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第六章 将軍綱吉と金田正勝その3 ⓪ ❶ ❷ ❹ ❺ ❻
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館林藩城代家老となった金田正辰こそ、旗本金田氏中興の祖なのであります。
そして金田正辰の次男金田正勝は藩主徳川綱吉に奏者番・城代家老として仕えたのです。
更に五代将軍綱吉の御側衆として仕えた期間を合わせると25年に及ぶのであります。
第六章その3では館林藩の実態について解明していきたい。 |
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(6)館林藩の家臣団の構成と役職者
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岩本馨著 「徳川綱吉政権の武家地政策と幕臣編入家臣団の動向」より、館林藩の家臣構成は下記の通りだった。 |
館林藩 神田館勤仕者 |
年寄衆(御家老) |
6人 |
奏者衆(奏者番) |
5人 |
用人衆(御用人) |
7人 |
留守居衆 |
2人 |
書院番頭 |
5人 |
小姓組番頭 |
5人 |
槍奉行 |
2人 |
持筒弓頭 |
6人 |
先手弓鉄砲頭 |
6人 |
目付衆 |
8人 |
使役 |
9人 |
書院番組頭 |
5人 |
小姓組組頭 |
5人 |
使頭 |
5人 |
小十人頭 |
5人 |
勘定頭 |
2人 |
寄合 |
1人 |
納戸番 |
8人 |
腰物奉行 |
3人 |
裏門番頭 |
4人 |
小姓 |
19人 |
表小姓 |
12人 |
小納戸 |
10人 |
小姓組 |
49人 |
書院番 |
58人 |
広敷番頭 |
4人 |
納戸組頭 |
4人 |
弓役 |
2人 |
鉄砲役 |
2人 |
小十人組頭 |
5人 |
賄頭 |
2人 |
金奉行 |
2人 |
納戸 |
4人 |
右筆 |
6人 |
領分廻り |
2人 |
台所頭 |
2人 |
小十人組 |
64人 |
勘定 |
23人 |
書替役 |
2人 |
吟味奉行 |
3人 |
蔵奉行 |
4人 |
下屋敷留守居 |
1人 |
医師 |
10人 |
馬方 |
5人 |
伯楽 |
2人 |
鷹師 |
7人 |
同朋 |
2人 |
小普請 |
22人 |
破損奉行 |
4人 |
大奥〆切番 |
4人 |
広敷添番 |
8人 |
徒組頭 |
5人 |
徒目付 |
19人 |
火之番 |
9人 |
中間頭 |
2人 |
台所方 |
15人 |
茶道方 |
1人 |
坊主頭 |
3人 |
大工頭 |
2人 |
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合計 |
500人 |
館林藩 館林城勤仕者 |
城代 |
1人 |
添城代 |
2人 |
足軽大将 |
8人 |
町奉行 |
2人 |
書替奉行 |
2人 |
蔵奉行 |
2人 |
破損奉行 |
2人 |
山奉行 |
2人 |
鳥見 |
1人 |
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合計 |
22人 |
館林藩家臣一覧 |
室賀下総守正俊 |
年寄衆 |
6000石 |
曽我伊賀守包助 |
年寄衆 |
5000石 |
本庄宮内少輔道芳 |
年寄衆 |
4000石 |
黒田信濃守用綱 |
年寄衆 |
3000石 |
杉浦大隅守政清 |
年寄衆 |
3000石 |
牧野兵部成貞 |
奏者衆 |
2500石 |
金田与三左衛門正勝 |
奏者衆 |
※300俵 |
前田孫一郎定次 |
用人衆 |
1700石 |
戸田七内政次 |
用人衆 |
1700石 |
柘植平兵衛正弘 |
用人衆 |
1700石 |
押田三左衛門直勝 |
用人衆 |
1700石 |
向坂清左衛門政定 |
用人衆 |
1600石 |
植村五郎八 |
用人衆 |
1100石 |
山本七郎左衛門正信 |
用人衆 |
1300石 |
大久保荒之助忠辰 |
館林城城代 |
3000石 |
※金田与三左衛門正勝は前年亡くなった父金田惣八郎正辰の家禄3000石を継承していた。300俵は間違い。 |
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- 上記資料は岩本馨氏が寛文4年頃(1664年)の家臣団名簿である「館林殿之御事並御分限帳」を研究して作成されたもの。
- 寛文3年(1663年)金田惣八郎正辰が没し、大久保越中守忠辰が二代目城代に就任したが荒之助のまま記載されている。
- 奏者衆は家老の息子が多く、蔵米給与なので俵となっている。分限帳には金田正勝以外のにも記載されているが、
- 金田与三左衛門正勝は寛文5年(1665年)罷免された大久保忠辰の後任として城代に就任し3000石となる。 43歳
- 牧野兵部成貞は長岡藩主牧野氏の親族出身。寛文10年(1670年)36歳になって家老に就任。延宝8年(1680年)綱吉が将軍に就任すると側衆となり大名になる。翌年側用人に任じられ後に台頭する柳沢吉保とともに綱吉政権を支えることになる。
- 綱吉が将軍に就任すると家臣団はそのまま幕臣となった。綱吉から高い評価を受けた押田三左衛門直勝は2200石、向坂清左衛門直勝は2500石に加増された。同じように幕臣になって加増された者は多数いたはずである。
- 牧野兵部成貞は異例の大出世をするが、城代になった金田遠江守正勝も綱吉将軍就任の翌年である天和元年(1681年)側衆に登用され5000石に加増される。館林藩重臣で側衆に登用されたのは、側用人となった牧野兵部成貞と金田遠江守正勝だけである。
- 後に側用人となる柳沢吉保は勘定頭柳沢安忠の長男として生まれ、寛文4年(1664年)の頃は6歳の少年であった。但しこの年に藩主徳川綱吉に謁見をしており、輝かしい未来が約束されていたのかもしれない。
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神田館の家老 |
室賀下総守正俊 |
養父室賀満浚は武田氏旧臣の出身で徳川家康の家臣となり1000石の旗本だった。家督を継承した室賀正俊は家光に仕え200石を加増された。慶安元年(1648年)綱吉の附家老となり1800石加増され3000石となる。
寛文元年(1661年)4200石加増され7200石となる。
寛文3年(1663年)婿養子室賀正信に1200石を分知し致仕。寛文5年(1665年)嫡男室賀正勝14歳が6000石を継承し小姓として仕える。幕臣に戻った室賀氏は旗本寄合で幕末まで続くことになる。 |
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曽我伊賀守包助 |
曽我氏は代々室町幕府に仕え、父曽我尚助は足利義昭→織田信雄→豊臣秀次に仕えてきた。
慶長5年(1600年)徳川家康に召され1000石で出仕。寛永3年没すると嫡男曽我古祐が1000石を継承。弟の曽我包助は兄の200石を譲られた。兄曽我古祐は大坂町奉行などを歴任し3000石に加増された。
弟の曽我包助も徳川家光の側衆を勤め、神田館の家老となり5000石を賜った。 |
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本庄宮内少輔道芳 |
五摂家の二条康道に仕えていたが義妹桂昌院(綱吉の生母)が縁で、慶安元年(1648年)綱吉の家老となり4000石を賜う。その後旗本として続くが孫の本庄道章の代に、宝永2年(1705年)6000石加須され1万石の大名になる。美濃国高富藩は幕末まで続く。 |
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黒田信濃守用綱 |
紀伊徳川家家臣近藤用勝の六男として生まれ旗本黒田直綱の養子になった。
寛文元年(1661年))神田館の家老となり3000石を賜った。外孫の直邦を養子としたが、黒田直邦は綱吉の時代に二万石の大名となり、更に吉宗の時代に老中となり3万石に加増された。 |
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杉浦大隅守政清 |
杉浦氏は三河依頼の旗本で、政清は三代将軍家光に仕え万治元年(1658年)小十人の番頭に移り700石となった。寛文元年(1661年)神田館の家老となり3000石を賜った。天和元年(1681年)将軍綱吉の子徳松の側役を勤め4000石に加増された。 |
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(7)館林藩の特徴
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館林藩の特徴を述べるために、上記のように家臣の内訳や藩の重役に関する資料を提示いたしました。上記の資料を検証することで他藩に無い館林藩の特徴が明白になってきました。
- 藩士が522人となっているが、江戸の神田館に500人に対し館林城に22人しかいないのは少ない印象である。
- 年寄衆・奏者衆・用人衆は知行地が与えられ、知行地から得られる年貢米が収入となる知行取りなのに対し、藩士の大半は藩の蔵に収められた年貢米から、蔵米を俸禄として受ける蔵米取りだったのである。
- 知行地に対し藩が直接年貢を徴収する蔵入地の割合が高かった館林藩にとって、代官の果たした役割が大きかったはずである。
- しかし、 館林城には藩士が22人だったことを考慮すれば、荘屋あがりの代官である在地代官が農政全般で大事な役割を果たしていたと推察される。
- 徳川綱吉は江戸定府だったので参勤交代を免除され、理想的な藩士の数だった(人件費が少ない)ので財政的には恵まれていたはずである。
- 徳川綱吉は藩主時代においても文治政治を目指しており、礼儀による秩序を構築・強化をしていく政策は領民にも及んだと考えられる。つまり善政が行われていたのである。
- Wikipedia軍役によると江戸幕府の定めた軍役規定が知行高1万石につき300人となっているとのことで、館林藩は軍役を命じられた場合は6000人~7500人を徴用する必要があるが、館林城の8人の足軽大将だけで準備できるはずがないのである。
- 戦闘員と非戦闘員の合計が軍役に徴用される人数だが、多くの藩士が神田館に勤仕する文民であることから、藩士だけでは十分な戦闘員を確保することが難しい。
- 徳川綱吉は将軍就任後鷹狩りは一度も無く、鷹狩りそのものも縮小そして禁止にしてしまいます。藩主時代でも、国元に一度しか戻らなかったことから、軍事訓練にあたる鷹狩りは国元では無かったはずです。このようなことから館林藩は軍役を前提とする組織にはなっていなかったと考えられる。
- 藩士の6割は幕臣もしくは幕臣の子弟などで、身分は幕府からの出向者のような存在であった、4割は館林藩独自の採用で浪人の中から有能な人材を確保している。藩主綱吉の目に叶った人材を採用していることで、縁故採用などを極力排除することが可能だったはずである。館林藩に有能な人材を多く確保できたことは、五代将軍綱吉とともに幕臣となった館林藩士が綱吉の幕政改革に尽力することになる。
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◎他藩との比較
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寛文9年作成の水戸藩の家臣一覧である「水府御規式分限」では家禄の判明してる藩士総数1009人、家禄不明の藩士474人となっている。
水戸藩は28万石・江戸定府など館林藩と極めて似ているので比較するのに適している。
その中に大番・馬廻りなど軍事部門や家老の家来などが明記されており、上記合計1483人の内容には納得がいく。
江戸詰めと水戸詰めの区分がされていないが、江戸詰めが半分以上水戸詰めが半分以下だったらしい。
館林藩と水戸藩の分限帳を比較すると、館林藩の特徴もしくは異常性が見えてくる。
本来館林城下には大番・馬廻りなど軍事に携わる家臣や各奉行配下の藩士などが多数いなければならないのである。
館林藩二代目家老大久保忠辰が藩主に上申し罷免になった事件は、館林城に22名しか藩士を置いていないことに意見を申したことが原因の可能性が高い。
但し、水戸藩は「大日本史の編纂」「元禄13年(1701年)表高を25万石から35万石に改める」などの理由で出費がかさみ財政難になってしまうのですが、藩士が少ない館林藩は財政的に余裕があり統治は順調だったので水戸藩とは対照的です。
館林藩は雇用・財政・農民統治において理想的なことを行い、徳川綱吉は将軍就任後天和・貞享の治と呼ばれる幕政改革を行うことになるのであります。 |
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