●金田正勝の人生について下記のように年譜としてまとめた |
- 明暦3年(1657年)6月25日正勝は、将軍家綱に初めて拝謁することができた。正勝35歳
- 万事2年(1659年)正勝は幕府小姓組番頭森川下総守重名の組に番士として配属された。正勝37歳
- 寛文元年(1661年)館林藩主徳川綱吉に父正辰とともに仕える。正勝39歳
- 寛文2年 (1662年)6月10日切米300俵の奏者番に取立てられる。正勝40歳
- 寛文3年 (1663年)8月3日父である城代家老金田正辰病没。享年67歳。主君綱吉から柘植平兵衛を使者に香典として白銀20枚が届く。11月に父正辰の遺領3000石を継承する。正勝41歳
- 寛文5年 (1665年)11月館林城の城代家老に任じられる。12月に遠江守に任官。正勝43歳
- 延宝8年(1680年)徳川綱吉が五代将軍に任じられる。
- 天和元年(1681年)金田正勝は、将軍綱吉から御側衆に任じられ神田橋に屋敷を与えられる。知行高が3000石から5000石に加増される。正勝59歳。
- 天和2年(1682年)兄金田正親が500石加増され禄高1500石になる。
- 貞享3年(1686年)病気を理由に御側衆を退任し小石川に屋敷替えになる。以後寄合席に属する。正勝64歳
- 元禄10年(1697年)隠居し梅山と号す。嫡男正通に4000石・次男正則に700石・四男正朝に300石を分知し継承させる。75歳
- 元禄11年(1697年)正勝76歳にて病没。故人の遺物として小信国脇指を将軍に献上の為、若年寄秋元但馬守喬知に差出す。将軍に家臣が形見分けを献上したことは、当時としては異例な出来事であった。
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◎舘林藩城代家老に就任
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寛文5年(1665年)11月金田与三左衛門正勝が城代家老を拝命し、舘林に赴く際に鎧兜など武具を一切持参をしなかった。
周囲の者が武士としての心得に欠けているのではと怪しみ問うたところ、正勝は次のように言い放った。
「この重職につくからには、初めから生死を賭しているのであって、そのような武具で身を守ろうとの考えを持っておらぬ」
金田与三左衛門正勝の職に打ち込む真剣さに何人も驚いた。与三左衛門正勝は翌月遠江守を叙任され遠江守正勝となった。 |
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この逸話は戦国時代の遺風が社会にまだ残っていたことを示し、金田正勝は文治政治を理解し舘林藩領内の整備充実及び秩序の安定に命がけであたることを決意していた証拠と考えられる。
城代家老としての在職期間は16年に及ぶが、領内で特筆するような事件も起きず平穏無事に職責を全うしたのであった。
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舘林記によれば舘林城下の様子を下記の通り記している。 |
将軍家綱の御連枝、参議右馬頭綱吉の御居城に相定まり、牧野備後守、曽我周防守、金田遠江守、其外諸子百家、旗本、小従人、陪臣の奴僕数万人、軒を並べて満ち満ちたり。御本丸殿堂を始め、二の丸、三の丸、大名小路より城の内外居余り、加法師土橋、丸屋敷、町裏荒宿の先まで、同心小路割並べ、舘林の繁昌例へんには、、さながら江戸の全盛に等しからんや、御城下の万民万歳の声充満せり。 |
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将軍家綱の弟である25万石の大名徳川綱吉を藩主とする舘林藩の城下に関する記述である。寛文4年に幕府より舘林城修繕費として二万両が下付されており、舘林城は威容を誇っていたと推定される。舘林の繁栄が江戸に匹敵するかはともかく、25万石の城下町だったことから上記の記述は確かなはずである。しかし、舘林藩の特殊性から内容については疑問を感じる。
- 家老である牧野備後守・曽我周防守・金田遠江守が屋敷を構え、知行地の支配権を確保するために陪臣がある程度いたことは推察される。前述したが舘林藩は神田館にて藩士500人が藩主綱吉に直接仕え、舘林城には僅か22人の藩士しか配属されていない。大半の藩士は舘林城下に屋敷を構え江戸との二重生活をすることは無理だったはずである。
- 上記の記述にある数万人が軒を並べて満ちていたのは藩士ではなく、庄屋代官や同心など実際に舘林城で行政を担当していた人々が多く含まれていたとのではないか。
- 金田遠江守正勝は若き日に堺の金田屋(かなたや)から多くのことを学んでおり、商人の町堺の自治組織を見倣って舘林城下の商人町の発展に寄与した可能性が高い。
商人が行き交い、職人たちが軒を連ねる町として賑わっていたので、「舘林の繁昌例へんには、、さながら江戸の全盛に等しからんや」という表現になったと考えられる。
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◎舘林藩城代家老下屋敷
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舘林藩城代家老金田遠江守正勝を語るには、城代家老下屋敷のことを避けて通ることはできない。
「旗本金田氏家史研究」で金田近二氏は延宝二年の地図から5000坪と記しており、関戸明子・木部一幸著FTP「館林城下町の歴史的変遷と地域構成」では下屋敷を3000坪とし他に蔵屋敷と手代の組屋敷が配置されていたと書かれてる。
舘林藩主だった松平乗久とともに佐倉に移った大給松平家の菩提寺盛岩寺跡地に城代家老下屋敷は建てられたもので、いずれにしても広大な敷地を有していたことは間違いありません。
幕府が示した大名の江戸藩邸の広さの基準では、5-6万石の大名が5000坪であることからも、城代家老下屋敷が特別の目的の為に設置されたことが敷地の広さから推測される。
舘林藩は舘林城が22人の藩士のみの配属で運営できたのは、庄屋代官が年貢の徴収や農政全般を担当し、村方支配の仲介的な職務を担った結果なのである。
舘林藩が他藩と違うのは直轄領の割合が高く、庄屋代官の役割が重要なものだったのである。
庄屋代官が不正を行わないか秘密裏に監察を行うなど領内に目配りをきかせるために、城代家老下屋敷に金田正辰が城代家老就任前に中根正盛の指導のもとに築いた伊賀忍者などを中心とする諜報機関の拠点がおかれたと考えられる。
城代家老下屋敷は周囲は寺院が多く舘林城防衛の意味もあったと推測されるが、近隣を彷徨く 不審者に対して監視することも容易だったはずで、諜報活動の拠点としてうってつけの場所だったのである。
諜報機関の主なる任務は年貢の徴収・領民の生活の安定・治安の確保を目的にしたが、中根正盛が将軍家綱の御側を退任し隠居した際に、公儀隠密として仕えていた者を舘林藩に移した可能性も高く、中根正盛から極秘命令があったのではないだろうか・・・・・。
これはあくまで仮説なのであるが、
「将軍家綱の代に幕府はいずれ危機的状況に陥ると三代将軍家光と側衆中根正盛は危惧していたとしたのではないか。
万一そのような時になったら、利発な弟の綱吉が将軍後継者になってもいいし、保科正之のような立場で幕政改革をすることで乗り切れるように準備する必要がある。
堀田正盛の三男堀田正俊が老中への栄達の道を歩めたのも、前将軍家光の意向が残され、将軍家綱の危機に備えた人事だったのではないか・・・。
「舘林藩内に公儀隠密からの転職組が主導する諜報機関が活動できたのも、将来おきるかもしれない将軍後継争いなどの危機に備えての予防的措置だった」と考えたい。
今日では将軍家綱が亡くなった時に唯一の弟ある徳川綱吉が後継者になったのは当然だと思いがちだが、後継者に指名されたのは家綱の死の直前に老中堀田正俊のすすめで継嗣になれたことによるものである。
もしも、大老酒井忠清が将軍家綱の病状を隠し、秘かに将軍後継問題を自分に有利なように決着していたら、歴史はどう変わっていたかわからないのである。
大老酒井忠清が幕府隠密などを掌握しているなかで、老中堀田正俊が対抗するには自前の隠密組織を持っている必要があったはずである。将軍家綱の病状を探ることや徳川光圀など御三家を味方にする為の多数派工作などにはどうしても必要だったからである。
舘林藩家老牧野成貞が老中堀田正俊と連携して、大老酒井忠清などの動きを隠密たちに探らせていたからこそ五代将軍徳綱吉が誕生したのである。
舘林藩城代家老下屋敷を拠点としていた諜報機関の貢献によって、城代家老金田遠江守正勝は領内を無事に治めることができた。
しかし諜報機関があったことは完全な秘密とされ歴史の闇に消し去られた。
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◎金田遠江守正勝の私生活
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寛文5年(1665年)金田遠江守正勝は城代家老に赴任した年に、13歳だった嫡男正通は藩主綱吉に拝謁し太刀等を賜わった。正室長谷川氏は嫡男正通・次男正則(10歳)とともに江戸の屋敷に留まった。
舘林藩は25万石といっても、内訳は上野国11万5千石・下野国3万2千石・甲斐国3千石・美濃国7万1千石・近江国2万8千石に分かれている。
城代家老の管轄は上野国11万5千石・下野国3万2千石の合計14万7千石の二か国四郡115ケ村が該当する。
舘林城二の丸にあった上屋敷が私生活の中心だった。
正室が江戸に留まったので舘林では側室をおいた。寛文12年(1672年)側室との間に三男正明(始め正恒が生まれた。
金田遠江守正勝50歳・長兄正通20歳・次兄正則17歳であった。正室長谷川氏は40代と推測される。
ところが舘林藩に在職中金田遠江守正勝には四男勝延五男正朝が生まれているのである。
二人とも正室長谷川氏の子供とされているが、超高齢出産になり別の側室に生まれた子を正室が生んだことにしたのではと推測される。
第六章序文でも述べたが、四男勝延は元禄4年(1691年)18歳で死んだことになっているが、実は金田善兵衛正孝の養子経廣として別家として生き残っていた。五男正朝は家譜に享年を書かなかいなど二人には母親のことなど秘密が隠されている。
それに比べ三男正明は順風満帆の人生だった。
- 延宝7年(1679年)正明四代将軍家綱に初謁。8歳
- 元禄2年(1689年)に五代将軍綱吉に小姓として召されて600俵を拝領。その後能登守に叙任 18歳
- 元禄3年(1690年)に能登守に叙任 19歳
- 元禄5年(1692年)に加増都合3000俵となる。21歳
- 元禄10年(1697年)3000俵から知行地3000石になる。26歳 その後将軍が変わっても小姓組組頭・番頭・駿府城城番など役職に任じられた。
金田能登守正明は26歳で3000石という出世を遂げたのは、幼少期より才気優れた人物だったことから主君綱吉から寵愛を受けていたと考えられる。下記のように特筆すべき逸話が残っている。
- 8歳で将軍家綱に初謁をした時に好印象を得られたので、「汝の父は今や舘林綱吉候の家臣となっているが、汝成長の暁はぜひとも将軍家の家来となるよう心掛けよ」との有難いお言葉を賜ったと譜伝明記されている。
- 元禄5年(1692年)に五代将軍綱吉が外出の帰途、雷雨がやってきたのでお駕籠の行列を急がせた。
本丸の玄関に到着したが、なおも轟く雷鳴に(雷が苦手な)将軍綱吉は、お駕籠を出るなりほうほうの体で御殿の奥へ駆け込んだ。お供の侍たちは混乱し右往左往していたが、お供の一人金田正明は土足のまま御殿に駆け上がって、将軍の後を追い無事に将軍をお供の随従を許される最後の場所までお見送りをして戻ってきた。
- 「明良洪範」に掲載されているもので、土足曻殿のことで罰せられることも覚悟していた金田正明に対し、翌日将軍綱吉からお褒めと2,000俵の加増のお達しがあった。どのような不測の事態が発生しても、上様を守り切ることがお供の勤めと冷静に判断したことを褒められたもので、土足曻殿を問題にしなかった将軍綱吉の度量の大きさこそ特筆すべきことである。
しかし、元禄10年3000 石になったのには別の意味があったのではと推測される。
75歳となった金田遠江守正勝が隠居し梅山と号した。嫡男正通に4000石・次男正則に700石・四男正朝に300石を分知し継承させた。本人の隠居料として500俵を残した。
これらに三男金田正明の3000石・兄金田正親(同年に没する)の1500石を合計すると1万石になるのである。
五代将軍徳川綱吉としては、歴史の闇に消された三河金田氏歴代の功績に報いることはできなかったが、金田遠江守正勝の忠義に感謝と慰労の気持ちを込めて、一族合計で大名並みの1万石とすることで隠居祝いとしたしたのではないか。
逆に言うと、土足曻殿の功が無くても金田正明を3000石の旗本にする意向を将軍綱吉は持っていたのではないだろうか。
金田遠江守正勝の家庭では三男金田正明が特別扱いなのに対し、正室長谷川氏が良妻賢母として他の子供たち(女子を含む)の面倒を見たことで円満な家庭だったと思われる。
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◎金田遠江守正勝が関係する舘林の寺院
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①萬徳山広済寺 黄檗宗
- 黄檗宗は開祖隠元禅師によって開かれた日本三禅宗のうちの一宗派。明から渡来した隠元禅師の名声が高まり、万治元年(1658年)隠元禅師は将軍家綱に拝謁し、その後山城国宇治に寺地を賜り黄檗山萬福寺を開山し黄檗宗の大本山とした。
- 黄檗山萬福寺は寛文元年(1661年)に開創され、幕府や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃に完成した。
- 寛文4年(1664年)隠元禅師は萬福寺住職を弟子のに譲り松隠堂に退いた。
- 木庵禅師の三大弟子の一人潮音禅師は肥前国小城出身で13歳で得度し臨済宗の僧になりました。その後諸国行脚に出ました。寛文元年(1661年)宇治にいる隠元禅師を訪ね参禅を許されました。寛文3年(1663年)隠元禅師から「潮音道海」という法名をいただきました。寛文4年(1664年)隠元禅師が住職を木庵禅師に譲り松隠堂に退いた時に、潮音禅師は引き続き木庵禅師を補佐し知客の職に専念することになりました。
- 寛文5年(1665年)木庵禅師が将軍家綱に挨拶の為江戸に向かい、潮音禅師も随行いたしました。江戸滞在中に潮音禅師は知客として活動し、たくさんの諸侯太夫と接触して黄檗の禅風を説きました。
- 寛文7年(1667年)40歳になった潮音禅師は上野国舘林藩領新福寺村にある眞福山寶林寺に進出しました。当時寶林寺は荒れ果てた状態でしたが、それを克服して潮音禅師は法座を開き黄檗禅の教化を図りました。潮音禅師の法座はたちまち大評判となり近隣だけでなく、遠く信州にまで評判が及びました。
- 潮音禅師の法座の評判を聞いた舘林藩城代家老金田遠江守正勝は、潮音禅師を舘林城に招いて法座を開くことにしたのです。法座は大好評で20日間も続けられ、金田遠江守正勝自身も黄檗禅に帰依し、潮音禅師から「梅山居士」を授かりました。その他の重役藩士も続々帰依しました。
- 寛文9年(1669年)潮音禅師の故郷肥前国鍋島候から潮音禅師に水上山万寿寺住職として招きたいとの話があり禅師が断ったのです。舘林藩の重役陣は潮音禅師を引き留めるために黄檗宗の寺院を建立する必要性を痛感し、藩主徳川綱吉に寺院建立を進言しました。信仰心の厚い藩主徳川綱吉は進言を受け入れ、黄檗宗の寺院を建立するように命じました。
- 潮音禅師から大本山萬福寺住職木庵禅師は報告を受け、非常に喜ばれ萬徳山広済寺と名付け大書された額字を贈られました。広済寺の造営は順調に進み、方丈・禅堂・斎堂が完成し同年10月10日には潮音禅師が進山しました。 金田遠江守正勝が観音菩薩像を奉納し禅堂に安置しました。
- 寛文10年(1670年)になると家老黒田信濃守用高が鐘楼を建立。大梵鐘が鋳造され寄進されました。大仏殿の工事が進むと京都の仏師康祐法眼を呼んで家老室賀下総守正俊が本尊釈迦牟尼仏像を、佐野吉之丞が阿難尊者像を、渡辺平左衛門が迦葉尊者像を制作し奉納いたしました。
釈迦三尊像が完成すると隠元禅師に開眼供養をお願いして、同年3月19日に完成した大仏殿に安置し、大法要が行われました。 萬徳山広済寺は9000坪の敷地に建立されましたが、天和3年(1683年)には廃寺となってしまいました。
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延宝8年(1680年)五代将軍に徳川綱吉が就任すると舘林藩主を嫡男徳松に譲りました。
しかし天和3年(1683年)に徳松が夭折したために、舘林城は廃城となり城の建物は取り壊されてしまいました。萬徳山広済寺も取り壊しとなり潮音禅師が住持だった宝林寺に仏像や梵鐘等は移されました。
元禄8年(1695年)潮音禅師は美濃国臨川寺で亡くなった。享年68歳
宝永6年(1709年)五代将軍徳川綱吉逝去。享年62歳
正徳2年(1712年)に故四代将軍家綱の三十三回忌にあたり、かって潮音禅師が住職だった大慈庵は萬徳山広済寺に寺号を改めた。当時江戸深川にあったが、その後移転を繰り返し昭和8年に江戸川区春江の現在地に移転した。
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参考
眞福山宝林寺 |
群馬県邑楽郡千代田町新福寺705 |
萬徳山広済寺 |
東京都 江戸川区春江町4-23 |
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②真宗大谷派佛光山太子院覚応寺
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京都の東本願寺を本山とする真宗大谷派の寺院で住所は館林市栄町1-8です。
- 佐々木盛綱・高綱を始祖伝承を持つ寺院は越前国に十五ケ寺ある。それらの多くは浄土真宗高田派の折立山称名寺から分立し。戦国期から近世にかけてそれぞれ高田派・本願寺派・大谷派・誠照寺派などの各派に属していったと考えられている。
- 称名寺は越前国では平泉寺に次ぐ規模で浄土真宗高田派の拠点として隆盛を誇りましたが、戦国時代の一向一揆の争乱で衰退し、寛永16年(1639年)に福井県福井市折立に移転し現在に至っています。
- 争乱の越前国から武蔵国に浄土真宗の僧祐宝は避難したが、その子林通は布教の為武蔵国・上野国を巡り、現在の館林市羽附に願成寺を建立した。
- 林通の孫林易の代に舘林藩城代家老金田遠江守正勝が帰依し、現在地の館林市栄町に移転し覺應寺と寺号を変更し東本願寺の末寺となった。延宝2年(1674年)には金田正勝の尽力で舘林藩主徳川綱吉から寺領30石の御朱印を賜った。
- その後、藩主綱吉は五代将軍になり、城代家老金田遠江守正勝は側衆に栄進し江戸に戻った。その子孫は旗本として幕末まで続いた。正勝の子孫である金田近江守正甫が献納した金田正勝夫妻の位牌が覚応寺に残っていることから、金田正勝の子孫の代まで覚応寺との交流が続いたことが伺える。
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◎金田遠江守正勝は何故真宗大谷派(東本願寺)の寺院を建立したか
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㋐金田遠江守正勝の墓は曹洞宗の寺院萬頂山高岩寺にある |
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金田遠江守正勝の墓は曹洞宗の寺院萬頂山高岩寺にあり一族の菩提寺になっている。今日巣鴨のとげぬき地蔵として知られ、おばあちゃんの原宿として、4日14日24日の縁日には多くの参詣者で賑わっている。
しかし、明治24年に上野駅拡張のために巣鴨へ移転するまでは現在の岩倉高校(台東区上野7-8.)のある場所にあって、下谷の高岩寺と呼ばれていた。江戸時代の家譜には金田氏歴代は下谷高岩寺に葬ると記されている。
父金田正辰・兄金田正親の墓は駒込吉祥寺にあり同じ曹洞宗である。金田正勝の次男で兄正親の娘婿だった金田正則も、義父正親と同じく駒込吉祥寺を菩提寺にして子孫に受け継がれた。
高岩寺も吉祥寺もともに禅宗である曹洞宗の寺院なのである。
上記で 金田遠江守正勝が潮音禅師に帰依したことを述べたが、黄檗宗も禅宗であることから違和感は感じない。
しかし、浄土真宗の寺院である覚応寺の為に何故金田遠江守正勝が尽力したか疑問が残る。 |
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㋑徳川家康に仕えた金田祐勝・正勝(正藤)の代に東本願寺門主教如上人に帰依していた |
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三河金田氏の実像では第四章で金田祐勝が徳川家康の指令で堺に潜伏し諜報活動に専念した人生を述べてきた。
- 金田惣八郎祐勝は母方の親族服部半蔵正成とその一族の協力を得て、堺の商人金田屋(かなたや)治右衛門として活動し、手代や取引業者に伊賀忍者を配置し徳川家康に有益な情報を提供してきた。
- 京都の茶屋四郎次郎・服部半蔵正成と連携して本能寺の変を察知し、堺から家康一行が安全に三河に戻ることに貢献したのであった、
- 堺で永く商人として活動したので人脈も築くことができた。金田屋治右衛門は千利休と茶会を通じて交際があったと思われる。千利休と親密な関係だった本願寺前門主教如上人とも、千利休の茶会で面識が出来た可能性が大なのである。
千利休が切腹し豊臣政権との関係が悪化した本願寺前門主教如上人にとって徳川家康と親交を結ぶ事が必定となり、金田屋治右衛門が両者を結ぶことに貢献したと考えられる。
- そして関ケ原の戦いでは所説いろいろあるので省くが,徳川家康に教如上人が味方したことは明らかで、勝利した東軍を9月20日に大津城で教如上人が迎えた事は事実なのである。
- 関ケ原の戦いでは金田屋治右衛門は教如上人に随行しながら東軍に有益な諜報活動を行ったと考えられる。堺に残っていたら西軍に殺される危険性が高かったからである。この頃には金田屋治右衛門は教如上人に帰依したと考えられる。
慶長7年(1602年)徳川家康から京都四条烏丸に寺領が寄進され、慶長9年(1604年)に主要な建物が建立され東本願寺(真宗大谷派)が成立した。
- 金田屋治右衛門は関ケ原の戦いの後、武士に戻り金田惣八郎祐勝として長男正勝とともに伏見城で徳川家康に仕えた。堺の金田屋は次男常安が継承し特権商人として残り、江戸時代を通じて糸割符仲間に加わり惣年寄などを歴代が任じられた。
- 金田惣八郎祐勝は慶長7年(1602年)に亡くなるが、長男惣八郎正勝は伏見城で家康に仕え、家康が駿府に移ると城番に出世し大坂の陣では重要な働きをした。大坂の陣で豊臣氏が滅ぶと惣八郎正勝は病死となっているが実際は暗殺され、その後旗本金田氏本流は改易となった。
- 二代将軍秀忠は堺の金田屋を純粋な商人として生き残りを許し、諜報活動をして徳川家康の天下取りに尽力した金田祐勝・正勝親子に対しては歴史の闇に消し去ったのであった。
- 本家は改易となった時に20代前半だった金田正辰は500石の旗本として生き残り、四代将軍家綱の代になって65歳で舘林藩城代家老に栄進できたが2年後には亡くなった。金田正辰は幕府の意向に沿い家譜などから祐勝・正勝の記録の大半を削除したので、子孫ですら二人について知ることは難しくなった。
- 祐勝・正勝の墓は東本願寺地中慈教寺にあるとされているが、慈教寺の存在自体が疑問なのであります。二人は歴史の闇に消し去られ、家譜からも消し去られ、更に墓まで不明という状況になってしまったのです。
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㋒金田遠江守正勝は曾祖父祐勝と祖父正勝の供養の為、覚応寺を建立した |
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延宝2年(1674年)に藩主綱吉から覚応寺に寺領30石の御朱印を賜ったことから、現在地に移転し覚応寺と名前を変えたのは寛文10年(1670年)に萬徳山広済寺が完成以後の出来事と思われる。
このことから、覚応寺建立に至った経緯は下記の通りと推測される。
金田遠江守正勝は黄檗宗の教えを潮音禅師から伝授され、「仏法の根本真理にたどりつくためには、自分自身の心に向き合うことが必定」という教えに感銘を受けた。
そして、自分自身の心に向き合うと 。
- 祖父金田惣八郎正勝の名前を継承した金田遠江守正勝であったが、目的が祖父の存在感を弱めるためだったのである。金田家譜には祖父の名前を正藤と改名するなど不実記載があり、家譜から祖父正勝生前の履歴はほとんど削除されてしまった。
- 幕府の意向に沿ったもので真実を明らかにすることは不可能だが、曾祖父祐勝と祖父正勝の供養のために何ができるか自問自答していた。
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金田遠江守正勝が心の中で葛藤していると、浄土真宗願成寺の住職林易との出会いにより一筋の光明が差し込むのであった。
- 越前の戦国大名朝倉義景が滅ぶと、一向一揆が越前国全体に及んだ。それ怒った織田信長は大軍を越前国の一向宗の寺院を焼き僧や門徒の虐殺を行ったので、僧祐宝は越前国から武蔵国へ逃れてきたのであった。
- 祐宝の子林通が舘林で願成寺を創建した目的は浄土真宗の布教だけでなく、越前国で虐殺された僧や門徒たちの慰霊の為でもあった。
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林易住職は平穏な生活を営んでいるが、昔越前国でおきた悲劇を父祖から口伝で受け継ぎ、犠牲者の供養を自分の責務して人生を歩んできた僧であった。 |
金田遠江守正勝は林易との交流により次第に自分が何をすべきかを覚るようになった。
心の中で葛藤するよりも、祖父正勝・曾祖父祐勝の供養をする為に、東本願寺の末寺を私財を投じて建てることが肝心だと覚った。
林易と相談した結果、願成寺が移転し覚応寺に名前を改めて新たな寺として造成された。
実質的には願成寺を継承して東本願寺の末寺として歩むことになるのだが、林易住職によって祖父正勝・曾祖父祐勝の供養がなされましたが、あくまで内密に行われました。
金田遠江守正勝が事前に藩主徳川綱吉の内諾を得ていたのですが、落成法要の報告を受けると覚応寺は藩主徳川綱吉から寺領30石の御朱印を賜ったのです。これは特別の扱いで、歴史の闇に消し去られた金田氏歴代の忠義を後世に伝えるための手がかりとしての配慮なのです。
三代将軍徳川家光から岡崎の安養院金田寺が寺領20石の御朱印を賜ったのと同様な意味が含まれていた。
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