(カナタヤ)の家号改称を願い出る。改称が認められたかは不明。
- 1810年十二代伝右衛門の倅伝之助として惣年寄見習となったことから、見習期間は13年に及んだことになる。
- 十三代伝右衛門は1832年隠居したと書かれ更に1835年80歳で病気を理由に退役したと書かれている。
- 引退後に1842年の再勤というのは何かの間違いと推測。
- 1823年惣年寄役を父から継承67歳→1832年お役御免と隠居を申請77歳→お役所内での杖使用を許され惣年寄役継続→1835年病気などを理由にお役御免と隠居を申請許される80歳→倅駒之輔惣年寄役に任じられる
- 67歳から80歳までの14年間に8回も江戸参上ができたのだろうか。77歳の老人が隠居したいとの申し出に堺奉行が現役続行を命じるだろうか。天保13年再勤は何のことだろうか。疑問は残る。
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十四代 金田駒之輔 |
当御代
天保14年(1843年)5月
日光山 御社参被為済為恐悦参上献上物仕奉拝礼拝領御銀被下置事
都合五ヶ度江戸参上御年頭献上物仕奉拝礼拝領物被下置事
江戸濱町袋町本家金田靭負殿井三河国山中法蔵寺 三河国岡崎金田寺安養院両寺江先祖之舊縁も有之于今文通仕来事
元亀年中住居川端町当時迄凡三百ヶ年余町所不相變累代相続仕来事
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金田屋十四代目駒之輔に関する説明
- 当御代とは徳川家慶の治世のこと。慎徳院様 在任期間天保8年(1837年) ~嘉永6年(1853年)
- 十四代駒之輔が継承したのが天保6年(1835年)。嘉永6年(1853年)まで正味18年間惣年寄役を勤めた。
- 元亀年中より280年なので凡そ300年と記したもので、川端町にて商売を続けてこれたことは感慨深いものである。
- 本家金田靭負殿に該当する人物はいない。あえて相当する人物を下記に列記した。
- 金田靭負宗房は家老として仕えた松平康元の系譜は、小諸藩改易・伊勢長島藩改易を経て6000石の旗本になっていた。嘉永6年の頃は松平因幡守康盛の代で家老として宗房の子孫金田八郎兵衛正義(170石)が仕えていたが、堺の豪商金田屋駒之輔との交流は無かった可能性が高い。
- 旗本金田氏の本家は金田式部正誼(3000石)。日置流伴道雪派の弓道師範を父から継いでいる。こちらも初代の頃から280年の年月が過ぎ豪商金田屋駒之輔との交流が続いていたかは疑問が残る。
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嘉永6年正月 金田駒之輔 花押 |