元亀3年 |
1572年 |
長谷川正長三方ヶ原の戦いで討ち死。当時長男正成は9歳・宣次は7歳・正吉は4歳だったと推定される。 |
天正4年 |
1576年 |
長谷川正成徳川家康の小姓として仕える。正成13歳 |
天正7年 |
1579年 |
三男正吉は11歳で同年齢の秀忠の小姓として仕える。正吉が選ばれたのは秀忠と同年齢だったのが理由らしい。その後永く仕えたので栄進し4070石を賜う。 |
天正10年 |
1582年 |
次男宣次徳川家康の小姓として仕える。宣次17歳 |
天正18年 |
1590年 |
豊臣秀吉の小田原攻めに徳川家康に次男宣次がお供する。宣次25歳 |
慶長5年 |
1600年 |
関ケ原の戦いで長男正成は秀忠に属し500石を賜う。正成37歳 |
慶長10年 |
1605年 |
徳川秀忠第二代征夷大将軍に任じられる。 |
慶長13年 |
1608年 |
次男正吉が死去。享年40歳 11歳より秀忠に永く仕えたので遺領4070石。但し四女のみで養子となる甥の正信(正成の長男)は13歳だった。 |
慶長16年 |
1611年 |
財政上も江戸が中心となり将軍秀忠の権力基盤が強化された。秀忠の娘勝姫が越前松平家の藩主忠直に嫁ぎ、長男正成1000石加増され勝姫に仕える。正成48歳 家禄1500石 |
慶長17年 |
1612年 |
次男宣次死去。享年47歳 宣次→宣元→宣重→宣就と継承されるが宣就より前の禄高は不明
- 宣元は秀忠の小姓から駿河大納言忠長に仕えることになったが、寛永9年忠長改易となり13年まで謹慎の状態で、その後家光に仕え寛永15年43歳で死去
- 宣重は寛永15年に家督を継承し寛文11年死去
- 宣就が寛文11年に家督を継承し家禄400石を知行すると寛政重修諸家譜に記載
宣就→宣安→宣尹→宣雄(宣尹の弟・兄の養子)→宣以(鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵) |
慶長19年 |
1614年 |
大坂夏の陣 正吉の長女が嫁いだ長谷川正信に嫡男正相が誕生した。正信19歳 |
慶長20年(元和元年) |
1615年 |
大坂冬の陣で豊臣氏滅ぶ。冬の陣の戦功で金田正辰500石を賜う。金田正辰19歳 |
元和2年 |
1616年 |
長谷川正成の次男正次が秀忠にお目見え。正成53歳・正次19歳 |
元和4年 |
1618年 |
金田正辰の嫡男正親が誕生。正辰22歳
そのことから元和3年以前に金田正辰に故正吉3女が嫁いだと推測。正辰が20歳~21歳頃 |
元和5年 |
1619年 |
長谷川正次小姓組に列す 正次22歳 |
元和7年 |
1621年 |
長谷川正次廩米(りんまい)300俵を賜う 正次24歳 |
元和9年 |
1623年 |
徳川秀忠将軍職を家光に譲り大御所となる。秀忠・家光叙任の為上洛。
金田正辰の次男正勝が誕生。 |
寛永2年 |
1625年 |
長谷川正成知行1750石に加増される。正成62歳
長谷川正信知行4070石の御朱印を賜る。正信30歳 |
寛永3年 |
1626年 |
長谷川正信御徒に列し、秀忠・家光上洛にお供する。正信31歳 |
寛永8年 |
1631年 |
金田正辰200石加増で禄高700石になる。金田正辰35歳 |
寛永9年 |
1632年 |
長谷川正信書院番組頭・淡路守叙任。正信37歳 |
寛永10年 |
1633年 |
長谷川正次書院番に移り300俵から知行高500石に加増される。正次36歳 |
寛永15年 |
1638年 |
長谷川正成死去享年75歳 長谷川正成の三男正登家督を継承し、父と同様に勝姫(当時は越後高田藩主松平光長の母として高田様と呼ばれた)に仕える。
寛文4年(1664年)正登が62歳で亡くなった時に、正定(長男)が1450石継承し弟の玄蕃某に300石分地した。玄蕃某は宝永6年(1709年)事件を起こし改易追放となった。 |
寛永15年の関係者の年齢 |
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長男 長谷川正信(正吉の養子)43歳 次男長谷川正次41歳 三男長谷川正登38歳 |
金田正辰 42歳 正辰嫡男正親 21歳 正辰次男正勝 16歳 |