三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第六章 将軍綱吉と金田正勝その1       


第一章 第二章
 
 風前の灯火だった正祐系金田氏は金田正辰の代に再興し、正辰とその次男金田正勝は館林藩主徳川綱吉に城代家老として仕えました。更に徳川綱吉が五代将軍に就任すると、金田正勝は側衆として将軍に仕えることになるのであります。
館林藩の家老で側衆に栄進できたのは、側用人になった牧野成貞以外は金田正勝だけなことは特筆されるべき事柄なのです。
奏者番として城代家老として藩主綱吉に永く仕え、更に側衆として将軍綱吉に仕えた期間を含めると25年の永きに及んだことから、金田正勝に対する五代将軍綱吉の信頼の高さを推察することができます。

第六章では五代将軍綱吉が幕府の改革を断行するために、城代家老金田正勝がいかに貢献したかに焦点を当てて検証いたします。

 
 
金田惣八郎正辰の歩み
 
 ここでは金田正辰の禄高を検証することで、金田正辰の歩みを具体的に把握してみることにいたします。

元和元年 (1615年) 金田正辰19歳 大阪夏の陣の軍功で500石 正辰19歳
寛永8年 (1631年) 金田正辰35歳 200石加増で700石 正辰35歳
寛永11年 (1634年) 金田正末刑死事件  当時金田正辰38歳 
承応 2年 (1653年)  金田正辰57歳 御先鉄砲頭
明暦 2年 (1656年) 金田正辰60歳 300石加増 1000石になる。
寛文 元年 (1661年) 金田正辰(65歳)正辰に館林藩城代家老として3000石を賜う。
次男正勝(39歳)も館林藩に移り翌年奏者番拝命。               
正辰の旗本としての家督及び1000石は長男正親(42歳)が継承。
寛文 3年 (1663年)   金田正辰病没享年67歳    金田正勝41歳、奏者番のまま父の3000石継ぐ。
     
金田正辰病没後      (参考)
     
寛文 5年 (1665年)   二代目城代家老大久保忠辰が藩主綱吉に上書したことで逆鱗に触れ、家老の職を解かれ高松藩に追放される事件が起きる。急遽金田正勝が三代目城代家老に就任。43歳
延宝 8年  (1680年)   徳川綱吉五代将軍に就任。
天和元年 (1681年)   金田正勝神田橋内に屋敷を拝領し側衆として将軍に仕える。5000石に加増。59歳
貞享 3年  (1686年)   金田正勝病気の為、職を辞し寄合となり小石川に屋敷替えとなる。64歳
 
 
  • 大坂夏の陣では5月7日天王寺岡山合戦で豊臣勢を破った幕府軍が大坂城に殺到した。大番に属して戦った金田正辰は軍功により采地500石を賜う。19歳
  • 詳細は下記の通りだが、二代将軍秀忠が実権を握っている間は500石のまま不遇な日々を送る。
  • 寛永8年(1631年)大御所秀忠が体調を崩し、実権が三代将軍家光に移ると200石加増された。35歳
  • 寛永11年(1634年)改易となり牢人となっていた長兄金田正末が、秀忠とその重臣による改易処分の不服申し立てをするため直訴に及んだが、権力を掌握していた老中土井利勝の独断により処刑されてしまった。38歳
  • 以後三代将軍家光の没する慶安4年(1651年)55歳まで雌伏の日々を送る。三代将軍家光は金田氏再興を心の中にしまったまま人生を終えてしまったが、老中に遺命として金田正辰を館林藩主徳川綱吉の城代家老に任じることを残したのであった。
 
 (1) 金田惣八郎正辰(家康の死と共に暗転した前半生)
 
  1. 慶長2年(1597年)金田惣八郎正勝の三男として生まれる。母は内藤与惣兵衛正守の娘。 (←下記にて検証する)
  2. 慶長16年(1611年)将軍秀忠に拝謁する。15歳
  3. 慶長19年(1614年)大坂冬の陣で土岐山城守定義 ※1の率いる軍勢に属して従軍する。18歳                        
  4. 慶長20年(1615年)大坂夏の陣で高木主水正正次※2の部隊に属して従軍する。 5月7日の合戦(天王寺・岡山合戦)※3 で味方の隊列から離れた金田正辰は、単身敵兵と槍で交戦し次々と槍で襲ってくる敵兵を槍で突き返して奮戦した。敵の一人を槍で突き殺し首級を上げたが、敵兵6~7人に囲まれ手傷3ヶ所に及んだ時に味方の軍勢が駆けつけ敵兵は退散した。19歳
  5. 高木主水正正次によって上申された金田正辰の奮戦の報告を受けた徳川家康は、金田正辰を呼び軍功を讃え「(伏見城城番金田備前守正勝のいる)伏見城に行って、父親(金田正勝)の元で手傷の療養につとめるように。」と恩命を下し金二十両を正辰に与えた。
  6. 同年(1615年但し改元され元和元年)12月27日将軍秀忠より大坂の陣の軍功で下総国千葉郡のうちにて采地500石を賜う。家禄を得たことで金田正辰は分家として自立する。
  7. 同年12月14日に父金田備前守正勝が不慮の死を遂げ兄正行が家督を継承したはずだが、将軍秀忠と重臣たちの陰謀にはまってしまうことになる。                        
  8. 元和2年(1616年)6月1日駿府の大御所徳川家康逝去。これにより江戸の将軍秀忠と重臣たちは幕府の機構整備に邪魔な者を追放できるようになる。徳川家康の天下取りに黒子として貢献した金田祐勝・正勝親子は歴史の闇に消し去られ、金田正行は改易となり所領は収公された。 但し改易になった時期は不明。
  9. 改易理由は秀忠の勘気に触れたとされているが、将軍秀忠と重臣たちの罠にはまったと考えられる。伏見城城代松平定勝(家康の異父弟)に属するのか、江戸城に向い将軍秀忠に仕えるのか、お達しが無いまま金田正行が不安定な立場の状態で、土井利勝などの陰謀にはまり改易となってしまったのが真相である。 在京だったので将軍秀忠に直接会えることはなく、将軍の使者は弁明など聞くはずもなく、将軍秀忠には「嘘偽りのみを申してます」と報告をされたので、お手上げだったのである。     
  10. 将軍秀忠は堺の豪商金田屋(かねたや)に糸割賦制度の特権を与え優遇したことから、金田氏は茶屋.四郎次郎のような商人として存続することを望んだと考えられる。     
  11. 寛永8年(1631年)金田正辰は200石加増され禄高700石となる。正辰35歳 大御所として実権を握っていた前将軍秀忠が体調を崩し 、翌年没することが影響したと考えられる。
  12. 時期は不明だが弟の金田正延が松平忠長(将軍家光の弟)に仕え200石の禄高となっていた。

※1 土岐山城守定義は下総国守谷1万石の大名。慶長17年より大番頭。
※2 高木主水正正次は、旗本で7000石。大坂夏の陣の戦功で元和2年に2000石加増となった。
※3 大坂夏の陣で最大の激戦。幕府軍は天王寺口・岡山口から大坂城へ向けて進軍を開始。決死の豊臣方の武将真田信繁・毛利勝永・大野治長が布陣し激しい攻撃をしかけたので幕府軍は混乱に陥る。家康・秀忠の本陣が混乱状態になるなど一時劣勢になったが、数で勝る幕府軍は形勢を立て直し真田信繁が討ち取られ、豊臣勢は大坂城へ退却していった。その後幕府軍は大坂城に殺到し豊臣秀頼が自刃し豊臣氏が滅びたのは翌日であった。
 
  ◎内藤与惣兵衛正守 《正辰の母は堺の商人の娘で旗本の娘とするために両家の家譜を書き換えた》
  1. 金田正辰の母は内藤与惣兵衛正守と金田家譜になっているが、寛政重修諸家譜1520巻191では内藤与三兵衛正守となっている。
  2. 内藤正守は永禄13年(1570)年生まれ、天正19年(1591年)に22歳で家康に拝謁。その後関ヶ原の戦いに勝利した家康に伏見城で十八組の番として仕え駿府に大御所となった家康にも従った。
  3. 家康が亡くなると大番に列し将軍秀忠に仕えたが元和4年(1618年)理由は不明だが改易となった。家康に24年間仕え旗本として処遇されたが改易前の禄高不明。49歳
  4. 改易後寛永15年(1638年)許されて切米400俵を賜った。慶安4年(1651年)81歳で没している。 寛政重修諸家譜で娘が金田惣八郎正勝の妻と明記されている。
  5. 金田惣八郎正勝は永禄6年(1566年)に生まれており、 内藤正守は金田惣八郎正勝より4歳年下なのである。
  6. 金田正辰が生まれた慶長2年(1597年)において内藤正守は28歳だった。 正守の娘は子供で年齢的に合致しない。→正辰の母になることは絶対に無い!
  7. 内藤氏は三河松平氏からの家臣で、一族には江戸時代になって信濃高遠藩主・陸奥湯長谷藩主・三河挙母藩主・日向延岡藩主・信濃岩村田藩主・越後村上藩主がおり旗本とも含め多くの家が隆盛した。
  8. 内藤正守の父である内藤正勝は松平広忠に仕え、天文11年(1543年)嫡男竹千代が生まれるてから今川氏の人質になるまで直属の家来だった。竹千代の人質時代に同行した阿部正勝・天野康景の名前も載っている。内藤正勝と内藤正次(正守の兄)は桶狭間の戦い以後の動向は何も書かれていない。
  9. 金田与三左衛門正房が竹千代を織田信秀に奪われる事件が起きた時に内藤正勝は同行しているし、駿府で人質生活を送っている竹千代の近習だったのが内藤正勝だったのである。金田祐勝が駿府に呼ばれ竹千代に仕えることができたのは、内藤正勝が竹千代の近習だったことが大きな要因だと考えられる。金田祐勝にとって内藤正勝は親族に近い存在だったに違いない。
  10. 永禄5年(1560年)清洲同盟が結ばれると金田祐勝は三河を去り堺に潜伏し商人として活動し、徳川家康の為に諜報活動をしたことは既に述べてきた。内藤正勝も同じような理由で長男正次とともに三河を去ったと考えられるが、全てが謎なのである。
  11. 内藤正勝の次男内藤正守だけが関東移封後の徳川家康の家来にもどることができたのである。そして関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、堺の商人から武士に戻った金田祐勝が嫡男金田惣八郎正勝とともに伏見城で家康に仕える。金田祐勝は息子に正勝の名前を与えたのは、子供の時に慕った内藤正勝の名前からではないだろうか。
  12. 慶長7年(1602年)金田祐勝は57歳で亡くなる。金田惣八郎正勝は37歳、内藤正守は33歳。ともに伏見城で徳川家康に仕えており、父祖以来の親交が深まったと考えられる。
  13. その後金田惣八郎正勝は伏見城城番に出世し、大御所として駿府城に移った家康に内藤正守は仕えた。
  14. 大坂の陣で豊臣氏が滅ぶと伏見城城番だった金田惣八郎正勝は、将軍秀忠の重臣によって暗殺された。金田祐勝・正勝親子が黒子として徳川家康の天下取りに尽したことを葬り去るために、将軍秀忠の重臣は家督を継承した金田正行(牢人後は正末)を改易にしてしまった。内藤正守の改易も金田正行の改易と関連している可能性は大である。
  15. 金田惣八郎正勝の三男金田正辰は700石の旗本として残っており、改易となった内藤正守との親族のような交流はずっと続くのである。
  16. 三代将軍家光の代になると寛永11年(1634年)金田正末刑死事件がおきたり、寛永15年(1638年)に内藤正守が許され切米400俵を賜い旗本に戻ることが出来た。
  17. 慶安4年(1651年)将軍家光が亡くなるが、前年から家光の意向で金田氏再興の話しが金田正辰に伝わっており、条件として金田祐勝・正勝親子が堺で諜報活動をしていたことは封印することとされていた。金田惣八郎正勝の妻は堺の商人の娘だったことを隠さねばならなかった。81歳だった内藤正守は金田惣八郎正勝の妻を系図上自分の娘とすることを了承し、両家の系図に書き込むことにした。細かいことを気にしないで行われたことが、370年を経た今日真実を明かすことが出来た。

 (2) 金田惣八郎正辰(兄金田正末刑死事件がおき雌伏の後半生)
 
  1. 寛永11年(1634年)流浪の日々をおくっていた金田角左衛門正末(改易後兄正行が改名)が、4月29日三代将軍徳川家光の鷹狩りが行われた場所で直訴に及んだ。老中土井利勝の独断による事件処理で4日後の5月3日に金田正末は処刑された。以後金田正辰は雌伏の日々を過ごすことになる。正辰38歳
  2. 金田正辰の妻は長谷川讃岐守正吉※の娘。長谷川氏は今川氏の旧臣であったことが縁で、不遇だった金田正辰を支援してくれたことが推測される。長谷川讃岐守正吉は御側衆だったことで、中根正盛と同僚だった可能性が高いのである。
  3. 正辰の長男左平次正親は元和6年(1620年)、次男与三左衛門正勝は元和9年(1623年)に生まれた。
  4. 寛永13年(1636年)長男左平次正親は 大御番となり200俵を拝領する。正親17歳  正辰40歳
 
※ 長谷川讃岐守正吉の父は今川義元の家臣駿河小川城主長谷川正長。今川氏没落後徳川家康に臣従し三方ヶ原の戦いで討死した。正長には正成(1750石)・宣次(400石)・正吉(4070石)の3子があり、それぞれ幕末まで旗本として存続した。宣次の子孫が鬼平犯科帳の長谷川平蔵宣以である。金田与三左衛門正勝は長谷川正成の次男長谷川藤九郎正次の娘を妻にした。
 
 金田正末刑死事件が起きた寛永11年(1634年)から三代将軍家光が亡くなった慶安4年(1651年)までの18年間、つまり38歳から55歳歳まで金田正辰は雌伏の日々を過ごしたのである。後に徳川綱吉の側衆に栄進する正辰の次男与三左衛門正勝は、12歳から29歳まで部屋住みとして過ごしたのである。
700石の旗本の家の次男として生まれたので、このまま部屋住みで人生を終える可能性は十分にあったのである。しかしそのような境遇に負けないために、学問や見識をひろめる努力に励んだことで、後に実を結ぶことになったと考えられる。

 

 (3)四代将軍家綱の治世が始まり、館林藩主徳川綱吉となるまでの10年間

 慶安4年(1651年)将軍家光が亡くなり、四代将軍家綱(11歳)が叙任されると弟の綱豊(8歳)・綱吉(6歳)が元服し、それぞれ15万石の大名になる。
10年後の寛文元年(1661年)に、徳川綱重(18歳)が25万石の甲府藩主に、徳川綱吉(16歳)が25万石の舘林藩主になり甲府徳川家・館林徳川家が成立した。この時に三代将軍家光の遺命に従って舘林藩城代家老に金田正辰が任命された。
館林藩が成立するまでの10年間に紆余曲折があり、金田正辰にも何らかの影響はあったはずである。

 
  • 金田正辰は三代将軍徳川家光の遺命により、「徳松君が成長し藩主になった時に家老職に任じる」という内示を受けたが、徳松君が元服し徳川綱吉と改め15万石の藩主になっても、700石の旗本という身分に変更はなかったのです。               
  • 三代将軍徳川家光は弟の駿河大納言忠長の所領だった駿河国・甲斐国などの55万石で、今は天領になっている50万石を長松君(後の綱豊)・徳松君(後の綱吉)にそれぞれ25万石に分けて封じる意向だった。                             
  • 老中松平信綱・阿部忠秋など幕閣は駿府城の重要性を認識し天領として残すことにしたため、慶安4年(1651年)綱豊15万石・綱吉15万石と大名になっても、幕府は甲府城以外は未定の状態だった。                                    
  • 上記の影響により徳川綱吉は近江・美濃・信濃・駿河・上野にまたがる所領の合計が15万石で、当初は幕府に所領の管理を委託している名ばかりの大名だった。兄の綱重はいずれ甲府城主になることは決まっていたが、弟の綱吉をどこの城主にするかは先延ばしとなっていたのである。                                                           
  • 家老室賀正俊を中心に幕臣やその子弟を中心に構成された家臣団は、半分幕臣・半分藩士という意識しか無かったと考えられる。
    明暦3年(1657年)まで竹橋に綱吉の屋敷があったが、明暦の大火で焼失し神田橋御門内にあった神田館(現在の千代田区大手町)に移った。
  • 寛文元年(1661年)佐倉に国替えになった松平乗久の後に、徳川綱吉は館林城の城主となり10万石が加増されて25万石の大名になったのであった。10年間の間に藩士は500人に増え6割は幕臣から藩士に移籍し、4割は牢人から館林藩に仕官したもので、家臣の大半は江戸の神田館で綱吉に直接仕えていた。                                              
  • 館林徳川家の所領内訳は、上野11万5千石・下野3万2千石・甲斐3千石・美濃7万1千石・近江2万8千石で、館林城代管轄は上野11万5千石と下野3万2千石の合計14万7千石であった。                                             
  • 徳川綱吉が館林25万石の藩主になって、金田正辰は旗本1000石の禄高を嫡男正親に 譲り、新たに館山藩城代家老に就任し禄高3000石を賜った。寛文元年(1661年)になって初めて幕臣から館林藩に移ったことになっているが、実際上はかなり以前から準備作業をしていたと推察される。