三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第六章 将軍綱吉と金田正勝その2       


第一章 第二章
 
 寛文元年(1661年)館林藩城代家老となった金田正辰だが、在任期間2年で病没してしまいました。
城代家老に就任後2年で病没というのは過労死だった可能性を否定できないのです。
二代目城代家老になった大久保忠辰は就任後2年で藩主綱吉に上申したことで、藩主の逆鱗に触れた為に罷免され館林藩を追放されたことから、城代家老という仕事が決して容易な仕事ではなかったと察せられるからです。

三代将軍徳川家光に御側として仕えた中根正盛こそ金田正辰に重大な影響を及ぼした人物で、舘林藩城代家老という仕事に特別な使命を与えた張本人なのです。
中根正盛と金田正辰の関係を語ると、「松平広忠の代から徳川家に忠義を尽くしてきた両家の歴史」と、「両家が服部半蔵保長の娘婿として伊賀忍者を配下にしていた先祖を持つ隠された秘密」を共有していたことなのです。
四代将軍家綱就任後も4年間御側として仕えた中根壱岐守正盛が隠居したことは、五代将軍綱吉就任後約5年間御側衆として仕えた金田遠江守正勝が隠居を決めたことに何らかの影響を与えたのではないかと思われます。

 (4)館林藩城代家老金田正辰

 
慶安4年 (1651年) 三代将軍家光没  当時金田正辰700石 55歳
承応2年 (1653年) 御先御鉄砲頭拝命 57歳
明暦2年 (1656年) 金田正辰300石加増 1000石 60歳
寛文元年 (1661年) 金田正辰 館林藩城代家老就任 3000石 65歳
寛文3年 (1663年) 5月館林藩主徳川綱吉日光社参の帰途、館林城に立ち寄り金田正辰を労をねぎらう。
その後間もなく発病。6月に江戸に戻り8月病没。享年67歳
 
 金田惣八郎正辰が、寛文元年(1661年)8月に館林藩城代家老を拝命し、寛文3年8月に病没するまでの実質2年間ではあったが在職中に領地領民に対する円満な統治のため尽力したと考えられる。
舘林藩主徳川綱吉は善政を行い領民に慕われたことは間違いなく、初代城代家老金田正辰は職責を全うしたことで善政に寄与したのであった。舘林記など古文書によれば将軍家光の日光社参に同行した藩主綱吉が、江戸への帰途に舘林城に立ち寄った時に領民の大歓迎を受けたと伝わっていることが何よりの証拠です。
 
寛文3年(1663年)5月 四代将軍徳川家綱の日光社参に館林藩主徳川綱吉も随行し帰途館林城に立ち寄った。

5月10日より数日の滞在中に藩主綱吉公は城代の屋敷を訪問し、金田正辰の長年の労をねぎらい備前兼光の脇差しを下賜された。金田正辰にとって一世一代の栄誉を賜った出来事であった。
 

 藩主が城まで通る道筋に存在する破損した家屋は全て藩の負担で修理されるなどした結果、舘林はお祭りムードになって藩主綱吉を迎えました。このことは現在の伝統的建造物群保存地区の対する公的補助とも通じるような気がいたします。
領民にとって藩主綱吉は希望の星だったに違いなく、城代家老金田正辰の統治能力の高さを証明する出来事だったのであります。

藩主綱吉は城代家老金田正辰の功に報いるため、滞在中に備前兼光の脇差を下賜された。このことで金田正辰は一世一代の面目を施すことができたと想像されます。
大きな使命を果たした金田正辰は病を得て6月に療養のため江戸に行き、治療に専念したが8月3日に亡くなった。享年67歳


 ◎舘林藩城代家老就任前の10年間
 金田正辰にとって城代家老就任前の10年間はどのようなものだったのだろうか。
  • 慶安4年(1651年)三代将軍家光が没し、四男徳松が15万石を拝領し徳川綱吉と称して新たに大名となった。
  • しかし、徳川綱吉は6歳だった上に所領は近江・美濃・信濃・駿河・上野に分散していたので、所領の管理は幕府に委ねる形態であった。
  • 家老室賀正俊を中心に家臣団が形成されていったが、当初は幕臣から藩士になった者が多かったのだが、各藩の藩士のような将軍の陪臣(家来の家来)いう立場と違って、転属後も将軍の直参という立場に変更は無かった。
  • 藩主は幼君・家臣は派遣社員という状態 で発足したが、その後も幕府の保護下にあった状態が永く続いた。その後の御三卿のような立場だったのである。
  • 承応2年金田正辰は御先御鉄砲頭を拝命し、明暦2年に300石加増され禄高1000石となるが幕臣としての立場に変化は見られない。城代家老就任前の10年間において、金田正辰と15万石時代の徳川綱吉を結びつける動きは無かった。
  • しかし側衆/大目付の中根正盛と金田正辰が伊賀忍者という接点で結ばれていたことを検証すると、この10年間は金田正辰にとって大変意義深いものだったことが判明した。
 
 ◎中根正盛と金田正辰(伊賀忍者という接点)

 中根正盛について下記「寛政重修書家譜の中根正盛の項 嘘と隠された真実」で述べるが、謎多き人物なのである。
第五章で金田正末刑死事件で検証したが、老中土井利勝が強権を発動し処刑しなかったら、改易された金田正行(正末)は家光によって赦免されたはずである。
当時中根正盛は将軍家光の御側として、与力22名を配下に公儀隠密として活動を始める時期で、金田正行(正末)と旧家臣(伊賀忍者)の助力を必要としていたのであった。
しかし、老中土井利勝の強権が発動されたことで、将軍家光と御側中根正盛は以後金田氏再興には関与しなくなった。

晩年将軍家光は岡崎の金田寺に寺領10石の朱印を与えたり、伊賀八幡宮の社殿を造営すなどして風向きが変わってきた。
将軍家光が没する前年、堺の金田屋(かなたや)伝右衛門(五代目)が江戸に参上した。表向きは西の丸に移った将軍世嗣家綱に祝賀の挨拶であるが、実際は病床の将軍家光のお見舞いと旗本金田氏再興についての話がなされたと想像される。
翌年新将軍家綱が就任した後、金田屋伝右衛門が8年間江戸参上を控えたのは、金田氏再興に支障をきたさないように遠慮したと推測される。
将軍家光が晩年旗本金田氏の再興を考えるようになり、その相談相手が御側の中根壱岐守正盛だったのである。堺から金田屋伝右衛門が参上した時に立ち会ったのも中根壱岐守正盛だった。
「四男徳松(綱吉)が成長し城主大名になったら金田正辰を城代家老に任じる」という遺命を残すことを、将軍家光に進言したのも中根壱岐守正盛だったと考えられる。
中根壱岐守正盛は金田正辰に対し、金田祐勝・正勝の代に家臣として仕えた伊賀忍者たちを再結集させたり、諜報活動をするための人材育成を10年かけてすることを促したのであった。御先御鉄砲頭を金田正辰が拝命したのも、かっての忍者たちが多く在籍している役職だからである。
金田正辰が将来の館林藩のために旧家臣の伊賀忍者や新たな人材をリクルートするには、秘密裏に幕府のバックアップや膨大な資金が必要である。公儀隠密の元締めだった中根正盛だからこそバックアップが可能で、活動資金は幕府から堺の金田屋を経由して極秘で供給されたと考えられる。
下記でも示すが舘林藩は城代家老の配下に藩士22名で領国を支配したのであった。藩重役などの知行地意外は藩の直轄地となり、庄屋代官が任命され年貢の徴収や領民の支配を任せた。
庄屋代官の中には不正を働く者や代官職を私物化したり、領民の不満が藩上層部に届かない危険性が潜んでいるのである。
これを防ぐ為に城代家老直轄の諜報機関を組織し、領内の隅々まで目が行き届かせたのであった。
その為には金田正辰が旧家臣だった伊賀忍者などを中心に諜報活動をする為の人材を秘密裏に組織化する必要性があったのである。

次に中根正盛がどのような人物か検証する。
 
 
 (5)将軍家光の側衆 中根正盛の人物像
 
 ◎中根正盛の出自
     
 寛政重修諸家譜によれば中根正盛は近藤正則の次男で中根正時の養子となった 。 しかし、近藤氏については疑問が残る。
 
  • 中根氏の子孫が茨城大学に所蔵の古文書が寄贈され、茨城大学の中根家の紹介は次の通りである。
  • 「中根家は代々平十郎を名乗った旗本で、その祖先である中根正勝は、徳川家康の家臣として三方ヶ原の戦いにも参戦、天正18年(1590年)相模国に1000石を拝領し、子正時は関ケ原の戦いに参戦した。寛永期の中根正盛は大目付や御側御用(のちの側衆)を務め、知行5000石を賜っている。
  • 寛政重修諸家譜の中根正盛の項には、藤原氏支流中根氏と書かれ中根氏の先祖歴代が序文として書かれているが、中根氏の系図が書かれていないので難解な文章なのである。
  • Wikipediaの中根正盛に関する記述でも、中根家や近藤家に関する記述を省略しているのは、立ち入らないほうが無難と判断したと推測される。
  • ここでは、「中根正盛は近藤正則の次男として生まれ、中根正時の養子となった」とだけ簡潔に記述する。
 
   寛政重修諸家譜の中根正盛の事項では、近藤某※1 ― 近藤某※2 ― 近藤正則 ― 中根正盛
と実家の近藤氏について曖昧な表現となっている。
近藤氏は遠江国の国人で、德川家康が遠江国に進出後従属し近藤秀用の代に1万7千石を拝領したが、子供たちに分地したので旗本近藤5家として残った。中根正盛の実家とされているのは、近藤氏本流の旗本近藤5家でなく傍流の近藤家なのだが、寛政重修書家譜の中根正盛の記載事項は下記の通り疑問点だらけなのである。
近藤氏の系図により名前が特定できるので寛政重修諸家譜の内容と照合すると下記のようになる。
  • 近藤市左衛門正重※1  松平広忠に仕え織田信秀との合戦で戦死する
  • 近藤市左衛門正忠※2  徳川家康に仕え元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いで戦死する
  • 近藤市左衛門正則    徳川家康に仕え永禄7年(1564年)一向宗と針崎合戦で戦死
 
   近藤系図では正則の子に正善となっているので、長男は正善と推測できる。近動系図に正盛の名前は出てこない。
 
     
 ★寛政重修諸家譜で中根正盛が近藤正則の子というのは、下記理由により事実ではないと判断できる。
   
  • 中根正盛は天正16年(1588年)生まれで、近藤正則が戦死した永禄7年(1564年)には生まれていない。
  • 近藤氏は遠江国の国人で徳川家康の遠江国に進出後に近藤康用が従属し、子である近藤秀用以降の近藤氏は井伊谷の5家の旗本として幕末まで残った。近藤氏はそれ以前は今川氏に従属していた。※
  • 近藤忠用(康用の父)の兄乗直の子である近藤正重から正盛にいたる系図を中根正盛の実家としているが、近藤氏は徳川家康の遠江国に進出前の段階では臣従していないことから、近藤氏に関する記述内容は虚偽記載である。。
  • 中根正時が38歳で死去し養子の正盛が26歳で家督を継承したのは不自然なことから、近藤氏から中根氏の養子になったこと自体無理がある。 むしろ中根正時の親族(中根氏)として中根正盛が家督を継承したのではないか。
   ※正確に近藤氏について述べると、井伊直政の被官となっていたが旗本直参を希望し井伊氏を去った。
牢人となった近藤秀用を秀忠が5000石の旗本に取り立て、その後1万5000石の大名に栄進した。その後遠江国井伊谷に転封となり子孫に分地された。江戸時代旗本五近藤家となったが詳細は下記の通り。
  1. 金指近藤家     5450石
  2. 大谷近藤家     3000石
  3. 気賀近藤家     3900石
  4. 井伊谷近藤家    5450石
  5. 花岡近藤家      820石
 
 ◎寛政重修書家譜では中根氏(藤原氏)1520巻211と中根氏(桓武平氏氏)1520巻132の記述がある

   何故近藤氏を実家とする中根正盛とする系譜が出来たのだろうか。
寛政重修書家譜の中根氏の記述は藤原氏とする中根氏の記述(1520巻211)と桓武平氏とする中根氏の記述(1520巻132)と別々になっているが、同じ内容もあれば相違もある。ここでは2つの共通事項を考察しながら中根氏の実像を考察することにする。他の資料からも引合に出した。
   
  • 中根中務少輔信吉が中根氏の祖。
  • 7代後は中根肥後守忠利。
  • 中根忠利の子が中根喜蔵正雄で松平広忠に仕えた。
  • 中根喜蔵正雄は天文16年(1547年)松平信孝が広忠に叛いた戦いで討ち死にした。
  • 武徳太成記には天文15年(1546年)織田方に与した松平清定の上野城を松平広忠が攻め、「岡崎の先陣金田惣八郎正祐・中根甚太郎奮い戦って死す。広忠君後軍を率いて急に撃つ、清定敗軍する」の記述がある。
  • 中根喜蔵正雄には長男喜蔵重利・次男仁左衛門正勝・三男茂助某がいる。
  • 永禄7.年(1564年)の三河一向一揆針崎合戦にて中野喜蔵重利は家康方として一番槍を合わせたが、一揆方の渡辺半之丞と刀を抜いて戦い、ともに負傷して退いた記録が残っている。
  • 元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いで かって二俣城主だった中根正照が戦死している。 中根仁左衛門正勝は軍功をあげ家康から太刀を賜った。岡崎信康に仕えたが事件後逼塞(ひっそく)する。
  • 中根仁左衛門正勝の一族中根正重も岡崎信康に仕えていた、その後徳川家康に従って200石を拝領した。中根正重の子孫である中根正延は天和2年(1682年)に知行高6000石になっていた。
  • 天正18年(1590年)中根仁左衛門正勝は徳川秀忠に仕え相模国に1000石拝領し慶長6年(1601年)死す。
  • 中根茂助某は徳川家康に仕え天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで戦死する。
  • 中根仁左衛門正勝の長男喜八郎正時は、天正12年(1584年)9歳で秀忠の小姓となり慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは秀忠の軍に従軍する。正時は翌年父の遺領を継ぐ。その後慶長10年(1605年)秀忠が二代将軍に就任する為の上洛にお供する。慶長18年(1613年)に正時死す。
  • 中根仁左衛門正勝の次男中根茂助正次は、父が亡くなった時に別家として自立した。ここから中根氏(桓武平氏氏)1520巻132では、下記の系図が記載されているが父祖の名前が上記と異なっているのである。中根正盛の養子問題だけでなく、寛政重修諸家譜の中根系図は謎だらけなのである。
   寛政重修諸家譜の中根氏(桓武平氏氏)1520巻132中根正次の子孫に伝わる系図

 中根仁左衛門正俊 ― 中根仁左衛門正友 ― 中根茂助正成 ― 中根茂助正次
   
 ◎中根氏と金田氏の類似点から謎を紐解く
  • 中根氏と金田氏は松平広忠の代から忠勤を励み、敵対勢力との戦で忠死している。(金田正祐・中根甚太郎・中根正雄)
  • 三方ヶ原の戦いで金田宗房・中根正照が討ち死にしている。
  • 服部半蔵正成の祖父である服部半蔵保長の娘婿に金田庄之助と中根正重の名前があり、金田庄之助は金田正祐が該当し、中根正重は中根正雄もしくは中根正俊の可能が高い。(実在の中根正重は徳川家康の家臣であり年齢が合致しない)
  • 服部半蔵正成が家康の近臣として、金田祐勝が堺の商人金田屋(かなたや)として、徳川家康のために伊賀忍者を配下にして諜報活動のネットワークを築いていた。中根正勝や中根正友がその世代に該当し何らかの関与をしていた可能性が高い。
  • 大坂の陣の頃に、服部正就と金田正勝が将軍秀忠と重臣たちによって謀殺されたが、中根正時が秀忠に仕えていたことが幸いし中根氏は残ることができたと思われる。
  • 中根正盛が正時の家督を継承した時期は、服部・金田両氏が没落し諜報活動のネットワークは歴史の闇に消し去られた時期は一致している。中根正盛も連座して義父の家禄1000石を収公されたのかもしれない。
  • 旗本金田氏が家譜を書き換えたのは、幕府にる意図的な歴史的事実を隠ぺいする意図に沿ったものである。中根正盛も幕府の意向に従ったので、近藤家からの養子という虚偽記載を家譜に記載したのであった。中根氏の家譜には多くの歴史的事実が隠ぺいされているのである。
 
  ◎中根正盛の年譜
  • 慶長18年(1613年)中根正時が死亡し中根正盛が26歳で家督を継ぐ。本来なら遺領1000石を継承したはずだが、寛永2年まで無禄だったのは何故なのか。将軍秀忠の代に小姓・大番に列すると記されているが、秀忠が将軍在職中は冷遇されていた可能性が高い。
  • 元和9年(1623年)二代将軍秀忠大御所となり三代将軍家光就任。正盛36歳
  • 寛永2年(1625年)相模国愛甲郡において220石を賜う。正盛38歳
  • 寛永9.年(1632年)大御所秀忠没し将軍家光の親政始まる。正盛小納戸を拝命し180石を加増される。正盛45歳 
  • 寛永11年(1634年)御側に出世し400石を加増、配下として与力22名を預けられる。与力22名は大名などに対する諜報活動をする者で一般的に公儀隠密と思われる。正盛47歳 
  • 寛永15年(1638年)壱岐守叙任。1000石を加増。正盛51歳  老中堀田正盛が老中のまま御側に就任した。
  • 寛永16年(1639年)1600石加増。正盛52歳 
  • 寛永17年(1640年)2000石を加増され知行5000石となった。正盛53歳
  • 寛永20年(1643年)後光明天皇即位の儀式に御使として京都に赴き、更に大坂城や住吉天王寺周辺も巡視した。正盛56歳
  • 正保2年(1645年)御使として京都に赴き、若狭国小浜にも行った。正盛58歳
  • 慶安4年(1651年)三代将軍家光没し、四代将軍家綱就任。正盛64歳
  • 明暦元年(1655年)隠居し養老米として600俵(嫡男正朝が600俵を譲る)。正盛68歳 嫡男正朝4000石次男正章1000石継承。
  • 寛文5年(1665年)死去。享年78歳
 
 ◎寛政重修書家譜の中根正盛の項 嘘と隠された真実
 
 
  1. 中根正盛の実父が近藤正則は嘘。
  2. 中根正盛の母が平岩親吉の娘というのは嘘。平岩親吉には嗣子がなく断絶となった。もしも近藤正則が平岩親吉の娘婿だったら徳川家康から特別な待遇を受けた可能性が高いのである。
  3. 養父中根正時は1000石だったはずで、将軍家光から賜った禄高の合計5400石を合わせると禄高の合計が6400石に」なってしまうのである。
    • 中根正盛の禄高5000石との相違がおきた原因は次の通りと考えられる。
    • 寛永11年の表記は加増400石でなく禄高400石の誤記だろう。
    • 養父の遺領1000石は金田正行(牢人後は正末)改易に連座して収公された可能性が高い。
    • 元和4年に金田氏と親密な関係にあった内藤正守が改易されており、中根正盛もその頃に連座したのではないか。
  4. 寛永11年には第五章で取り上げた金田正末刑死事件が起きる。400石の旗本の身分である中根正盛が与力22名を隠密として配下にしたことと関連した事件なのである。
  5. 寛永15年51歳にして知行高1400石となり壱岐守に叙任された。前年より体調を崩していた老中土井利勝が病気を理由に老中を辞し、実務を離れ名誉職である大老に就任した。これにより寛永10年に老中に任命された松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛に権限が移ることになる。 更に老中堀田正盛が老中のまま御側に就任したことで、御側という役職の重要性も増したのであった。
  6. 寛永16年17年と中根正盛は加増し5000石の旗本になる。土井利勝が事実上幕閣から離れたことで御側として の中根正盛の幕府内での立場は強まった証拠である。改易となっていた内藤正守は寛永15年に赦免され400俵の禄を賜うことができたのも、中根正盛のおかげだと思われる。
  7. 中根正盛は側衆/大目付としてWikipediaで紹介されており、中根正盛について調査するまでは信じていた。ところが大目付は寛永9年に老中管轄の役職として柳生宗矩・井上政重・水野守信・秋山正重が惣目付に任じられてからの役職。大名高家朝廷などを監視する監察官が主な仕事で五街道の事務を統括した道中奉行やキリシタンを取り締まる宗門改めも兼任していた。しかし中根正盛は御側(側衆)として将軍家光に仕えていたのであって、老中管轄の大目付には任じられていないのである。
  8. 寛永15年に老中堀田正盛は御側に就任したことで、与力22人一般に言う公儀隠密を配下に持つ中根正盛が老中管轄下の大目付との意思疎通が容易になった。この結果中根正盛が諸国の監察権限にまで影響を及ぼすことができたので大目付中根正盛と呼ばれたと想像される。
 
 

  ◎中根正盛は何故金田正辰に隠密組織開設の秘密命令を出したのか
  1. 徳川綱吉が藩主となる25万石は、江戸の神田館に藩士の大半を配置し国元は少ない藩士で治安・行政にあたる方針が幕閣で決められていた。それにより藩の財政に余裕が生じ農民の年貢の負担を軽減できる。
  2. 国元では町奉行には与力を配置し城下町の治安を守り、農政は荘屋あがりの在地代官を多用することで、地域に密着した行政が行われることが期待される。
  3. しかし少ない藩士だけでは領内への十分な目配りが出来ないので、城代家老の配下に隠密組織を設置して情報収集や治安維持の仕事を任せたのである。忍者たちは鉄砲にも通じているので非常事態には鉄砲隊として活動することも可能だったのである。
  4. 公儀隠密の元締めだった中根正盛は諜報活動の重要性を最も認識しており、将軍家綱の弟で将来将軍になる可能性のある館林藩主徳川綱吉に『隠密組織を活用した諜報活動の重要性を認識してもらうこと』も願っていた可能性が高いのである。
 
 
 ◎金田正辰城代家老就任


 万治3年(1660年)下総佐倉藩主堀田正信が改易となったので、翌年の寛文元年(1661年)に館林藩主松平乗久が佐倉藩主として国替えとなりました。
通常発令されてから国替えが完了するのに半年要することを勘案すると、館林城は幕府によって収公され速やかに新城主徳川綱吉に引き渡されたと考えられる。
綱吉は江戸にいるので筆頭家老室賀下総守正俊など藩重役が館林城に赴き手続きを行い、その後金田正辰が城代家老に就任した。
金田正辰は寛文3年(1663年)に病没するまで城代家老として行政組織を築くことに専念した。
 上記の隠密組織が存在したてあろう痕跡は古地図に残っている。
延宝2年(1674年)の館林地図に館林城の城外に城代下屋敷が書き込まれている。周囲に寺院や空き地が多い場所5000坪の広大な屋敷なのである。
金田正辰が築いた隠密組織を見聞した藩主綱吉の許可を得て、隠密組織の活動拠点とするために建立されたのが城代下屋敷なのである
参考に幕府が示した大名の江戸藩邸の広さの基準では、5-6万石の大名が5000坪なのである。
館林藩が館林城に藩士22名だったのは、城代配下の隠密組織が治安や農政が無事に行われているか諜報活動することで、領内隅々まで行き届いた政治を目指していたからである。