三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第六章 将軍綱吉と金田正勝その6         back


第一章 第二章
 
 金田正勝は藩主徳川綱吉に城代家老として仕え、更に五代将軍に就任すると側衆として将軍に仕えることになるのであります。
奏者番として藩主綱吉に仕えてから側衆として将軍綱吉に仕え病気で辞任するまで25年の永きに及び、金田正勝に対する綱吉の信頼が高かったかを推察することができます。第六章では五代将軍綱吉が幕府の改革を断行するために、城代家老金田正勝がいかに貢献したかに焦点を当てて検証いたします。

 
 
 (11)金田遠江守正勝の人物像その4ー五代将軍綱吉の御側衆ー

 五代将軍綱吉就任後の金田遠江守正勝の年譜は下記の通りである
 
  • 延宝8年(1680年)徳川綱吉が五代将軍に任じられる。
  • 天和元年(1681年)金田正勝は、将軍綱吉から御側衆に任じられ神田橋に屋敷を与えられる。知行高が3000石から5000石に加増される。正勝59歳。
  • 天和2年(1682年)兄金田正親が500石加増され禄高1500石になる。
  • 貞享3年(1686年)病気を理由に御側衆を退任し小石川に屋敷替えになる。以後寄合席に属する。正勝64歳
  • 元禄10年(1697年)隠居し梅山と号す。嫡男正通に4000石・次男正則に700石・四男正朝に300石を分知し継承させる。75歳
  • 元禄11年(1698年)正勝76歳にて病没。故人の遺物として小信国脇指を将軍に献上の為、若年寄秋元但馬守喬知に差出す。将軍に家臣が形見分けを献上したことは、当時としては異例な出来事であった。
 金田正勝を検証するうえで重要なのは牧野成貞の動向なのである。
  • 延宝8年(1680年)牧野成貞五代将軍綱吉の側衆になる。3万3千石の大名になる。
  • 天和元年(1681年)牧野成貞が側用人になる。
  • 天和3年(1683年)牧野成貞が関宿藩主となり5万3千石になる。
  • 貞享元年(1684年)大老堀田正俊が暗殺される。これを機会に将軍と老中を仲介する側用人牧野成貞の影響力が強くなる。
 側用人牧野成貞は以後側用人政治と呼ばれ、柳沢吉保に引き継いでいくことになる。
一般的に堀田正俊が暗殺された以後に、老中の御用部屋が将軍の居所から遠ざけられたことで、仲介する側用人の重要性が増したと思われている。
五代将軍徳川綱吉の政権構想は、従来の老中主導の政治でなく将軍主導の政治であって、その為に側用人を活用する必要があったのである。今日では事務次官会議が主導の政治から首相官邸主導の政治に変わったのと同様なのである。
その為に側用人が機能するために周到な準備がなされ、五代将軍綱吉を支えていた大老堀田正俊が暗殺されても、側用人牧野成貞だけでも五代将軍綱吉を支える機能を果たしたのであった。

 ◎側用人牧野成貞と側衆金田正勝は連携していた
  • 舘林藩では当初牧野成貞と金田正勝が奏者番という重要な職務についていた。
  • 寛文5年 (1665年)金田正勝が43歳で城代家老に任じられた時に、牧野成貞は31歳だったので奏者番のままだった。
  • 寛文10年 (1670年)牧野成貞は家老に任じられる。36歳 舘林藩の次世代を担う重臣として頭角を現していくことになる。
牧野成貞が家老就任時、金田正勝は48歳・柳沢吉保は12歳だったことを特記しなければならない。
藩主綱吉の信任が厚い牧野成貞が神田館の家老の中で中心に位置し、城代家老だった金田正勝は牧野成貞に協力したことは間違いない。城代家老下屋敷に拠点を置いた諜報機関は、神田館の藩主綱吉・家老牧野成貞の意向に沿って諜報活動をする割合が高くなったはずである。後に側用人として権力を握る柳沢吉保はまだ12歳の少年で、この時期は江戸の牧野成貞と館林の金田正勝が連携して舘林藩の推進役だったのである。
  • 延宝8年(1680年)徳川綱吉将軍に就任。牧野成貞 将軍綱吉の御側衆になる。3万3千石の大名になる。46歳
  • 天和元年(1681年)牧野成貞が側用人になる。47歳 金田正勝 将軍綱吉の御側衆になる。59歳
  • 天和3年(1683年)牧野成貞が関宿藩主となり5万3千石になる。49歳
五代将軍徳川綱吉の政権構想は、将軍主導の政治であって、その為に側用人を活用する必要があり周到な準備がなされたと前述した。
将軍就任とともに牧野成貞を御側衆とし3万3千石の大名にしたのは、後の側用人として活躍するための準備だったのである。
金田正勝が牧野成貞と同時に御側衆にならなかったのは、城代家老の仕事を引き継ぐのに時間を要したからであった。特に城代家老下屋敷の諜報機関を、側用人牧野成貞直属の隠密機関として秘密裏に江戸に移す周到な準備があったのである。

牧野成貞が側用人になると金田正勝が側衆になり神田橋に屋敷を与えられる。
舘林の城代家老下屋敷の諜報機関は、金田正勝の神田橋の屋敷に拠点を移し、舘林藩の神田館や大名となった牧野成貞の家臣に分散して江戸で活動を開始したのである。
舘林藩士から幕臣に移った者も多く、その後幕府の役職につけた者は五代将軍綱吉への忠義心が篤く、側用人牧野成貞にとって貴重な情報源となったはずである。

貞享元年(1684年)大老堀田正俊が暗殺された頃には、側用人牧野成貞によって将軍直属の隠密機関として組織化され、舘林藩出身の家臣団が綱吉政権中枢となる役職者として活躍することになるのである。館林藩士500人のうち200人は新たに幕臣以外から採用された有能な人材であることがここで生きてくるのである。
又幕臣でも有能な人材は抜擢人事が行われ、昇進の機会もあったのである。つまり綱吉政権は現在にも通じる能力主義の官僚機構だったと考えられる。
側用人牧野成貞が隠密機関によって老中・大名・旗本・天領代官等を監察し、有能な人材を適材適所に配置できたからこそ、下記に記した天和・貞享の治と呼ばれた幕政改革を推進することができたのであった。

貞享3年(1686年)金田正勝は病気を理由に御側衆を退任し小石川に屋敷替えになる。64歳
52歳になった牧野成貞が側用人として五代将軍綱吉とともに老中から政治の実権を握ったのを確認し引退した。
柳沢吉保は小納戸役として将軍綱吉に仕え2030石を賜り出羽守に叙任していた。28歳
そして2年後には側用人に就任し1万2千石の大名となった。

後に15万石の大名にまで出世する柳沢吉保の時代が始まろうとしている時期に、金田正勝が御側衆を退任したのは「老兵は去りゆくのみ」という心境に達したからであろう。
 
  参考サイトの第2章 綱吉と天和・貞享の治 (https://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/rekisi/02edo.htm )について
 上記サイトは、トップページや管理者が不明なのだが、将軍綱吉の治世を的確に分析しているので紹介したい。
googleで「綱吉と天和・貞観の治」を検索するか上記アドレスで開けば閲覧できるはずである。大まかにいうと下記のような内容である。
  • 幕府の財政機構整備 勝手掛け老中制度・側用人制度・勘定所の充実と吟味役の設置・能力本位の官僚制など
  • 幕府収入の増加と支出削減策 大名・旗本の改易減封・元禄検知・天領の代官に対する懲罰・人件費の削減(小普請金など)
  • 幕府財政の改革 貨幣の改鋳・増税
  • 長崎貿易のてこ入れ 輸入規制策の導入→長崎会所の設立
 五代将軍綱吉は生類憐みの令が有名だが、上記サイトでは財政状況の悪化・硬直化した官僚機構・貿易収支の悪化など現在にも通じる政治問題に、積極的に改革を行った優れた将軍として紹介している。
改革によって幕府財政は改善し有能な人材が活用され、元禄時代という好景気の時代が到来したのである。
しかし、既存権益を失ったり減額された大名・旗本などからは恨みを買うし、貨幣経済の発展で武士階級は次第に経済的に苦しくなっていったのである。富士山の噴火や大地震など天災も多発し、五代将軍綱吉の治世の後半は改革の負の側面が顕著になっていった。

六代将軍家宣の時代に新井白石が徳川綱吉の治世を徹底的に批判したことで、積極的に改革を行った有能な将軍のイメージが消されてしまったことは残念でならない。
 
 (12)金田遠江守正勝の人物像その5ー晩年ー
  • 貞享3年(1686年)病気を理由に御側衆を退任し小石川に屋敷替えになる。以後寄合席に属する。正勝64歳
  • 元禄10年(1697年)隠居し梅山と号す。嫡男正通に4000石・次男正則に700石・四男正朝に300石を分知し継承させる。75歳
  • 元禄11年(1698年)正勝76歳にて病没。故人の遺物として小信国脇指を将軍に献上の為、若年寄秋元但馬守喬知に差出す。将軍に家臣が形見分けを献上したことは、当時としては異例な出来事であった。
金田遠江守正勝は御側衆を退任しても、5000石の旗本として寄合席に属していた。小石川の屋敷に移ってからは穏やかな日々を過ごせたはずである。

御側衆として神田橋の屋敷にいた時は、城代家老下屋敷を拠点としていた隠密組織の主力が屋敷を利用していたので、側用人牧野成貞が将軍直属の組織にする準備尾が整うまで面倒を見ていた。
五代将軍綱吉の時代に側用人牧野成貞と側用人柳沢吉保が老中を上回る政治力を握ったのは、将軍直属の隠密組織を掌握し、舘林藩出身の有能な幕府役人を掌握していたことによるものである。この結果、幕府役人・大名・旗本・代官などへの秘密裏に監察が行えたので、老中が知らない情報まで正確に把握していたのであった。
将軍直属の隠密組織は八代将軍吉宗によって、御庭番として正式な組織になり側用人の名前が御側御用取次の指揮下となった。

ここでも残念ながら、紀州藩お抱えの薬込役と呼ばれる役人たちが御庭番の起源とされ、綱吉の時代に出来た将軍直属の隠密組織は歴史の闇に消し去られてしまった。
舘林藩は藩士500人がそのまま幕臣となり、五代将軍綱吉の手足となって改革を推進することができた。
吉宗が将軍になっても紀州藩は残り、吉宗とともに幕臣となった紀州藩士は正式には40数人となっています。
享保の改革で有名な徳川吉宗ですが、大岡忠相など幕臣の中から有能な人材を発掘し活用したことを考えれば、御庭番も既にあった隠密組織を改革したと考えられる。
享保の改革で有名な徳川吉宗ですが、徳川綱吉の治世で行われた改革があったからこそ、更なる幕政改革を行われた成果を残すことができたと考えられます。
 
 ◎五代将軍綱吉の金田正勝への配慮

金田遠江守正勝が御側衆を退任後、三男金田正明が五代将軍綱吉から26歳で知行地3000石を賜ったのは 、金田遠江守正勝に対して本当は1万石の大名にしてあげたかったという思いがあった証拠なのである。
  • 元禄2年(1689年)に五代将軍綱吉に小姓として召されて600俵を拝領。その後能登守に叙任 18歳
  • 元禄3年(1690年)に能登守に叙任 19歳
  • 元禄5年(1692年)に加増都合3000俵となる。21歳
  • 元禄10年(1697年)3000俵から知行地3000石になる。26歳 その後将軍が変わっても小姓組組頭・番頭・駿府城城番など役職に任じられた。
 五代将軍綱吉が有能な人材として高い評価だったことにより3000石を拝領したのだが、金田遠江守正勝が御側衆になった時に禄高を5000石とすることを本人が希望したことが影響したのだ。
祖父金田備前守正勝が伏見城で城番に任じられていた時に徳川家康から5000石を賜っていた。そのことを祖母孝立院から聞いて育った金田遠江守正勝にとって、いつか自分も5000石を賜ることが人生の目標だった。
五代将軍綱吉から8000石の打診があったのだが、本人の希望で5000石となってしまった経緯がある。
その差額の3000石を三男金田正明は賜ることができた。もちろん金田正明は有能な人材だったのでいずれ実力で3000石となれたが、金田遠江守正勝の存命中に拘った五代将軍綱吉の意思により26歳で3000石を賜ることができた。
この結果、金田遠江守正勝が75歳で隠居した時に、息子たちの禄高と兄正親の禄高を合計するとぴったり一万石になった。これは偶然ではなく五代将軍綱吉の意思によるものである。

 ◎金田家譜から消された三河金田氏歴代の真実にせまる手がかり
  五代将軍綱吉は歴史の闇に消された三河金田氏歴代について、(歴史の闇に消されたことを)覆すことはできないがせめて金田遠江守正勝の忠義に報いてやりたいという気持ちはあった。将軍綱吉から正勝への配慮として、三河金田氏歴代の真実に迫る手がかりを残してくれたことを掲示したい。
  • 河内国金田(かなた)村を舘林藩領とした。堺は天領で隣接している金田村を舘林藩領としたことには特別な意味が隠されているのである。※
  • 金田遠江守正勝の四男勝延を 病没したことにして、正勝の叔父金田正孝の養子経廣となり別家(正孝系金田氏)として自立できたのは将軍綱吉の支援なくしてはできなかった。※
  • 服部半蔵正成の子孫は徳川家康の弟松平定勝の系譜を継ぐ松山藩・桑名藩の家老として存続した。服部家の家譜に服部半蔵保長の娘婿として金田正祐を金田庄之助と記されている事と、正孝系金田氏の過去帳に金田惣八郎正辰を庄之助正辰と記されてる事は関連性が高いのである。五代将軍綱吉の代に服部氏と金田氏は疎遠になっていたが、将軍綱吉の仲立ちがより服部氏の家譜と旗本金田氏の家譜が正祐を庄之助とすることで結ばれたのである。庄之助正辰を「金田正祐の系譜を継いだ金田正辰」という特別な意味を込めて正孝系金田氏の過去帳にだけ記されたのであった。
  • 正孝系金田氏の過去帳には、金田遠江守正勝の祖父を金田備前守正治と記されているが、寛政重修書家譜の正藤と同様に正勝の別称である。本来は家康から伏見城城番を拝命し対豊臣氏の重要な任務を果たしたと考えられ、備前守の官位も5000石の禄高も妥当と考えられる。将軍綱吉は正孝系金田氏の過去帳に備前守の記述を残させ、遠江守正勝に5000石の禄高を与えたことで三河金田氏歴代の真実の記録に繋がる手がかりを残してくれたのである。
※金田遠江守正勝は家譜から消された祖母孝立院や叔父正孝の供養と三河金田氏歴代の家譜から改ざんされたり消されたりした記録を伝承させる義務を正孝系金田氏に負わせた。
五代将軍綱吉は正孝系金田氏に対し勝延に与えた禄高を安堵するとともに、将来も幕府役人が正孝系金田氏に圧力をかけないようにするため、赦免状らしきものが与えたと考えられる。寛政重修書家譜に正孝系金田氏の記載が無いのは、五代将軍綱吉の赦免状があったので偏者が踏み込むことができなかったからである。
 
 ◎何故五代将軍綱吉は河内国金田(かなた)村を舘林藩領としたか
 河内国金田(かなた)村は金田惣八郎祐勝が徳川家康の指令により諜報活動をする為に商人となり金田屋(かなたや)を創業した地。
その後金田屋(かなたや)は堺に進出し諜報活動を通じて家康の天下取りに貢献した。江戸時代には堺奉行所を支える惣年寄りを歴任するほどの特権商人になった。

金田惣八郎祐勝は金田屋新八郎と改名して金田屋を起業し、その後堺の宿院にて店を開き金田屋初代治右衛門として堺での地盤を築いたのだが、江戸幕府成立後に金田屋の由緒書から金田惣八郎祐勝の名前は消されてしまった。二代将軍秀忠とその重臣は金田惣八郎祐勝が堺で徳川家康の為に諜報活動をしていたことを歴史の闇に消し去ったのである。

そして二代目の金田常安が三方ヶ原の戦いで戦死した金田靭負宗房の遺児と記されたことで、金田屋の家譜は事実と相違したものとなってしまった。しかも金田常安が建立した常安寺(堺市堺区熊野町東)の由来書には豊臣氏の遺臣金田常安と記されたのである。
いずれも将軍秀忠の代に堺の金田屋は家譜を改ざんする事で存続を許された事情によるものである。

金田惣八郎祐勝と長男金田正勝は関ケ原の戦いに勝利した德川家康に召され、伏見城で家康に直接仕えた。その後長男正勝は出世し、大坂城の豊臣氏に備えるため伏見城城番び任じられ金田備前守正勝と称した。豊臣氏が滅びると二代将軍秀忠によって金田備前守正勝は謀殺され、その子金田正行(後に正末と改名)は改易となってしまった。金田祐勝の系譜は僅かに500石の旗本として残った金田正辰が第六章記載の通り舘林藩家老として栄進し復活した。

旗本金田氏と堺の特権商人金田屋は将軍家に遠慮し、江戸時代を通じて堂々と交流することは控えていた。
それを憐れんだ五代将軍綱吉が河内国金田(かなた)村を舘林藩領とすることで、三河金田氏歴代と堺の商人金田屋(かなたや)を結びつけるヒントを後世に残してくれたのである。

  ◎金田惣八郎祐勝の長男金田備前守正勝の系譜を継ぐ旗本金田氏と次男金田屋二代目常安の系譜を継ぐ堺の特権商人金田屋は江戸時代を通じて交流があったことは間違いない
 
  金田屋の由緒書に天保14年(1843年)の項に「江戸浜町袋町本家金田靭負殿と今でも交流がある」との記載があることついて説明する。正勝系金田氏は享保2年より100年間江戸浜町に屋敷を構えていたことから、上記を「江戸浜町本家金田近江守殿と今でも交流がある」と解釈するのが妥当である。浜松町の本家とは金田近江守正甫や近江守正延を指すのである。
 
 金田家譜によれば金田遠江守正勝の3代後の金田正甫の代に享保2年(1717年)浜町に屋敷を移した記述がある。文化14年(1817年)に麻布市兵衛町に屋敷を移すまで浜町に屋敷があったのである。
  • 天和元年(1681年)金田遠江守正勝は御側衆に就任すると神田橋に屋敷を与えられた。
  • 貞享3年(1686年)金田遠江守正勝は御側衆を退任し、小石川に屋敷替えとなる。
  • 享保2年(1717年)金田近江守正甫、水戸藩が浜町屋敷を分割した場所に屋敷替えとなる。金田屋の由緒書記載の浜町の屋敷とはこの場所を指すと考えられる。
  • 文化4年(1807年)金田大蔵正温(正延の次男)※浜町永久橋の屋敷と交換する。永久橋は現在首都高速道路箱崎JCTの下にあった箱崎川にかかっていた橋。埋め立てられて今は無い。
  • 文化14年(1817年)金田大蔵正温、麻布市兵衛町の屋敷と交換する。麻布市兵衛町の屋敷は現在の六本木1丁目10番に相当し、ホテルオークラ別館が建っていたが、2024年現在鹿島建設が高層ビルを建築中。
金田惣八郎祐勝が元亀年中(1570年~1573年)に堺の宿院にて金田屋治右衛門として創業してから200年を経ても、長男正勝の系譜を継ぐ旗本金田氏と次男常安の系譜を継ぐ堺の豪商金田屋は深い繋がりを保っていたことが判明した。

 
 
 (12)金田正矩ー上杉鷹山・吉良上野介との深い因縁ー
 ①分知によって5000石が3000石になった正勝系金田氏(大名家からの養子)
 
 金田正勝は隠居時に5000石の家禄を嫡男正通に4000石、次男正則に700石、五男正朝に300石分地し継承させた。金田正澄の代に弟勝直に500石分知したので3500石になった。更に金田正甫の代に弟正峯に500石を分知したので3000石となった。特筆するのは、大名家から養子が入ってきた事である。
  • 米沢新田藩主上杉勝周の次男勝職は、金田正峯の次女と婚姻し婿養子となり金田正矩と改名した。安永9年(1780年)44歳の時に義父正峯が隠居し家督を継承した。兄上杉勝承には嗣子が無く本来なら藩主を継承できる立場だったが、500石の旗本として人生を歩んだ背景には米沢藩の財政危機があった。
  • 下記系図の金田正延の代に養子として、美作国津山藩主松平長孝※の五男松平長彛を養子に迎えた。寛政2年(1790年)長彛30歳の出来事で金田正彛(まさつね)と改名した。享和2年(1802年)義父正延隠居し金田正彛3000石の家督を継承した。しかし、享和3年(1803年)43歳で没した。
金田正彛は大村半七郎の門を出、日置流伴道雪派の弓術師範となり、その騎射の術を屡々(しばしば)将軍の台覧に供し褒章を受ける。
雲海と号し寛政11年(1799年)に弓術秘書「大中弁惑編」を著す。

※津山藩主松平長孝は結城秀康の系譜を引く5万石の親藩大名だった。
 
金田正勝 金田正通 金田正澄  ― 金田正甫 金田正延  
5000石 4000石   3500石   3000石    3000石  
    ↓   |   └  金田正峯 ―  金田正矩  
  弟正則・正朝等に分知)    |     500石分地   500石  
                   
       └ 金田勝直  ― 金田正位  ― 金田正宇  
         500石分知    勝直の弟を養子    改易遠島  
 
 ※天明8年(1788年)自宅や仲間の家で博奕を行ったことで禁令に触れ、改易となり三宅島に流された。博奕をしていなかった長男も江戸から追放処分となった。天明6年に老中田沼意次が失脚し、天明7年に松平定信が老中となり取り締まりが厳しくなった結果と思われる。
 
 ②米沢藩主上杉家における上杉鷹山と金田正矩
 ◎米沢藩の財政危機は吉良家から末期養子として上杉綱憲が藩主として迎えられた時から始まる。
  • 寛文4年(1664年)第三代米沢藩主上杉綱勝 嗣子ないまま急死。享年26
  • 本来なら米沢藩は無嗣改易のところ、岳父保科正之の尽力で綱勝の妹が嫁いだ吉良義央の長男を末期養子として存続を許された。
  • 吉良義央の長男が第四代藩主上杉綱憲であるが、30万石の禄高が15万石に減少されたにもかかわらず、対策を怠ったために米沢藩は財政危機が慢性化するのであった。
  • 元禄15年(1702年)赤穂事件で吉良義央が赤穂浪士に打ち取られると、元禄16年(1703年)吉良家を継承した綱憲の次男吉良義周は改易となり、信州諏訪藩に入流となった。宝永3年(1706年)病弱だった生良義周は病没。享年21歳
  • 宝永元年(1704年)第四代藩主上杉綱憲は病没。享年42歳。赤穂事件・藩財政の悪化と悩み多き人生だった。
  • 享保4年(1719年)第五代藩主上杉吉憲は弟の上杉勝周に1万石を分与して米沢新田藩を立藩させた。
  • 第五代藩主上杉吉憲の代においても、藩財政はますます窮乏化していった。享保7年(1722年)死去。享年39歳
  • 第六代藩主上杉宗憲9歳で家督を継承享保19年(1734年)死去享年22歳。吉憲の長男
  • 第七代藩主上杉宗房17歳で家督を継承延享3年(1746年)死去享年29歳。吉憲の次男
  • 第八代藩主上杉重定27歳で家督を継承。兄二人が若くして亡くなり、嗣子が無かったので吉憲の四男だったが藩主になれた。
  • 宝暦9年(1760年)高鍋藩主(重定の従兄弟)の次男松三郎10歳を養嗣子として迎えた。後の上杉治憲である。上杉重定は41歳になって始めて庶子(勝煕)が誕生したが、前年に結んだ養子とする内約を履行した。
第八代藩主上杉重定は政治を家臣に丸投げし、華美な生活を好んでいたので米沢藩の財政は益々逼迫していった。その後財政の逼迫は藩の混乱を招き幕府でも話題にのぼる状態になった。
宝暦13年(1764年)に米沢新田藩主上杉勝承は、藩主重定の義兄弟尾張藩主徳川宗睦に「藩主重定の引退勧告」を働きかけた。上杉勝承は自藩で改革にそれなりの成果を出しており危機感も強く、米沢藩における財政逼迫による混乱の収拾に動いたものである。上杉勝承30歳上杉重定45歳の時の出来事である。
明和4年(1767年)48歳となった藩主上杉重定は病気を理由に隠居し、養嗣子上杉治憲(後の鷹山)が家督を継承した。第九代米沢藩主となった上杉治憲は17歳であった。
上杉重定の長男勝煕は8歳・次男治広は3歳・勝定は1歳であった。
上杉治憲は、莫大な借財を有し、120万石時代の家来6000人を15万石になっても召し抱えた米沢藩の改革に挑み、健全な財政状態にした名君になった。世に知れた上杉鷹山である。
 
 
 
 
 ◎米沢藩主上杉重定は引退の条件として自分の子を米沢新田藩主の嗣子とすることを上杉勝承に求めた
  • 宝暦13年(1764年)から支藩である米沢新田藩主上杉勝承が米沢藩主上杉重定の引退勧告を働きかけており、養嗣子上杉治憲が家督を継承し藩政の改革を進めて危機的状況の米沢藩を救うべきと提言していた。
  • 藩主上杉重定は養嗣子を迎えてから男子3人の子宝に恵まれており、米沢新田藩主上杉勝承に嫡男がいないことから、上杉重定の子を勝承の嗣子とすることを求めた。
  • 上杉勝承には弟勝職31歳がおり、幼い上杉重定の3人の子より嗣子に相応しいが、上杉治憲が藩主を継承させるために、上杉勝承は上杉重定の求めに応じた。
  • 明和4年(1767年)藩主上杉重定は病気を理由に隠居し養嗣子上杉治憲が家督を継承した。上杉勝承の嗣子に重定の子を迎えることは内定していたが幼かったので、天明3年(1783年)になって前藩主上杉重定の三男勝定が正式に養嗣子となった。
  • 上杉勝職は500石の旗本金田正峯の次女と婚姻し、金田正峯の婿養子となり金田正矩と改名した。本来なら米沢新田藩主を継承できる立場だったのに、上杉治憲が藩主を継承する為の犠牲者になってしまった。金田正矩は義父正峯の隠居に伴い44歳で家督を継承した。
  • 上杉重定は、隠居後も華美な生活をしていたが、藩主上杉治憲は前藩主の協力を得て改革を進めるために黙認していた。
  • 上杉重定は子供たちが成長すると、次男治広 が上杉治憲の養嗣子となった。
  • 天明5年(1794年)に治憲の隠居にともない第十代米沢藩主上杉治広が家督を継承した。治憲は隠居後も藩政改革を推進し享和2年(1802年)剃髪し上杉鷹山と称した。今日では名君として上杉鷹山の名前のほうが有名である。
  • 前藩主上杉重定は寛政10年(1798年)に79歳で死去。長男勝煕は庶子の為家督を継げなかったが、長男斉定が 叔父の米沢藩主上杉治広の養嗣子となり文化9年(1812年)に米沢藩主を継承した。勝煕の四男勝義も叔父勝定から米沢新田藩主を継承した。
  • 上杉鷹山は、前藩主上杉重定の子上杉治広や孫の斉定を立派な米沢藩主に育成し、死の翌年文政5年(1823年)米沢藩の借財を完済し財政再建を果たしたのであった。
 
 ◎上杉鷹山の米沢藩主擁立に係ることで三河金田氏の実像を帰結することができた

米沢新田藩の藩主上杉勝承の唯一の弟であった上杉勝職が、金田正峯の婿養子となり500石の旗本金田正矩として歩んだ人生に深い因縁を感じざるを得ません。
米沢藩主上杉重定を隠居させる為に、上杉勝職が重定の子(後の勝定)に米沢新田藩の藩主継承権を譲ったことにより名君上杉鷹山誕生に貢献したはずなのです。
上杉鷹山は日本史に出てくる有名な人物となりましたが、500石の旗本として人生を歩んだ金田正矩は、人知れず巣鴨高岩寺で眠っています。

ホームページ管理人の墓石は、隣が金田正峯の墓石・その次が金田正峯の墓石である。三河一族の実像を研究するまでは、金田正峯一族の墓を意識したことも無かったが、上杉鷹山の藩主擁立の為にじこ自己犠牲の道を選んだ上杉勝職(金田正矩)を一族の誇りに思いました。
 
 
 吉良上野介の直系の子孫である米沢藩主上杉家と三河金田氏の因縁
 旗本金田氏の実像にて、関東の争乱で上総国から追放された金田正興・正頼父子が三河国一色村に住し、その後松平清康・広忠そして徳川家康に仕えてきた三河金田氏歴代の歩みを辿り、実像を解明してきた。
  • 金田正興・正頼父子が三河国一色村にて事実上の配流生活についていた。その後監視も緩み三河国の名門東条城主吉良持清と交流を結ぶことが出来、これが縁で安祥城松平清康の家臣となるのである。松平清康は持清から偏諱を受け清康と称したことからも、松平・吉良両家が親密な関係だったことがわかる。
  • 安祥城主松平清康は岡崎城主となり三河国を統一した。守山崩れで清康が暗殺されると、岡崎城は織田信秀と姻戚関係のある松平信定に乗っ取られ、清康の嫡男仙千代は伊勢国に逃れる。吉良持清から家督を継承した吉良持広の偏諱を受け仙千代は松平広忠と称した。吉良持広の支援があって伊勢国神戸の吉良氏の所領にて松平広忠主従は雌伏の日々を過ごした。
  • 松平広忠に近習として仕えた金田正頼は、吉良持広の支援を得る働きで広忠に貢献した。そして長男正房・次男正祐とともに 広忠に忠義を尽くし、今川義元の支援を得た松平広忠は岡崎城に帰還を果たすことになる。
三河金田氏が徳川家康の父祖の代に仕えたのは、東条城主吉良持清の仲介によるもので、岡崎城を逃れた松平広忠主従を救ったのは吉良持広だったのである。
徳川家康は織田信長との同盟を結んだので、父祖が広忠の近習だった金田祐勝は三河を離れ堺にて金田屋を営みながら家康の為に諜報活動に専念していた。関ヶ原の戦いで徳川家康が覇権を握ると金田祐勝は武士に戻り伏見城で家康に仕えた。その子孫が旗本金田氏なのである。
東条吉良氏と西条吉良氏は、西条吉良氏の吉良義安が両家を継承したことで統合された。江戸時代になり吉良義安の子孫が幕府の高家として処遇され、吉良上野介義央こそ吉良氏の当主だったのである。
上記系図を見ていただければ、米沢藩主上杉家は吉良上野介義央の直系の子孫だったことは明白である。
  • 岡崎城主松平氏(後の徳川氏)に三河金田氏が仕える仲立ちを吉良氏が行ってから、180年を経って吉良上野介義央の曾孫である上杉勝職が金田正峯の婿養子になり金田正矩と改めたことで、吉良氏と金田氏が因縁によって結ばれていたことが証明された。
  •  20年後、金田遠江守正勝の系譜を継ぐ旗本3,000石の金田正延が、徳川家康の次男結城秀康の系譜を継ぐ津山藩主松平長孝五男松平長彛を養子に迎え金田正彛と名を改めたことも、松平氏(徳川氏)と金田氏が因縁によって結ばれていたことを証明したと考えられる。
三河金田氏の実像を研究したからこそ、旗本金田氏に米沢藩の上杉氏や津山藩の松平氏から養子縁組について謎が解けた。
これは金田正興・正頼父子が三河国一色村で始まった松平家(後の徳川家)への忠勤の歴史で、当時東条城主だった吉良氏と安祥城主だった松平氏との因縁が200年後に両家との養子縁組で帰結したものだったのである。
 
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