三河金田氏の実像
 

 

 
 
三河金田氏の実像
 
 
 第六章 将軍綱吉と金田正勝その4       


第一章 第二章
 
 第六章では城代家老金田遠江守正勝の人物像について探求することが目的である。
ここでは20代の部屋住みだった時期に堺の特権商人金田屋に資金を提供させ、学問・教養・武芸を学ばせ、金田家歴代が堺や伏見で徳川家康のため諜報活動をしてた頃の旧臣たちとの交流などをさせた祖母孝立院や母の実家である旗本長谷川氏などを探求する。

 (8)金田遠江守正勝の人物像その1 金田家譜により年代毎に検証     
 
 
 ◎金田正勝(20代までは家譜に記録が残っていない )
  • 元和9年(1623年)6月24日旗本金田正辰(禄高500石)の次男として江戸に生まれる。母は長谷川讃岐守正吉の娘。
  • 父金田正辰は大坂の陣の軍功で500石を与えられ別家となっていた。金田正末事件など前章までに詳しく述べているので、ここでは省く。
  • 寛永7年(1630年)兄金田正親は11歳で将軍家光に初謁。 正勝8歳
  • 寛永8年(1631年)父金田正辰200石加増で禄高700石になる。正勝9歳
  • 寛永13年(1636年)兄金田正親は17歳で切米200俵の大御番に取立てられる。正勝14歳
  • 慶安4年(1651年)金田正勝が旗本長谷川藤九郎正次の娘と婚姻したと推定される 正勝29歳 ※
兄正親がそれなりの処遇を受けていたが、次男の正勝は部屋住みが20代まで及んだ。20代の最後に明るい兆しが現れた。
 ※第五章(5)将軍家光の遺命で述べたが、三代将軍家光が金田氏再興を図る遺命を老中松平信綱・阿部忠秋に残した。

慶安4年(1651年)将軍家光が没すると、遺命により金田正辰が館林藩城代家老に栄進する道が開かれることになる。
次男正勝も将来旗本として自立できる明るい未来が約束されたので、 正勝の母親が従弟である旗本長谷川正次に縁談を持ち掛け、その娘を正勝の妻に迎えたと推定される。正勝29歳の出来事である。
 
 
 
 ◎金田正勝(人生の転機が訪れた30代)
  • 承応元年(1652年)正勝嫡男正通が誕生。正勝30歳
  • 承応2年(1653年)父金田正辰が御先鉄砲頭を拝命。正勝31歳
  • 明暦2年(1656年)父金田正辰が300石加増で禄高1000石になる。正勝34歳
  • 明暦3年(1657年)6月25日正勝は、将軍家綱に初めて拝謁することができた。正勝35歳
  • 万事2年(1659年)正勝は幕府小姓組番頭森川下総守重名※の組に番士として配属された。正勝37歳
金田正勝が35歳で将軍に初めて拝謁できたのは特筆すべき事項。父金田正辰の出世にともなうものと推測される。
 
 ※ここで注目すべきは小姓組番頭森川下総守重名の組に番士として配属されたことである。

森川下総守重名は将軍家光の代に500石の旗本して小姓組番・書院番を務め、書院番頭から小姓組番頭に順調に出世していた。
寛文2年(1662年)になると、将軍家綱の御側に栄進し3千石を拝領した。舘林藩の奏者番を拝命された金田正勝にとって強力な人脈になったことは間違いない。
寛文4年(1664年)庭普請の務めた森川重名は更に加増され六千石の旗本になった。

森川重名の父森川重俊は将軍秀忠の近習として出世し1万石の大名(下総国生実藩主)になり、最後は老中として秀忠が没すると殉死してしまった。森川重俊の妹が金田正勝の母方の祖父長谷川長吉の妻であり、森川重俊と長谷川長吉は将軍秀忠の近習時代から親しい関係を築いてきた。
三代将軍家光の代になると、嫡男の生実藩主森川重政や次男の森川重名にとって家光の側衆だった長谷川讃岐守長吉は頼りになる存在だったはずである。長谷川讃岐守長吉の外孫にあたる金田正勝が森川重名の組に配属されたのは決して偶然では無いと断言できる。

30代の金田正勝は、中根正盛・長谷川長吉・森川重名などの知遇を得て、武家の典礼など高度な職務について見習いとして学んでいたと考えられる。この時期を有効に生かしたので、舘林藩の奏者番という重要な役職を全うでき、藩主綱吉から絶大な信頼を得ることができたのであった。
 
 
 ◎金田正勝(舘林藩にて奏者番・城代家老に任じられ男盛りの40代)
  • 寛文元年(1661年)館林藩主徳川綱吉に父正辰とともに仕える。正勝39歳 ※
  • 寛文2年 (1662年)6月10日切米300俵の奏者番に取立てられる。正勝40歳
  • 寛文3年 (1663年)8月3日父である城代家老金田正辰病没。享年67歳。主君綱吉から柘植平兵衛を使者に香典として白銀20枚が届く。11月に父正辰の遺領3000石を継承する。正勝41歳
  • 寛文5年 (1665年)11月館林城の城代家老に任じられる。12月に遠江守に任官。正勝43歳
 ※寛文元年(1661年)金田正辰は舘林藩城代家老として新たに3000石を賜る。嫡男金田正親は200俵の代わりに父親の禄高1000石を引き継ぐ。大番に配属となっていた兄金田正親は、寛文4年(1664年)に御先鉄砲頭を拝命。
金田正勝は寛文5年(1665年)11月館林城の城代家老に任じられ、金田遠江守正勝として15年間城代家老の職を全うする。
牧野成貞が家老になったのは寛文10年(1670年)であり、家老としては金田正勝が先輩にあたる。成貞36歳・正勝48歳
後に側用人牧野成貞が幕府内で存在感が大きくなるが、そのために金田正勝が城代家老・御側衆として協力関係を築いてきた結果だと考えられる。そのことについては後述したい。

 
 
 
 ◎金田正勝 50代の大半を城代家老として藩主綱吉に勤仕し、60歳目前に藩主綱吉が将軍に就任。5年間御側衆を勤め64歳で退任。76歳で病没。将軍綱吉と強い絆で結ばれた幸せな人生だった。
  • 延宝8年(1680年)徳川綱吉が五代将軍に任じられる。
  • 天和元年(1681年)金田正勝は、将軍綱吉から御側衆※に任じられ神田橋に屋敷を与えられる。知行高が3000石から5000石に加増される。正勝59歳。
  • 天和2年(1682年)兄金田正親が500石加増され禄高1500石になる。
  • 貞享3年(1686年)病気を理由に御側衆を退任し小石川に屋敷替えになる。以後寄合席に属する。正勝64歳
  • 元禄10年(1697年)隠居し梅山と号す。嫡男正通に4000石次男正則に700石四男正朝に300石を分知し継承させる。75歳
  • 元禄11年(1697年)正勝76歳にて病没。故人の遺物として小信国脇指を将軍に献上の為、若年寄秋元但馬守喬知に差出す。将軍に家臣が形見分けを献上したことは、当時としては異例な出来事であった。
 ※舘林藩の家老で将軍綱吉から御側衆に任じられたのは、牧野成貞と金田正勝の二人だけである。
 
 
(9)金田遠江守正勝の人物像その2 20代金田新太郎→30代金田与三左衛門→40代以降金田遠江守
 ①与三左衛門正勝と30代になって称した特別な事情
 
 舘林藩城代家老に任じられ遠江守正勝と称すようになったが、奏者番の時には与三左衛門正勝と称していた。30代になって与三左衛門正勝と称したのには特別な事情があった。

(与三左衛門の謂れ)
竹千代が戸田弾正の裏切りにより織田信秀に奪われた事件で、竹千代を今川氏に送る責任者だったのが金田与三左衛門正房であった。与三左衛門正房は織田信秀により討たれたが、その忠義は一族にとって誇りであった。

(正勝の謂れ)
大坂の陣で伏見城城番だったのが金田備前守正勝。父金田祐勝とともに堺で徳川家康の天下取りのために諜報活動に従事。関ケ原の戦いで徳川家康の覇権が確立すると、伏見城に召されて父金田祐勝とともに直接家康に仕えた。二代将軍秀忠とその重臣たちは
金田備前守正勝を暗殺し、その子金田正末を改易にしてしまった。
 
 第六章序文の金田氏系図正誤表で説明したが、金田家譜や寛政重修諸家譜に記載の系図は事実と異なっており、正しい系図は金田氏系図正誤表の左側に記載している。三河金田氏の実像では、三河金田氏歴代が松平清康・松平広忠・徳川家康三代に忠勤を励んできたことを探求してきた。しかし二代将軍秀忠の代に堺の金田屋は特権商人として存続を許され、旗本金田氏本流は改易となり僅かな支流が細々と残る有様となってしまった。

三代将軍家光は晩年に旗本金田氏再興を決意したことは岡崎の金田寺へ寺領十石を寄進したからも明白で、老中松平信綱・阿部忠秋と御側中根正盛に金田氏再興の遺命を残したと推定される。
老中たちの方針は「歴史の闇に消し去る為に三河金田氏歴代の記録は金田家譜からも消し去ること」を条件に金田氏再興を図ることであった。

700石の旗本だった金田正辰は老中の方針を受け、金田氏系図正誤表の右側に記載しているように事実と異なる系図で家譜を作成した。三河金田氏歴代の松平氏への功績・忠勤は家譜から消されたり、改ざんされてしまった。

三河金田氏の実像では真実を追求した結果、上記改ざん抹消を訂正し金田氏系図正誤表の左側に記載している系図にいたったのであります。詳しくは序文で述べています。
 (金田与三左衛門正勝と名乗った経緯)
 金田正辰は老中の意向に従った結果、舘林藩の城代家老就任への道が開かれた。
金田正辰の次男新太郎は父とともに舘林藩に勤仕し、奏者番金田与三左衛門正勝として藩主徳川綱吉に仕えることになる。
金田与三左衛門正勝と名乗ることになったのは。祖父金田正勝を系図上では正藤と改名したことと関連しており、金田家譜や系図で
祖父正勝の存在感を薄くする為であった。
 
 
 
 ②祖母孝立院の愛に包まれた少年時代

 第六章序文にて金田遠江守正勝の下記人物関係図について述べてきたが、ここでもう一度下記事項について再確認したい。
  • 松平広忠の近臣だった金田正祐は服部半蔵で有名な服部氏と姻戚関係があった。
  • 金田祐勝は諸事情で岡崎を去り、堺の商人として秘かに家康の為に諜報活動をしていた。従兄弟の服部半蔵正成や京都の茶屋四郎次郎と伊賀忍者を通じてネットワークを築いていた。
  • 金田正勝は堺の金田屋を弟常安に譲り、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康に伏見城で父祐勝とともに仕えた。
  • 金田正勝は伏見城城番に出世し、金田備前守正勝として5000石を拝領していた。
  • 大坂の陣で豊臣氏が滅ぶと、二代将軍秀忠は金田正勝を暗殺し、嫡男金田正行(後に正末)を改易とした。堺の商人金田屋は特権商人として存続を許したが、旗本としての金田氏は歴史の闇に消し去られていった。
  • 以上が金田正辰が舘林藩城代家老に任じられ金田氏再興が図られるまでの出来事である。
●祖母孝立院とは暗殺された伏見城城番だった金田正勝の妻で正辰の母を指す

金田遠江守正勝の少年時代を語るには、祖母孝立院の存在抜きには語ることはできない。
金田家譜では祖母は内藤正守の娘と書かれていたが、内藤正守の年齢を照合すれば嘘であることは明白でなのである。
初代金田屋治右衛門の嫡男として堺で生まれた金田惣八郎正勝は、同じ堺の商人の娘を嫁に迎えたのであった。これが後の孝立院である。商家の若旦那に嫁いだ孝立院はその後波乱の生涯を歩むことになる。
関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、堺で諜報活動していた金田屋治右衛門(金田祐勝)を招き徳川譜代の家臣として伏見城で仕えさせた。金田祐勝55歳の出来事で嫡男正勝35歳も父とともに伏見城で家康に仕えた。堺の金田屋は弟の金田常安が継承した。
孝立院も夫に従い伏見に移り武士の妻となった。自身は30歳前後で子供の正行・正延の年齢は不明だが正辰は4歳であった。

金田祐勝は57歳で没し、金田正勝は出世して大坂の陣の頃には5000石を拝領し備前守と称していました。更に伏見城城番として城代松平定勝(家康の弟)配下の要職を務めたのです。金田正辰も大番に属し夏の陣では軍功を上げ500石を拝領しました。

大坂の陣で豊臣氏が滅びると旗本金田氏は暗転する。
元和元年(1615年)金田備前守正勝は暗殺される。享年50歳。孝立院は未亡人となったが年齢不詳なので40代後半と推定される。
更に家督を継承した嫡男金田正行は謀略により改易処分になってしまった。
金田家譜では金田正行は金田角左衛門正末と称して流浪の身となったと書かれているが、改易後のことは不明。その後に起きた金田正末圭氏事件は第五章で検証している。


●未亡人となった孝立院のその後

孝立院は夫の死後、金田正辰のいる江戸に移った。幕臣の中には金田氏と永く交流があり同情的な人々も多くいたからである。
金田正辰には双子の弟金田正孝がおり、江戸に居をかまえ母と同居していた。
孝立院は商人の娘であり、義理の弟である金田屋常安から資金的援助を引き出し、旧家臣たちの生活援助や味方になってくれる幕臣などとの交際費に充てていた。
孝立院と孫の正勝については後述するとして、金田正辰は老中から家譜の改ざんを求められ応じた際に、母孝立院を家譜から消し去ったのである。父正勝の生国を三河とし正藤と改名して家譜に記載した。母について相知不申候と書くべきところを嘘の記載をしてしまった。
つまり母を親しい関係の旗本内藤正守の同意を得て、両家の家譜に正辰の母親を内藤正守の娘と不実記載をしてしまった。

旗本金田氏の家譜に三河武士との関係を強調する為だが、全くの別人が正辰の母親と家譜に記載されたことに孝立院は寂しい気持だったはずである。
これ以降孝立院は金田正辰との交流は控えるようになり、承応元年(1652年)12月14日に亡くなった。80歳前後だったはずである。
金田正辰が駒込吉祥寺を菩提寺にしていたが、母親を最後まで支えていた弟の金田善太夫正孝は、新たに下谷高岩寺をを母親の菩提寺にして弔った。
このことが縁で金田遠江守正勝とその子孫が高岩寺を菩提寺にして今日まで続くことになる。金田遠江守正勝と祖母孝立院の深い繋がりは下記に記す。
 

 
 
 孝立院についての説明が長くなったが、少年時代の金田遠江守正勝の話に戻す

●金田新太郎

家譜改ざんに連動して金田与三左衛門正勝と名乗ったが、それ以前は「新太郎正通」であった可能性が高い。
諸事情で止む無く改名したが、愛着のある名前を子供に譲ったと確信している、
嫡男には正通を、次男には新太郎を譲ったと考えるのが妥当であろう。
金田正祐が惣八郎を名乗ってから祐勝・正勝(正藤)・正辰と続く歴代は惣八郎を通称としている。正勝の兄正親も惣八郎を受け継いでいる。
新太郎と称したのは、金田惣八郎祐勝が堺で金田屋を開業した時に新八郎を通称としていたことに因むと考えられる。
金田屋にとって新八郎は初代の神聖な通称であることを考慮した結果、新太郎に至ったのではないだろうか。
以下では若き日の金田遠江守正勝を「金田新太郎」と呼ぶことにする。
 
 ●金田新太郎と祖母孝立院

500石の旗本金田正辰の次男に生まれ30代前半まで部屋住みだったことから、若き日の金田新太郎の印象は侘しい印象を持たれるかもしれない。
しかし実際の若き日の金田新太郎は充実した日々を過ごすことができ、将来飛躍する為に必要な知識・教養・人脈・経験を得るための充電期間として活用したと考えられる。
  • 武辺者である兄金田正親に比べ知性派である弟金田新太郎に対して、祖母孝立院は部屋住みという境遇への同情も重なり特別な愛が注がれた。
  • 祖母孝立院は幼い頃から聡明な金田新太郎に亡き夫の面影を感じることができた。「もしも武士にならず金田屋の当主として堺に残っていたら夫は暗殺されることは無かった」という強い思いがあったのである。旗本としては部屋住みとして運が来るのをじっと待って暮らすしかないが、他に新太郎には輝いた人生が待っているのではないか。そのために孝立院が新太郎に何をしてあげられるか斟酌したのであった。
 孝立院は豊富な資金力があったので、新太郎が望む学問や武芸の取得にかかる学費・書物購入などあらゆるを支援をしたのであった。前述したが孝立院は堺の金田屋から支援を受けており、旗本金田氏再興の為に旧家臣の世話や親しい関係の幕臣なごとの交際費に充ててきたのであった。
母孝立院の代理として堺に行ったり諸国に散った旧家臣の世話や交流を図ってきたのが金田善太夫正孝であった。
金田善太夫正孝は金田新太郎を連れて堺に行き金田屋を訪問し、商売や外国貿易の実務を学ばせることができた。諸国に散った旧家臣だった伊賀忍者たちとの交流で、社会の実情や世の中の矛盾を知ったり、旧家臣たちと人間関係を築くことができたのであった。
商家出身の孝立院は、金田新太郎が武士よりも商人のほうが向いているならば、商人として生きることも選択肢だったと考えていたと思える。
20代までにに得た知識や教養・実務体験・旧家臣との交流が、後の城代家老金田遠江守正勝の職務に生きることになる。
 
 
 ●祖母孝立院は愛する孫の新太郎が夫の正勝の名前を継承してくれたことを喜んだ
 
 祖母孝立院は承応元年(1652年)12月14日に亡くなったと既に記したが、家譜から自分の存在が抹消されることは知っていた。
しかし、孫の新太郎が夫の正勝の名前を継承することや正勝の子正通が誕生したことなど吉報が続いていた時期であった。
正辰・正勝親子の栄進は約束されていたことから、自分の不幸より孫新太郎が与三左衛門正勝として飛躍することを願って息を引き取ったと想像される。
第六章序文でも述べたが、金田遠江守正勝は後になって「金田家譜から消し去られた祖母孝立院の霊を供養すること」は自分の責務だと感じていた。
  • 金田遠江守正勝は孝立院の墓がある下谷高岩寺を菩提寺とし、今日までその子孫は代々受け継いできた。
  • 金田遠江守正勝の四男惣兵衛勝延は系図上は若死にしたこととなっているが、実際は金田善太夫正孝の養子となり金田善兵衛経廣として生きた。
  • 高岩寺からは駒込吉祥寺に墓がある金田惣八郎正辰に「霊光院殿常無道叶居士」という戒名が与えられた。これは金田家譜から消された正辰の母親「孝立院殿松室珪樹大姉」が正辰の母堂であることを過去帳に表記し受け継がせる為だった。
  • 高岩寺最古の戒名「孝立院殿松室珪樹大姉」を初代とし、正辰の双子の弟金田善太夫正孝「霜臺院殿大運清意居士」を二代目とし、三代目金田善兵衛経廣「心了院殿證安皎徹居士」として幕末の十代目金田真二郎正喜まで五百石の旗本として続いたのが正孝系金田氏なのである。水道橋の側に屋敷があり隣の旗本万年氏と親交が深かったことは今でも万年芳之助惟親の写真を我家の仏壇で保存していることからも分かる。
  • 正孝系金田氏は金田遠江守正勝によって正勝の祖母孝立院の墓を守る為に創設されましたが、金田家譜から消された真実を子孫に伝える責務を負っているのです。初代が女性では都合が悪いので金田正辰を過去帳に初代として記したのです。
  • 「霊光院殿常無道叶居士」には中興の祖金田庄助正辰父は金田備前守正治と記してあります。何かあったら言い逃れが出来るように小細工がされたようです。金田庄助とは金田正祐を意味し、金田正辰が別家として自立したように、金田正祐の代に別家として自立した意味を込めたものです。正辰の父正勝は金田家譜で正藤と改名されたのと同じ意味で正治が使用されたもの。但し備前守と称していたことを子孫に伝える意味で書かれたものである。
  • 孝立院をはじめ正孝系金田氏の墓石が巣鴨の高岩寺に存在しなければならないが、明治24年(1891年)に上野駅拡張工事の為に高岩寺が巣鴨に移転した際に失われてしまった可能性が高い。当時の正孝系金田氏当主がお墓を守る意味の重要性を認識していなかったので、墓石は一基だけとし残りは破棄されたと思われます。
  • 正孝系金田氏の子孫であるホームページ管理人は孝立院など歴代の墓石が失われたことを残念に思ってきました。「上総金田氏 歴代記」「三河金田氏の実像」と研究を重ねてきましたが、遠い先祖が自分に語りかけてくるのを無意識のうちに感じてきました。我家の仏壇にある過去帳の特徴は女性の戒名が多く、女性の存在が当主の男性よりも目立つのです。金田正辰の母堂「孝立院殿松室珪樹大姉」を初代としたことが、過去帳にも女性中心の系譜にするよう影響したのかもしれません。
  • 第六代金田善太夫正珍の夫人イネ(以祢)は女優の有馬稲子のような美しい方で、天明元年(1781年)35歳で亡くなったことを誰もが悲しみ、高岩寺からは「月桂院殿梅室妙薫大姉」という美しい戒名を授与されました。当時忠三郎と称していた金田正珍は、亡き夫人の忘れ形見である12歳の息子(後の第七代金田正芳)を大切に育て後添えをもらうこともありませんでした。
  • 毎年梅の花が満開になると月桂院殿梅室妙薫大姉のことを偲び冥福を祈っています。他にも女性に係る逸話が残っていますが省略します。
 
 ③金田遠江守正勝の母親や嫁の実家である旗本長谷川氏とは
 ●金田遠江守正勝の母方の祖父長谷川讃岐守正吉は二代将軍秀忠と同年だったことから11歳から仕え、その御近習として長く仕えたこと幸いし4070石を拝領した。下記系図を見ていただければ長兄の長谷川正成や次兄の長谷川宣次に比べ出世頭なことがわかる。但し次兄長谷川宣次の子孫に鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵宣以がいることを特筆したい。

●長谷川氏は藤原秀郷の流れを汲む名門小山氏の一族下河辺行義の子行平・政義兄弟のうち政義より系譜を継いでいる。。
戦国時代になると長谷川氏は駿河国小川城(静岡県焼津市)の城主として守護今川氏に仕えてきたが、長谷川正長の代に武田信玄の駿河侵攻により小川城を失った。今川氏の滅亡後に長谷川正長は徳川家康に仕えたが、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで討ち死にした。当時長男正成は9歳・次男宣次は7歳・三男正吉は4歳だったと推定される。

●長谷川正長には嫡男正成・次男宣次・三男正吉がおりそれぞれ旗本として徳川家に仕えた。
  • 長谷川正成は二代将軍徳川秀忠の娘勝姫が越前松平家の松平忠直に嫁ぎ、後に越後高田藩主松平光長の母として高田殿と呼ばれるまで死ぬまで仕えた。正成が死去すると三男長谷川正登が家禄1750石を継承し高田殿に仕えた。
  • 長谷川宣次は17歳で徳川家康に仕え30年に渡って仕えているのに、禄高功業など不明なのである。これは嫡男宣元が駿河大納言忠長に仕え改易事件に巻き込まれたが影響していると思われる。宣元はその後旗本に復帰し宣重・宣就と続くが、寛政重修諸家譜では宣就の項で400石と家禄が記載されている。多分宣次の代から400石はあったと想像されるが確証はない。どちらかといえば不運なイメージの宣次の系譜だが、子孫に鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵宣以が出現して歴史上長谷川氏を有名にする。
  • 長谷川長吉は二代将軍秀忠と同年齢だったので、11歳から秀忠に仕え40歳で死去する。40歳で4070石を秀忠から拝領していたのなら、二代将軍秀忠に永く仕えたら大名に出世したことは間違いない。長谷川讃岐守長吉は金田正辰の義父であるが系譜に書かれてる事項は謎が多い。
金田正辰は長谷川氏と縁戚関係を結び、次男正勝にも長谷川氏から嫁をもらっている。金田氏と長谷川氏の縁戚関係について理解するために下記系図と旗本長谷川氏年譜を参考にしていただきたい。
 

 旗本長谷川氏年譜
 
元亀3年 1572年  長谷川正長三方ヶ原の戦いで討ち死。当時長男正成は9歳・宣次は7歳・正吉は4歳だったと推定される。
天正4年  1576年 長谷川正成徳川家康の小姓として仕える。正成13歳
天正7年 1579年  三男正吉は11歳で同年齢の秀忠の小姓として仕える。正吉が選ばれたのは秀忠と同年齢だったのが理由らしい。その後永く仕えたので栄進し4070石を賜う。
天正10年 1582年 次男宣次徳川家康の小姓として仕える。宣次17歳
天正18年 1590年  豊臣秀吉の小田原攻めに徳川家康に次男宣次がお供する。宣次25歳
慶長5年 1600年 関ケ原の戦いで長男正成は秀忠に属し500石を賜う。正成37歳
慶長10年 1605年 徳川秀忠第二代征夷大将軍に任じられる。
慶長13年 1608年 次男正吉が死去。享年40歳  11歳より秀忠に永く仕えたので遺領4070石。但し四女のみで養子となる甥の正信(正成の長男)は13歳だった。
慶長16年 1611年 財政上も江戸が中心となり将軍秀忠の権力基盤が強化された。秀忠の娘勝姫が越前松平家の藩主忠直に嫁ぎ、長男正成1000石加増され勝姫に仕える。正成48歳 家禄1500石
慶長17年 1612年 次男宣次死去。享年47歳  宣次→宣元→宣重→宣就と継承されるが宣就より前の禄高は不明
  • 宣元は秀忠の小姓から駿河大納言忠長に仕えることになったが、寛永9年忠長改易となり13年まで謹慎の状態で、その後家光に仕え寛永15年43歳で死去
  • 宣重は寛永15年に家督を継承し寛文11年死去
  • 宣就が寛文11年に家督を継承し家禄400石を知行すると寛政重修諸家譜に記載
宣就→宣安→宣尹→宣雄(宣尹の弟・兄の養子)→宣以(鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵)
慶長19年 1614年 大坂夏の陣 正吉の長女が嫁いだ長谷川正信に嫡男正相が誕生した。正信19歳
慶長20年(元和元年) 1615年 大坂冬の陣で豊臣氏滅ぶ。冬の陣の戦功で金田正辰500石を賜う。金田正辰19歳
元和2年  1616年  長谷川正成の次男正次が秀忠にお目見え。正成53歳・正次19歳 
元和4年 1618年 金田正辰の嫡男正親が誕生。正辰22歳
そのことから元和3年以前に金田正辰に故正吉3女が嫁いだと推測。正辰が20歳~21歳頃 
元和5年 1619年 長谷川正次小姓組に列す 正次22歳
元和7年 1621年 長谷川正次廩米(りんまい)300俵を賜う 正次24歳
元和9年  1623年 徳川秀忠将軍職を家光に譲り大御所となる。秀忠・家光叙任の為上洛。
金田正辰の次男正勝が誕生。
寛永2年 1625年 長谷川正成知行1750石に加増される。正成62歳
長谷川正信知行4070石の御朱印を賜る。正信30歳
寛永3年 1626年 長谷川正信御徒に列し、秀忠・家光上洛にお供する。正信31歳
寛永8年 1631年 金田正辰200石加増で禄高700石になる。金田正辰35歳
寛永9年  1632年  長谷川正信書院番組頭・淡路守叙任。正信37歳 
寛永10年 1633年 長谷川正次書院番に移り300俵から知行高500石に加増される。正次36歳
寛永15年 1638年 長谷川正成死去享年75歳 長谷川正成の三男正登家督を継承し、父と同様に勝姫(当時は越後高田藩主松平光長の母として高田様と呼ばれた)に仕える。
寛文4年(1664年)正登が62歳で亡くなった時に、正定(長男)が1450石継承し弟の玄蕃某に300石分地した。玄蕃某は宝永6年(1709年)事件を起こし改易追放となった。
 寛永15年の関係者の年齢   
  長男 長谷川正信(正吉の養子)43歳 次男長谷川正次41歳 三男長谷川正登38歳 
 金田正辰  42歳   正辰嫡男正親 21歳   正辰次男正勝 16歳 

 
 ④長谷川讃岐守長吉に対する疑問点
 金田正辰の義父長谷川讃岐守長吉については謎は下記のとおりです。
  • 寛政重修諸家譜の編者は長吉が11歳から秀忠に仕官してることや40歳で死去したのが寛永諸家系図伝では慶長12年となっていることなどの疑問点を指摘しています。
  • 金田家譜でも長谷川讃岐守長吉を元御側衆と記していますが、慶長13年以前に御側衆という職制があったのか疑問なのである。
  • 将軍秀忠が慶長10年に叙任されてからの3年間で、政治の実権を大御所徳川家康が掌握している段階で、鷹狩の為の鷹を飼育するための別荘85000坪(東京ドーム6個分)の別荘を賜ったという記述をどう判断したらいいのか迷う。
  • 慶長13年(1608年)長谷川讃岐守長吉は四女を残し40歳で死去したので、兄正成の長男正信13歳が家督を継承したことになっている。
  • 養子長谷川正信は正吉の長女を妻とし娘婿でもあるので、家督継承には支障はない。しかし、実際の夫婦生活が始まったのは18歳頃からのはずで、養子正信の立場は弱いものだったはずである。
  • 驚くべきは養子長谷川正信が家禄4070石の御朱印を賜ったのは、慶長13年から17年経った寛永2年で正信は30歳になってしまったのです。17年の間4070石は誰が管理していたのか謎なのである。
 
 長谷川讃岐守長吉4070石の謎解き
 上記の謎を解くには慶長13年の頃は二代将軍秀忠が将軍に叙任されてから3年で権力基盤が弱かった時期だったことと、寛永2年の頃は秀忠が三代将軍家光に将軍職を譲って2年であるが実権を確保していた時期だったことにヒントが隠されているのである。
秀忠が11歳の頃から同じ年の長吉がお側に仕え忠義を尽くしてくれたが、将軍に叙任されても大御所家康に遠慮していた時期だったので、長吉の死を悲しんでも養子の正信に加増などをしてあげる余裕はなかったのであった。

17年経ち長谷川正信が30歳になり三代将軍家光に仕えていたことを大御所秀忠が知り、「もしもお側で仕えた長谷川正吉が40歳で死ななければ十分な禄高を与えることができたのに」と正吉を偲ぶとともに遺族の処遇を考えた。
秀忠は亡き長谷川正吉の忠義に報いる為に、当時御側衆という職制は無かったのに故長谷川長吉を秀忠の将軍時代に遡って御側衆に任じたのであった。家光の時代から現実に御側衆という職制ができるのだが、最初はこのような経緯で始まったのかもしれない。

 義父長谷川正吉の家禄4070石を継承するのに17年の歳月が過ぎ長谷川正信が30歳になった謎は以下のように解明した。
  1. 少年時代から秀忠のお側に近習として仕えてきた長谷川長吉は、禄高も身分も不十分な40歳で死去してしまった。
  2. 長吉には四女がいたが嫡男が無く、娘婿になる甥の長谷川正信が13歳で養子になったが、栄進することもなく30歳になってしまった。
  3. 大御所秀忠は故人である長谷川正吉を将軍時代に遡って秀忠の御側衆に任じ4070石を与えるという異例の形式をとり、長吉の家督4070石を17年もたった30歳になって継承したという形態にしたのが真相だったのである。
 
 金田正辰と長谷川正信の強い絆
 上記の推理の結果、長谷川正信が義父正吉か家督を相続したのが13歳だったので、その後出世も出来ず家禄も500石前後で30歳となっていましたが、大御所秀忠が亡き長谷川正吉を偲んで正信を4070石に加増させ栄進を取り計らってくれたことが判明しました。
これにより、窓際族の金田正辰が「将軍秀忠の御側衆として出世していた長谷川讃岐守長吉の娘婿になれた謎」も解けました。
金田正辰は親交を結んでいた長谷川正信から妻の妹(故長谷川正吉の三女)を紹介され、その後お互いに気持ちが通じ恋愛結婚となったというのが真相のようです。下記にて長谷川正信 と金田正辰の絆を時系列で記述しました。
  • 元和2年~3年頃金田正辰は、大御所家康が亡くなった影響で兄金田正行は改易となって以降500石の旗本ではあったが、将軍秀忠に疎まれた人生となってしまった。
  • 旗本長谷川氏は将軍秀忠とは良好な関係だったが、当時長谷川正成(正信の実父)は1500石の旗本であったが、秀忠の娘勝姫に従い越前藩へ出向している立場だった。
  • 義父長谷川長吉が将軍秀忠にお互いが11歳の時から側に仕え、将軍秀忠に側に仕えているだけの長吉を優遇することができなかった時期※に死去した為、養子の長谷川正信は500石前後ぐらいの禄高だった。
  • 長谷川正信は成人しても出世することなく「義父が生きていてくれたら」という悔しい思いを募らせていました。同じように「東照宮がもっと長生きしていたら先祖代々の忠臣である金田氏を疎かにしなかった」という悔しい思いをしていた金田正辰と出会い、お互いに意気投合をしたことが交友の始まりだったのです。
  • 金田氏は家康の父松平広忠の代には今川氏と松平氏の同盟に尽力したことが、織田徳川両氏が清州同盟 を結んだ後に不遇な立場になった歴史について、今川氏の家臣だった長谷川氏と共感できたことにより、金田正辰と長谷川正信は強い絆で結ばれていました。
  • 金田正辰は長谷川正信の妻の妹を嫁にもらったのは、長谷川正信が二人の恋の取り持ち役になったことで、お互いに共感する何かを感じ恋愛結婚で結ばれたと思われます。
  • 長谷川正信は4070石の御朱印を賜り御徒に列し、翌年には上洛時の将軍家光の警護にあたった。寛永9年には御書院番の組頭に任じられ淡路守を叙任された。寛永16年(1639年)44歳で死去。正信の代から駒込吉祥寺を菩提寺にした。金田正辰も駒込吉祥寺を菩提寺にしたことで両家の縁の深さを感じる。

※徳川家康は家臣への俸禄はケチだったのは有名で、名参謀本多正信ですら2万2千石(一説には1万石)だった。将軍になってまだ実績のない頃の秀忠が、近習として永く仕えただけの理由で長谷川正吉に4070石を与えることは無理だったのである。
 
 ⑤金田与三左衛門正勝と義父長谷川正次(その血脈は押田氏を介して十二代将軍徳川家慶に・・・・)
 金田遠江守正勝は慶安4年(1651年)29歳の頃長谷川正次の娘と婚姻した。
当時は金田新太郎と名乗りまだ部屋住みだった。但し三代将軍家光の遺命により金田氏再興が図られる動きが始まり、新太郎の未来にも光明が差し始めていた。
慶安4年(1651年)だったと仮定すると長谷川正次54歳、兄正信が叔父正信の家督を継承し、弟正登が父正成の家督を継承したのに対し、自力で知行高500石を獲得した努力の人です。小姓組・書院番を歴任し当時は中奥御番を務めていた。
しかし、嫡男正重は4歳と幼く唯一の一人娘を、当時部屋住みの若者に嫁がせる長谷川正次の気持ちは如何なものだったのか。
この結婚には下記のように特筆すべきことがあるのでここで述べたい。
  • この結婚は金田正辰の妻で新太郎の母が従兄弟の長谷川正次と縁談の話をすすめたと考えられる。
  • 長谷川正次は金田新太郎に一人娘を嫁がせることで、幼い息子(正重)に義理の兄ができることを喜んだ。
  • 長谷川正重は順調に成長し正次の系譜は幕末まで続いた。
  • 金田新太郎は後に金田与三左衛門正勝と改名し遠江守を叙任されて、舘林藩城代家老を経て五代将軍綱吉の御側衆に栄進する。
  • 金田遠江守正勝夫妻の次男金田正則の 子孫が、金田氏と深い絆で結ばれた押田氏を介して将軍家と血脈を通じることになった。
下記系図について説明をするには金田遠江守正勝と押田三左衛門直勝の交友から始めたい。
  • 天正18年(1590年)小田原の役で北条氏に属していた佐倉城主だった千葉宗家も改易となり、家臣だった押田氏も所領を失った。
  • その後徳川家康の家臣となることができ、500石の旗本として押田氏は残ることができた。
  • 押田直勝の代になると、舘林藩主徳川綱吉の御用人として仕えることになり1700石に加増された。
  • 更に徳川綱吉が五代将軍に就任すると、綱吉の嫡子徳松が舘林藩主となり押田直勝は傅役を任せられると2200石に加増された。
  • 舘林藩の役職者のなかで先祖が千葉宗家の家臣だったことが縁で、金田遠江守正勝と押田三左衛門直勝は親交を結ぶことができた。
  • 二人の親交は子孫にも受け継がれ、孫の金田正利は一人娘を孫の押田栄勝の息子押田勝輝に嫁がせた。夫婦の間に押田敏勝が生まれ、本家である押田勝久の養子になった。
  • 押田勝久の三女が十一代将軍家斉の側室になったのがお楽の方(香琳院)である。家斉の次男を産み後の十二代将軍家慶となった。
  • 香琳院は家慶がまだ世子の段階で亡くなったので、将軍家慶を見ることは出なかった。
  • 下記系図を見ていただければ、長谷川正次の一人娘が金田正勝に嫁ぎ、金田正利の一人娘が押田勝輝に嫁ぎ、生まれた押田敏勝が押田直勝から続く本家の押田勝久の養子になり家督を継承し、押田敏勝の娘が将軍の母になるという幸運が起きたのです。長谷川氏と金田氏の絆が血脈として金田氏と押田氏の血脈に受け継がれ、最後に徳川将軍家と血脈が繋がった天が与えた奇跡だと思います。
  • 武士の時代を始めた時の鎌倉殿である源頼朝に仕えた下河辺政義(藤原秀郷流)の子孫である長谷川氏、同じく桓武平氏上総介広常の弟の子孫である金田氏、同じく信濃源氏源頼隆の子孫である押田氏と、武士の名門である源氏平氏藤原(秀郷流)の血脈が将軍家慶へと受け継がれたのである。
  • 将軍家慶の亡くなる年に黒船が来航し幕末の動乱が始まったことを考えると、武士の時代が終わることを歴史上予告するために生まれてきた将軍だったような印象が残るのである。
 
 

 
 ⑥金田氏と押田氏の鎌倉時代から続く絆
 信濃源氏出身で千葉常胤に庇護されていた源頼隆は、鎌倉殿に馳せ参じると源氏の一門として優遇された。孫の押田頼広が押田氏の祖となり以後千葉宗家に仕える。以後押田氏は八日市場城主となり千葉宗家に重臣として歩むことになる。
上総介広常の弟頼次を祖として金田氏は千葉氏の支流として歩んだ。途中金田成常の子胤泰が叔父の養子になり鏑木胤泰と称した。
胤泰の長男鏑木家胤が鏑木城主として千葉氏の重臣として歩む。次男蕪木常泰が蕪木城主となり常信の代に金田姓に復した。詳しいことは上総金田氏歴代記に譲るが、八日市場城と鏑木城は近かったので鏑木氏と押田氏は血縁関係を結ぶこともあったのである。
戦国時代押田昌定は千葉介昌胤・利胤・胤富に仕えた勇猛な武将だったとされるが、三河金田氏の祖金田正興の兄金田正信の娘が千葉介昌胤の夫人なのである。利胤・胤富兄弟は昌胤夫妻の子なのである。
押田昌定は勝見城主だった金田正信の無念の死と金田正興が三河国に追放されたことをよく知ってた人物なのである。

押田昌定の子孫である押田直勝が、舘林藩で金田正勝とともに藩主綱吉に仕えることになった時、両家の絆を感じたことは間違いない。
戦国時代小田原北条氏の支援で里見氏などから千葉氏を守った千葉介胤富だったが、結局千葉氏は北条氏の支配下に組み込まれてしまった。そのような辛い立場だった千葉介胤富だったが、母方の親族金田正興・正頼のことを気遣っていたのである。
千葉大系図に金田正興が三河国へ去ったことが記載されたのも、千葉介胤富の指示によるものである。
そのような主君の思いを良く知っていたのが重臣押田昌定で、その子孫である押田直勝にも伝わっていたはずである。
金田正勝と押田直勝が舘林藩で出会いその子孫にまで絆が続いたのは、千葉介胤富の意向が天に通じたので見えない力が働いた証拠だったのではないだろうか。

押田直勝は旗本時代から屋敷に寄食させていた鏑木氏胤を城代家老金田正勝に紹介した。
鎌倉時代鏑木胤泰が長男鏑木家胤に鏑木城を与え、次男常泰に蕪木城を与え金田氏再興を託してから400年経ち、家胤の子孫鏑木氏胤と常泰の子孫金田正勝が出会うことが出来たのも神仏の巡り合わせだったのではないか。
城代家老金田遠江守正勝と御用人押田三左衛門直勝の推薦で、鏑木氏胤は舘林藩に仕官することができた。
藩主綱吉が将軍になると鏑木氏胤も150石の旗本となるが、その後旗本鏑木氏は養子を繰り返し絶家となってしまった。残念なことである。